奥原晴湖(天保8年~大正2年)の「富貴飛燕」と「芙蓉翡翠」は対幅の作品である。
作品の題名も両方とも<ふ>と<ひ>の2字で韻を踏んでおり、これまた対のようになっている。
「富貴飛燕」における富貴とは牡丹のことであるが、画賛の詩では「花柳満江南」とあっても、牡丹を意味する言葉は直接には出てこない。
しかし、燕の鳴き声は、暖かな春靄がかかった村の中に聴覚を刺激するものとして登場しており、画賛の中でも印象深い。
花柳満江南
江村暖靄含
茅堂新燕子
終日話喃ヽ
一方「芙蓉翡翠」では、芙蓉と題された詩がそのまま賛となってこの花が称えられているが、鳥の名前である翡翠は出てこない。
十里豈辞遠
芙蓉紅映池
村荘聯幾榻
秋半正佳時
この作品の中で絵の主題と画賛である詩の内容との関係はこのようなものであって、その内容が相反するということはないが、完全に一致しているというようなものでもない。
また「富貴飛燕」の作品名では、牡丹と燕しか示されていないが、この作品では、誰の目にも明らかなように、燕は富貴ではない白い花の周りを飛んでいるのであるから、この花を無視してはならない。
では、その白い花は何だろうか。
それは「玉堂富貴」という言葉があるが、そこにヒントが隠されている。
玉堂の玉とは玉蘭の玉であり、それは白木蘭(白木蓮)を意味する。つまりその白い花とは白モクレンに他ならない。
その何よりも良い図像上の証拠に、晴湖同年の作で「玉堂飛燕図」という作品がある。
すなわちこの作品では、玉堂の玉である白モクレンと、玉堂の堂である海棠が白モクレンの下方に描かれており、燕は「富貴飛燕」と同じく白モクレンの周りを飛んでいるのである。
そして「玉堂飛燕」にも「富貴飛燕」と全く同じ五言絶句が画賛となっている。
つまり、画賛は必ずしも一つの作品(の精神に)だけ不即不離の関係にあるというような窮屈なものである必要もないのである。
因みに、晴湖は明治12年には「玉棠冨貴図」を描いており、ここには3つの花々がすべて描かれ、艶を競っている。その上、ここでは、晴湖の特徴的な富貴の蕾の描き方がよく分かり、茨城県近代美術館蔵の「富貴飛燕」の図像理解の助けにもなる。
作品の題名も両方とも<ふ>と<ひ>の2字で韻を踏んでおり、これまた対のようになっている。
「富貴飛燕」における富貴とは牡丹のことであるが、画賛の詩では「花柳満江南」とあっても、牡丹を意味する言葉は直接には出てこない。
しかし、燕の鳴き声は、暖かな春靄がかかった村の中に聴覚を刺激するものとして登場しており、画賛の中でも印象深い。
花柳満江南
江村暖靄含
茅堂新燕子
終日話喃ヽ
一方「芙蓉翡翠」では、芙蓉と題された詩がそのまま賛となってこの花が称えられているが、鳥の名前である翡翠は出てこない。
十里豈辞遠
芙蓉紅映池
村荘聯幾榻
秋半正佳時
この作品の中で絵の主題と画賛である詩の内容との関係はこのようなものであって、その内容が相反するということはないが、完全に一致しているというようなものでもない。
また「富貴飛燕」の作品名では、牡丹と燕しか示されていないが、この作品では、誰の目にも明らかなように、燕は富貴ではない白い花の周りを飛んでいるのであるから、この花を無視してはならない。
では、その白い花は何だろうか。
それは「玉堂富貴」という言葉があるが、そこにヒントが隠されている。
玉堂の玉とは玉蘭の玉であり、それは白木蘭(白木蓮)を意味する。つまりその白い花とは白モクレンに他ならない。
その何よりも良い図像上の証拠に、晴湖同年の作で「玉堂飛燕図」という作品がある。
すなわちこの作品では、玉堂の玉である白モクレンと、玉堂の堂である海棠が白モクレンの下方に描かれており、燕は「富貴飛燕」と同じく白モクレンの周りを飛んでいるのである。
そして「玉堂飛燕」にも「富貴飛燕」と全く同じ五言絶句が画賛となっている。
つまり、画賛は必ずしも一つの作品(の精神に)だけ不即不離の関係にあるというような窮屈なものである必要もないのである。
因みに、晴湖は明治12年には「玉棠冨貴図」を描いており、ここには3つの花々がすべて描かれ、艶を競っている。その上、ここでは、晴湖の特徴的な富貴の蕾の描き方がよく分かり、茨城県近代美術館蔵の「富貴飛燕」の図像理解の助けにもなる。