メットの館長経験者はこんなことを言っている。
「わたしはメトロポリタン美術館に15年ほど在職し、そのあいだにあらゆる分野の美術品を5万点は調べたと思う。じつにその40パーセントが、偽物か、修復しすぎたものか、年代の特定をまちがえたせいで贋作同然に扱われても仕方がないようなものだった。その後、偽物が占める割合はさらに大きくなっているものと思われる。」
また私の身近なところでは、小川芋銭の作品について、小川芋銭研究センターの首席学芸員が『小川芋銭全作品集』(挿絵編)で近年こう書いている。
「芋銭は贋作の非常に多い画家でもある。市中に出回っている作品の七~八割は、真筆と認めがたいと囁かれているほどである。「小川芋銭研究センター」を立ち上げてから、多くの芋銭作品が持ち込まれたが、総てと言っても良いほど一顧に値しないものばかりで、気持ちの晴れ晴れする作品に巡り合う機会には恵まれなかった。」
大変な数である。ここまでの数値は私もちょっと予想できなかった。芋銭の贋作がこんなにも多いとは思わなかった。
もっとも、私の経験でも、たまたま見たネットオークション経由の、中村彝の真作と思われるものは、1点たりともなかった。
それらは、明白な贋作がすべてであり、持ち主には気の毒だが、一見しただけでそれと判断できるものばかりであった。
美術館では贋作をそれと知って展示することは、特別な場合以外はないが、知らずに展示してしまうことはあるだろう。
あるいは館内でもその作品についての扱いが明確でないものは、展示されてしまうことはあるだろう。
しかし、悲しいのは、自分では真贋が分からないのに、その美術館の慣習に従うだけで、学芸員が展示しない場合だ。
美術館に収蔵されている作品は、すべて真作と見做してよいはずであるが、実際には、館内において贋作の疑いがあって展示できない作品がある場合もある。
本来そうした作品がある場合は、館としての明確な見解を出しておくべきなのだが、噂や館内での言い伝えでそうなっていることもままあるようだ。触らぬ神に祟りなしのまま相当年数放置されている状態である。
そういう場合、やはり研究しなければならない。学芸員個人がそれぞれに心の中だけで疑念を抱いているだけではだめなのだ。
個人で心許ないなら、グループの研究という形をとって、紀要論文にまとめ上げ、どこまでが分かっており、どこからが分からないのか、または、どこが分からないのか、はっきりすべきだ。
私の経験では、長年展示されずに、あってなきがごとき扱いの作品があった。
しかし実際に調べてみると、なぜその作品が贋作扱いされてきたのか根拠が解らない、そういう作品であった。
例えば幾つかの版画は、すべてリトグラフとなっていた。その中には、明らかに凹版画であり、よく見ればドライポイントであることが分かるのに、リトグラフとされたまま、贋作扱いされていたものがあった。
これは贋作か真作か以前の問題で、最初から技法の識別がなされていなかったという例だ。
美術書で版画の技法について知っていても、実際には自分の眼で何も確かめることができないのなら、謙虚に無知のままでいた方がいい。
贋作と噂されていた作品には、確かに真作とは呼べないような作品もあったが、それ以前の問題もあったのだ。
しかし、一括寄贈や、一括購入などの作品の中には、贋作が混じっている場合も確かにあるかもしれない。
こうした場合、寄贈者や資金の提供者、もしくは上司の仕事に遠慮して、なかなか贋作が混じっている(いた)とは言えないことも、あるようだ。
それが館内の言い伝えという形で引き継がれていくのかも知れない。
しかし、館内でそれが共有されているだけでは不十分である。それは、単なる無責任体制に繋がるだけかもしれない。
もちろん美術品は値段があまりに高いから、真実がわかった場合の予想外の影響の大きさという心配も確かにあるにはあるだろう。
場合によっては、名誉毀損などの裁判に巻き込まれる恐れだってなしとはしないし、そこに良からぬ者が絡んでいたら、刑事事件にすら発展するかもしれない。
実際に現実の世界で、それは贋作です、と言うのには、大きな勇気が必要だ。
いや仲間内や陰で言うのはまだ容易かも知れない。
それを公然と文字にして表現するのが難しいのである。
「わたしはメトロポリタン美術館に15年ほど在職し、そのあいだにあらゆる分野の美術品を5万点は調べたと思う。じつにその40パーセントが、偽物か、修復しすぎたものか、年代の特定をまちがえたせいで贋作同然に扱われても仕方がないようなものだった。その後、偽物が占める割合はさらに大きくなっているものと思われる。」
また私の身近なところでは、小川芋銭の作品について、小川芋銭研究センターの首席学芸員が『小川芋銭全作品集』(挿絵編)で近年こう書いている。
「芋銭は贋作の非常に多い画家でもある。市中に出回っている作品の七~八割は、真筆と認めがたいと囁かれているほどである。「小川芋銭研究センター」を立ち上げてから、多くの芋銭作品が持ち込まれたが、総てと言っても良いほど一顧に値しないものばかりで、気持ちの晴れ晴れする作品に巡り合う機会には恵まれなかった。」
大変な数である。ここまでの数値は私もちょっと予想できなかった。芋銭の贋作がこんなにも多いとは思わなかった。
もっとも、私の経験でも、たまたま見たネットオークション経由の、中村彝の真作と思われるものは、1点たりともなかった。
それらは、明白な贋作がすべてであり、持ち主には気の毒だが、一見しただけでそれと判断できるものばかりであった。
美術館では贋作をそれと知って展示することは、特別な場合以外はないが、知らずに展示してしまうことはあるだろう。
あるいは館内でもその作品についての扱いが明確でないものは、展示されてしまうことはあるだろう。
しかし、悲しいのは、自分では真贋が分からないのに、その美術館の慣習に従うだけで、学芸員が展示しない場合だ。
美術館に収蔵されている作品は、すべて真作と見做してよいはずであるが、実際には、館内において贋作の疑いがあって展示できない作品がある場合もある。
本来そうした作品がある場合は、館としての明確な見解を出しておくべきなのだが、噂や館内での言い伝えでそうなっていることもままあるようだ。触らぬ神に祟りなしのまま相当年数放置されている状態である。
そういう場合、やはり研究しなければならない。学芸員個人がそれぞれに心の中だけで疑念を抱いているだけではだめなのだ。
個人で心許ないなら、グループの研究という形をとって、紀要論文にまとめ上げ、どこまでが分かっており、どこからが分からないのか、または、どこが分からないのか、はっきりすべきだ。
私の経験では、長年展示されずに、あってなきがごとき扱いの作品があった。
しかし実際に調べてみると、なぜその作品が贋作扱いされてきたのか根拠が解らない、そういう作品であった。
例えば幾つかの版画は、すべてリトグラフとなっていた。その中には、明らかに凹版画であり、よく見ればドライポイントであることが分かるのに、リトグラフとされたまま、贋作扱いされていたものがあった。
これは贋作か真作か以前の問題で、最初から技法の識別がなされていなかったという例だ。
美術書で版画の技法について知っていても、実際には自分の眼で何も確かめることができないのなら、謙虚に無知のままでいた方がいい。
贋作と噂されていた作品には、確かに真作とは呼べないような作品もあったが、それ以前の問題もあったのだ。
しかし、一括寄贈や、一括購入などの作品の中には、贋作が混じっている場合も確かにあるかもしれない。
こうした場合、寄贈者や資金の提供者、もしくは上司の仕事に遠慮して、なかなか贋作が混じっている(いた)とは言えないことも、あるようだ。
それが館内の言い伝えという形で引き継がれていくのかも知れない。
しかし、館内でそれが共有されているだけでは不十分である。それは、単なる無責任体制に繋がるだけかもしれない。
もちろん美術品は値段があまりに高いから、真実がわかった場合の予想外の影響の大きさという心配も確かにあるにはあるだろう。
場合によっては、名誉毀損などの裁判に巻き込まれる恐れだってなしとはしないし、そこに良からぬ者が絡んでいたら、刑事事件にすら発展するかもしれない。
実際に現実の世界で、それは贋作です、と言うのには、大きな勇気が必要だ。
いや仲間内や陰で言うのはまだ容易かも知れない。
それを公然と文字にして表現するのが難しいのである。