中村彝の伊原元治氏を描いた肖像画が遺族の手を離れて寄贈され、公的な美術館に入った。
これまで肖像画として遺族にだけしか知られていなかった作品だ。
もちろん書簡などでは伊原の肖像画が彝によって描かれていたことは分かっていた。が、その作品やモデルのことについては、主に文章を通じて想像するしかなかった。
大正6年11月2日の伊原元治宛書簡では、伊原がまだ病気でいることを知って彝は驚いている。
彝はこの時、兵庫県で官僚生活をおくっていた伊原から、「将来に望みをかけないようになった」というような悲観的な手紙をしばらくぶりに受け取っていたのだった。
そして彝は、5日ほど前から始めたホメオパシーの療法に良い結果が出れば、君にも勧めようと書いている。
伊原の名前は、今日、彝の友人として、そしてサンクト・ペテルブルクに生まれドイツのバレンシュテットに没した19世紀の画家ヴィルヘルム・フォン・キューゲルゲン著『一老人の幼時の追憶』の翻訳者の一人として、ネット上に検索される。
伊原は確かに彝の知り合いではあったが、おそらく静座などの他、具体的にどのような交際があったかはあまり知られていない。むしろ伊原が亡くなった後、その妻弥生と彝との、互いに相手を思いやる温かな交流のほうがよく知られている。
しかし今回の肖像画の寄贈によって初めて伊原元治の姿が具体的な像を結ぶようになった。
さて、その伊原弥生の「中村さんをおくる」という追悼文によれば、弥生が彝に初めて会ったのは、大正4年の秋のことで、元治と弥生の結婚披露と兼ねて行われた地方赴任のためのお別れ会においてであった。その少し前に大島で元治は彝と知り合ったと書いている。
そしてその披露宴兼お別れ会で、彝が描いた鬼気迫る相貌の保田龍門の肖像画が話題になったのだった。
その後、大正5年の春に半年ぶりに上京した元治は、彝に会ってきた様子を弥生に語った。
「今に見ろ、彝さんは畏しいものを描くから」。
そして、その年に生まれたのが「田中館博士の肖像」だった。元治の言うとおり、これまた大変な評判になった。
大正5年春の上京の折、伊原は彝に自分の肖像を描いてくれと言った。
が、「君の顔は絵にならないだってさ。悲観したよ」と言って元治は妻に笑って見せた。
しかし、彝は実際には伊原の肖像画を描くことになった。それが今回、茨城県近代美術館に寄贈された作品だ。
元治は大正7年の秋に他界したが、彝はしばらく知らないでいた。
弥生は意を決して大正8年には彝のアトリエを訪ね、元治の死を報せた。
「君の顔は絵にならない」と言っていた彝だが、遅くとも大正8年2月28日までには弥生からの報告で伊原の死を知り、彼女からの写真を待っていた。この時、弥生を慰めるための小さな肖像画を捧げることを決心をしていたのである。写真は3月2日に届いた。
こうして弥生は大正9年1月には伊原の肖像画を受け取ることになった。
伊原元治の肖像画は、小さな作品ながら、このように保田龍門の肖像、田中館博士の肖像ともきわめて縁があり、さらには、(後日このブログで紹介するが)洲崎義郎の肖像、エロシェンコの肖像にも画風上つながりのある、彝による一連の男性肖像画の仲間入りをする興味深い1点となった。
これまで肖像画として遺族にだけしか知られていなかった作品だ。
もちろん書簡などでは伊原の肖像画が彝によって描かれていたことは分かっていた。が、その作品やモデルのことについては、主に文章を通じて想像するしかなかった。
大正6年11月2日の伊原元治宛書簡では、伊原がまだ病気でいることを知って彝は驚いている。
彝はこの時、兵庫県で官僚生活をおくっていた伊原から、「将来に望みをかけないようになった」というような悲観的な手紙をしばらくぶりに受け取っていたのだった。
そして彝は、5日ほど前から始めたホメオパシーの療法に良い結果が出れば、君にも勧めようと書いている。
伊原の名前は、今日、彝の友人として、そしてサンクト・ペテルブルクに生まれドイツのバレンシュテットに没した19世紀の画家ヴィルヘルム・フォン・キューゲルゲン著『一老人の幼時の追憶』の翻訳者の一人として、ネット上に検索される。
伊原は確かに彝の知り合いではあったが、おそらく静座などの他、具体的にどのような交際があったかはあまり知られていない。むしろ伊原が亡くなった後、その妻弥生と彝との、互いに相手を思いやる温かな交流のほうがよく知られている。
しかし今回の肖像画の寄贈によって初めて伊原元治の姿が具体的な像を結ぶようになった。
さて、その伊原弥生の「中村さんをおくる」という追悼文によれば、弥生が彝に初めて会ったのは、大正4年の秋のことで、元治と弥生の結婚披露と兼ねて行われた地方赴任のためのお別れ会においてであった。その少し前に大島で元治は彝と知り合ったと書いている。
そしてその披露宴兼お別れ会で、彝が描いた鬼気迫る相貌の保田龍門の肖像画が話題になったのだった。
その後、大正5年の春に半年ぶりに上京した元治は、彝に会ってきた様子を弥生に語った。
「今に見ろ、彝さんは畏しいものを描くから」。
そして、その年に生まれたのが「田中館博士の肖像」だった。元治の言うとおり、これまた大変な評判になった。
大正5年春の上京の折、伊原は彝に自分の肖像を描いてくれと言った。
が、「君の顔は絵にならないだってさ。悲観したよ」と言って元治は妻に笑って見せた。
しかし、彝は実際には伊原の肖像画を描くことになった。それが今回、茨城県近代美術館に寄贈された作品だ。
元治は大正7年の秋に他界したが、彝はしばらく知らないでいた。
弥生は意を決して大正8年には彝のアトリエを訪ね、元治の死を報せた。
「君の顔は絵にならない」と言っていた彝だが、遅くとも大正8年2月28日までには弥生からの報告で伊原の死を知り、彼女からの写真を待っていた。この時、弥生を慰めるための小さな肖像画を捧げることを決心をしていたのである。写真は3月2日に届いた。
こうして弥生は大正9年1月には伊原の肖像画を受け取ることになった。
伊原元治の肖像画は、小さな作品ながら、このように保田龍門の肖像、田中館博士の肖像ともきわめて縁があり、さらには、(後日このブログで紹介するが)洲崎義郎の肖像、エロシェンコの肖像にも画風上つながりのある、彝による一連の男性肖像画の仲間入りをする興味深い1点となった。