中村彝は、友人の野田半三によると、明治40年5月、植村正久牧師より市ヶ谷教会で洗礼を受けた。しかし、「未だ基督教の奥義に徹しない内に、藝術がもっと強く君をひきつけてしまったのか、…聖書の研究も画の話が主となって夜を更かし…段々教会に遠ざかってしまいました」と語る。ただ「聖書はよく読んで」おり、彼の慰めとなり、力となっていた。
野田は、さらにクリスチャンらしい表現で言う。
「(痼疾の)癒ゆる事切なる願は神に聴かれませんでした。けれど君の身体に与えられた苦しいトゲは神の恩寵であり、神の栄となりました。…君の言葉は…霊に生きた君の尊い経験でした。」
実際、『藝術の無限感』を読んでみると、そこには、野田が言うように、「理智の鋭い頭に(彝は)奇跡など信ずる事がで出来なくなって来ました」というような面は直ちに窺える。
例えば「無形を見る眼」で彝はこういうふうに書いている。
「心霊は到る所心霊の似顔を見るというが、こうした言葉が想像上の言葉でなしに、視覚上の事実として実感される様になって初めて其人の眼は恵まれた眼と言う事が出来るのである。
クリストは『見ずして信ずるものは幸いなり』と言ったが、至高なる心霊の姿を眼を以て見、手を以て触れ得る人は更に幸福である。誰かトマスと共に、復活の『クリスト』の姿を仰ぎその御手に触れようと願わぬものがあろう。…」
彝がここで述べているトマスとは、「ヨハネ伝の福音書」第20章に出てくる十二使徒のトマスのことで、その部分を読んでみると、「トマスと共に」という彝の言葉の意味がはっきりする。
「デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られた時に、彼らと一緒にいなかった。それで他の弟子たちが彼に『私たちは主を見た』と言った。しかし、トマスは彼らに『私はその手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません』と言った。…八日の後にイエスが来て…トマスに言われた。『あなたの指をここにつけて、私の手を見なさい。手を伸ばして私のわきに差し入れなさい。…』…イエスは彼(トマス)に言われた。『あなたは私を見たから信じたのですか。見ずして信じる者は幸いです。』」
『ヨハネ伝の福音書』に書かれているトマスのリアリズムには、あまりにも生々しく、何か唖然とするものがあるが、彝はトマスと同様に、あくまで奇跡は、現実に自分の眼で見、手に触れることによって歓び、確信したいと言っているように思える。また、それが、この画家による《無形》の見方なのだ。
もっと若い頃には、明治41年9月、彝は野田にこういうことも書いている。
「…僕は今現にこんな事を考えて居る、『天国にして、エスの仰せられし如く、嫁入らず、めとらず、的なものならば如何にそこが美しくあっても、僕が行く所じゃない』と、君は如何考える。」
これは、「マタイ伝の福音書」第22章による「復活の時には、人は娶ることも、嫁ぐこともありません。人は天国における神の天使たちのようです」というイエスの言葉、すなわち天国に結婚というものはないということに対する彝の率直な意見表明だ。
しかし、彝は「クリストと共に」と書くことも、もちろんあった。
以下は『藝術の無限感』の「自然を見る眼」からの抜粋だが、これは一見すると、奇妙なことに「無形を見る眼」と対照的な論理構成となっている。
すなわち「無形を見る眼」では、「トマスと共に」現実的・即物的に《無形》を見るのに、「自然を見る眼」では「クリストと共に」超越的・神秘的に《自然》を見ているのだ。
「吾等が絶えず本能によりて黙想し、憧憬し、信仰し、探求するかの燦然たる永劫神秘の世界が、かくして今や吾々の前に、…現象界に君臨する様になったことを思う時、吾々は再び『クリスト』と共に『天国は近づけり。盲人は見、貧しきものは富み、囚われた人は放たれ、病める者は癒されん』と歓呼せずには居られない。ロッソは『大気の中にあっては物質的なものはなし』と言っているが、これは事実で、僅かに大気の包括的な支配を眼中において自然を観察しただけでも、吾々は容易に…一個の『リアル』な相、即ち自己の情意や慾念と相似の質を有する実在に近付く事が出来るのである。つまり自然を外的に支配しているものは、実にその本質に於て吾々一切を内的に支配しているものと全く同一なのである。」
上記の引用中、「天国は近づけり。盲人は見、貧しきものは富み、囚われた人は放たれ、病める者は癒されん」は、いかにも福音書の重要な思想を語っているが、この言葉通りに語られている直接的な福音書の典拠を見出すことはできない。
これは、主にいわゆる「共観福音書」、すなわち、マタイ伝(4:17、11:5)、マルコ伝(1:15)、ルカ伝(4:18)などの福音書から、彝が記憶の中で言葉を手繰り寄せたものではなかろうか。
なお、文中のロッソとは、メダルド・ロッソ(Ⅰ858-1928)のことである。
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こうして確固たるリアリズムを持っていたはずの彝の芸術は、その深淵と真実を追求していくうちに奇妙にもその芸術論においては、いつのまにか象徴主義的な芸術に近付いて行ってしまったように見える。
だが、彼の作品はけっして象徴主義ではない。彼の芸術は精神性と内的生命の充実を目指しながらも、あくまでもリアリズムを基盤とした芸術である。
「無形を見る眼」では、「トマスと共に」実際に《無形》が見えるところまで行くということを強調して、一見、象徴主義的傾向がますます推し進められているのだが、実際に制作された彝の作品は、精神主義的・内的生命の表出ではあっても、おそらくは「幸いにも」と言ってよいと思うが、感覚的な象徴主義にはなっていない。