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中華街でクイズ(謎)等に使えそうな物
②中華街ができていった理由
「答え」
居住を認められた中国人(華僑)が風水に合わせられた土地として、意欲的に開発。発展させた。
「豆知識」
・中華街に作られた「牌楼」は、東西南北が基本
「資料」 https://www.chinatown.or.jp/feature/history/vol01/
ここに中華街ができていった理由
最後は、地理的要因、人為的要因で保たれたこのエリアが、中華街として発展した理由。 1862年、横浜新田の造成が完了すると、ほぼ同時に中国人がこの一角に進出したという記録が残っています。他の居留地がすでにいっぱいだったという背景もありますが、彼らは意図的にこのエリアを選んだのではないでしょうか。
なぜなら、この土地が東西南北の方位に即した形をしていたからです。じつは海岸線にあわせた横浜の街路は東西南北に沿ってはおらず、一見斜めに見える、このエリアこそが方位に忠実なのです。風水を重んじる中国人が、新天地で拠点を探す時、東西南北を気にしなかったと考える方がむしろ不自然なこと。偶然にも方位に即したこの土地が拓かれたことが、中華街誕生の第一歩となったのです。
世界でも類をみないほど発展した横浜中華街。その秘密は、風水に恵まれたこの土地にあるのかもしれません。
なぜ横浜に日本最大の中華街ができたのか。
横浜中華街はもともと欧米人の居住地区であった。これは1858年(安政5年)に日米修好通商条約が締結されたことに由来する。この通商条約には「神奈川」を含む5港を開港することが定められており、これが横浜に外国人が多く住むきっかけとなった。
当時の「横浜村」には、短期間で外国人居留地や波止場、運上所(税関)などが整備され、国際港としての体裁が整えられた。そして、1859年(安政6年)に「横浜港」が開港し、諸外国との貿易が開始された。
そんな中で、欧米人の居住地区であった場所に中国人が増えたのは、欧米人が「通訳」として中国人を呼んだためである。
その当時、英語が話せる日本人は少なかった。西洋との関わりは日本よりも中国の方が早く、英語など欧米の言葉が話せて欧米人とコミュニケーションがとれる中国人が多かった。また、中国人は日本語が話せなくても漢字を書くことで、日本人とある程度のコミュニケーションがとれた。そのため、欧米人と日本人の間に入る存在として一番適していた。
当初、中国人は香港や広東から来ていたため、広東省出身者が多かった。その後、外国人居住区の欧米人は減少し、一方で通訳や商人として横浜に来た中国人は増加し、現在の「横浜中華街」が誕生した。
現在では、横浜中華街の所在地である横浜市中区に住む中国人の人口は6000人を超え、これは同区に登録されている外国人の約4割に当たる。そして、観光客向けの中華料理店や喫茶店、菓子店、土産物店のほか、関帝廟、媽祖廟、中華会館、中華学校などが建てられている。 リンク:Wikipedia、横浜中華街
横浜開港と中華街の形成(1859 ~1899)
幕末に日本が開国し、横浜の港がひらかれると、アメリカ・イギリス・フランスなど諸外国から大勢の商人が横浜を訪れ、外国人居住地として設けられた「居留地」に商館を開きました。彼らは、横浜進出にあたり、中国人をともなってきました。中国人は漢字によって日本人と筆談できたため、西洋人と日本人の間にたち、生糸や茶などの取り引きの現場で不可欠な存在となりました。
横浜と香港・上海の間に定期航路が開催されると、洋裁・ペンキ塗装・活版印刷などさまざまな新しい技術を身につけた中国人が横浜を訪れた。また北海道産のアワビやナマコなどの中華食材を香港・上海に輸出したり、台湾産砂糖を日本に輸入する華僑貿易商が現れる。
明治初年には横浜の華僑人口は約1000人となる。彼らは、居留地の一角、旧横浜新田を造成した地域に徐々に集まり住み、関帝廟、中華会館、劇場などを設け中華街を築いていきました。その後、日中間で日清修好条規が結ばれ、横浜に清国領事館が開設されました。しかし明治27(1894)年日清戦争が勃発すると、横浜華僑もその三分の一が帰国し、厳しい状況がおとずれたのです。日清戦争が終わり再び中華街に活気がもどると、中国の革命家孫文の来日に影響されて、華僑の学校が創設されました。
華僑社会の発展と震災の悲劇(1899 ~ 1923)
明治32(1899)年、居留地が撤廃されることとなると、中国人の「内地雑居」を危惧するさまざまな声があがりました。その一つは大勢の中国人労働者の来日で日本人が失業しないかということでした。そうした世論を背景にして、居留地外で仕事をする外国人には理髪・洋裁・料理業など一定の職業制限が設けられ、未熟練労働が規制されたのです。
横浜では居留地撤廃後、旧居留地外で料理店を営む華僑も次第に増え、華僑人口は20世紀初頭には5000人あまりに達しました。また中国人商業会議所や要明公所・三邑公所などの同郷団体も設立され、華僑社会は発展をとげていくのです。 しかし、華僑社会を未曾有の災厄が襲いました。
大正12(1923)年9月1日、関東大震災が発生し、中華街は壊滅的な打撃をうけたのです。古いレンガ造りの建物が密集していたため、家屋は倒壊・焼失し、多くの華僑が命を落としました。生き残った人々も神戸・大阪、さらに広東や上海へ避難した。上海の港には大勢の罹災華僑が上陸し、故郷の人々に迎えられて蘇州・寧波に帰っていった。こうして一時は横浜華僑は200人あまりに激減し、さらに震災後、人心が乱れる中で日本人による中国人虐殺という悲劇もおこったのです。 ※画像は横浜開港資料館より許可を受けて掲載しております。画像の無断使用・転載はおやめください。
開港からの流れ
1859(安政6)年に、横浜が開港になると、多くの欧米人が、やってきた。当時、日本と清国(中国)の間には、条約が結ばれていなかったため、中国人は、公式には、入国することができなかったが、欧米人の使用人である、買弁(コンプラドール、仲介者)、コック、荷役労働者として入国してきた。彼らは、中国が日本より早く開国していて、欧米人との関わりを通じて、欧米の言語や生活習慣に精通しており、日本と同じ漢字圏であるため、筆談で、通訳をすることができた。そのため、ペリー艦隊の日米折衝の際の交換文書には、中国語のものもあった。通訳の他に、当時、日本で活躍していた中国人は、職業的には、両替商、絹織物やお茶の目利き、ペンキ職人、印刷業者、家具職人、ピアノ調律師、洋服の仕立屋、料理人など、日本人にとっては、目新しい技術を持つ人たちであった。
1930年頃の横浜南京町(wikipediaより)
中華街の町名
現在、中華街の住所は、全域に渡って、山下町となっている。しかし、1879(明治12)年から、1899(明治32)年にかけては、通りごとに、日本各地の地名がついた町が30町ほどあった。中華大通りは、前橋町、関帝廟通りは、小田原町という具合に。中華街に加賀町警察署というのがあるのもその名残で、他に、横浜スタジアムと中華街との間にある「薩摩町中区役所前」というバス停、また、開港道沿い、重慶飯店本館前とその向いにある2本の電柱には、尾張町と書かれた管理標識もある。
関帝廟と媽祖廟
中華街を語る上で欠かせないのが、関帝廟と媽祖廟という華僑の信仰に関わる施設である。関帝廟は、三国時代、蜀漢の武将、関羽を商売の神として祀ったもの。1862(文久2)年に、ささやかな堂を設けたのが始まり設けたのがはじまりというが、最初の本格的な関帝廟をもうけたのは、1871(明治4)年だった。それが、1923(大正12)年の関東大震災で倒壊すると、1925(大正14)年に、2代目の関帝廟が建てられたが、1945(昭和20)年の横浜大空襲で、焼失した。さらに、3代目の関帝廟が、1946(昭和21)年に建立されたが、1986(昭和61)年に、不審火で焼失すると、4代目にあたる現在の関帝廟が、1990(平成2)年に完成した。
また、海の女神である媽祖を祀る信仰も初期の頃から伝わっていて、初代関帝廟の廟内と清国領事館に祀られていたという。その後、2代、3代の関帝廟内にも祀られていて、3代目焼失の時、難を逃れた媽祖像は、現在、箱根観音に祀られている。 そして、媽祖廟建立に直接つながったのは、2003(平成15)年、(株)大京が、南門シルクロードの一角にマンションを建てる計画をしたことである。それに、「横浜中華街発展会協同組合」が、街づくりの観点から反対し、同所を大京から買い取り、媽祖廟設立発起人総会を設立した。そして、2005(平成17)年には、地鎮祭を行い、2006(平成18)年3月17日に開廟した。 https://yokohamasalon.link/chinatown/
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