十勝の活性化を考える会

     
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連載:関寛斎翁 その15 決意表明

2020-01-10 05:00:00 | 投稿

 

図表:関寛斎 戸石四郎 より

子供たちが準備した金婚式の宴の席で、寛斎は自らの北海道移住を切り出した。
もちろん皆口々に呆れたり、猛反対したりした。
髙田郁氏は「あい永遠に在り」の中で、次のように描写している。

§

「お前たち、いい加減になさい」
あいは、箸を置いて五人の子供たちを見回した。
「突然思いついたわけでも、気が違ったわけでもありません。先生は何年もかけて、この計画を練り上げられたのですよ」
「貸付許可を受けたことは知っています。私たちも出願に名を連ねましたから。てっきり又一のためとばかり思っていました」
眉間に深い皺を寄せ。周助は言い募る。
「何もおふたりが入植されずともひとを使って開拓させれば済むことでしょう。現に開拓事業に乗り出した華族は皆、そうしていますし」
残る四人が一斉に頷くのを見て、あいはやれやれ、と頭を振った。
「もうお止めなさい。入植も財産整理も既に決めたこと。よもやお前たちがそれをあてにするようなさもしい性根を持っているとは思わないけれど、開拓には資金が要るのです」
土地を拓き、牧場や農地を整えるまでに数年、それで収入を得られるようになるまで、さらに数年かかる。現地でひとを雇い入れるだろうし、器具や農具、牛や馬も要る。開拓作業そのものに金がかかる上、その間は貯蓄を切り崩して食いつなぐしかないのだ。
「話にならない」
生三は怒りに任せて立ち上がった。
「餘作を相続人にしたかと思えば、周助に家督を譲ると言い、最後は私の籍に入ると言う。そうやって子供の気持ちを弄んだ挙句、開拓につぎ込むから全部返せ、と言うのか。まるで話にならない」
そう吐き捨てて、生三は部屋を出ようとした。周助らもこれに倣ううつもりか、黙って立ち上がった。餘作、五郎もこれに従う。最後にトメも躊躇いつつ席を立った。
「お待ちなさい」
あいは懸命に声を張る。
「先生も私も、親からもらったものは丈夫な身体だけ。それで充分だった。思いがけずこれほどまでに長生きをさせて頂き、色々な廻り合わせで財を成せました。残る人生で何かこの国の役に立ってみたい。そのためにこそ、これまで築いてきたものを使いたい。そう願う気持ちを、理解できなくても良いから、せめて黙って見守っていてほしいのです。お前たちが自ら額に汗して得たのではない財産に執着するような、そんなさもしい心根だとは思いたくないのです」

思えばこの五人とも、立派に育ったものだ。長男の生三は医師となり、五人の子に恵まれた。次男周助は三井物産のロンドン支店勤務で一児の父。餘作は岡山医学校、五郎は東京の大学でそれぞれ学ぶ。トメは寛斎の弟子に嫁いで四人の子持ちとなった。
寛斎とあい亡き後も関家の血筋が絶えることはない。もしも年子か存命ならば、『あい、今日までよく頑張りました。残る人生はお前の好きにおし』と、言ってくれるだろう。そう思った時に初めて、あいの視界は潤んだ。

§

徳島で一介の町医者として、貧しいものから銭は取らず、金持ちの往診には駕籠を要求するなど、地域の医療に献身した寛斎は、人々から「関大明神」とまで崇められ、多少の波風はあろうとも穏やかで幸せな日々を送っていた。
また、成り行きとは言え没落武家から近所の屋敷の買い取りを求められ、おのずと財も蓄えられていった。
その一切を「北海道開拓」に投じる老夫婦の行動は、周りから驚嘆の目で見られたことは想像に難くない。
しかしそれは十年余りの、周到な計画のもと着々と進められていたことは、寛斎の胸の内以外知る由もなく、のちに研究者たちの分析によって明らかにされてゆくのであった。

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