帯広市百年記念館に常設されている吉田巌著「愛郷詩料」によれば、大正5年現在、十勝アイヌの人口は1,655人となっており、十勝の人口が当時、約7万人であったから少ない人数となっている。
アイヌ民族は北海道・樺太・千島列島・カムチャツカ半島南部に住んでいる先住民族で、アイヌ語を母語とするアイヌを指している。アイヌ民族がいつから北海道に住み始めたことについては諸説があり定かではないが、十四世紀前後から住み始めたという学説が有力だ。
西暦八百一年、桓武天皇が坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、蝦夷征討(えみしせいとう)を行なった史実もあるが、この頃の北海道(蝦夷)はあまり知られていなく、「エミシ」は現在の東北地方である陸奥国や出羽国などの広い範囲にいた人を指していた。従って江戸時代までは、東北地方にも和人と共にアイヌ民族が住んでおり、東北地方にはアイヌ語系の地名が多い。
私は青森県に住んでいたのであるが、青森県には「津軽アイヌ」や「下北アイヌ」などのアイヌコタンやアイヌ語系地名が残されている所があり、蝦夷征伐の史実が証明できる。
さて十勝アイヌのことだが、音更郷土史研究会編集「音更の歴史に光を~収録集~」によれば、音更アイヌは、明治16~19年にかけて上士幌町セタ地区周辺のアイヌ20戸が、音更町北6線~9線に強制移住させられている。
「十勝の活性化を考える会」会員
注)アイヌ文化
アイヌ文化とは、アイヌが13世紀(鎌倉時代後半)ごろから現在までに至る歴史の中で生み出してきた文化である。現在では、大半のアイヌは同化政策の影響もあり、日本においては日常生活は表面的には和人と大きく変わらない。しかし、アイヌであることを隠す人達もいる中、アイヌとしての意識は、その血筋の人々の間では少なからず健在である。アイヌとしての生き方はアイヌプリとして尊重されている。アイヌ独特の文様(アイヌ文様)や口承文芸(ユーカラ)は、北海道遺産として選定されている。
アイヌ文化という語には二つの意味がある。ひとつは文化人類学的な視点から民族集団であるアイヌ民族の保持する文化様式を指す用法であり、この場合は現代のアイヌが保持あるいは創造している文化と、彼らの祖先が保持していた文化の両方が含まれる。もうひとつは考古学的な視点から、北海道や東北地方北部の先住民が擦文文化期を脱した後に生み出した文化様式を指す用法である。
擦文文化期の終わりに全く別の民族が北海道に進入してアイヌ文化を形成したわけではないということである。これは、和人が12世紀まで平安文化を保持し、13世紀から鎌倉文化と呼ばれる時期に移行した状況に近い。すなわち担い手は同じであるが、文化様式が変化したということである。
ここで問題となるのは、「アイヌ文化」という語が「ある民族集団の文化」と「歴史上のある時期に存在した文化様式」のいずれも意味するという状況のわかりにくさである。アイヌは現在も民族集団として存在しているが、現代のアイヌはチセに住み漁労採集生活を送っているわけではないから、考古学的な意味でのアイヌ文化を保持しているとは言えない。しかし現代のアイヌは考古学的な意味でのアイヌ文化を担った人々の末裔であり、現代のアイヌの保持する文化様式もまたアイヌ文化と呼ばれる資格を持つのである。
(出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)