永遠の理想を求めて
家庭内での苦悩が重なったのも、このころであった。彼が期待をかけた長男生三との相剋については、さきに述べた。一八九〇(明治二三)年、和解はしたものの、心の傷の癒えぬ寛斎が、すでに一家をなした生三に徳島を任せ、再出発をはかる気持ちを動かしたとしても、不思漣ではない。また反面、三男余作たち、とくに四男又一に、彼は生三で満たされなかった夢と期待とをかけたようだ。
一家をよく知る大久保氏は、寛斎が又一に寄せる期待は偏愛といってよいほどのものだったとして、一葉の写真を示した。それは親子勢ぞろいのものだが、寛斎は傍らの又一の肩に手をかけ、もたれるようにして写っている。そのような祖父に対し「子ども心に、少し度が過ぎはしまいかと思ったものだ」と氏はいう。また、この辺の事情が、晩年、関牧場資産をめぐる兄弟不和の遠因となり寛斎みずから「尽きざる罪になほ悩みつゝ」と詠うことにもつながるように思われる。
しかし、これらの事情とからみ合いながら、寛斎の転身に決定的に作用したのは、濱口梧陵の突然の死ではなかったか。その直接の証拠は、彼自身が書いた文章のなかに見いだされる。「目さまし草」の自序は「故梧陵翁は迂老に諭して日く、後悔するなと。」という書き出しで始まり「然るに迂老は貧家に生れて……他を顧るの念無く。ただひたすら我利に傾むけり。然るに翁は迂老が怠るを咎めずして曰く、人たる者の本分は限前にあらずして永遠にあり……自ら労苦して得る処の富をも独有すべきにあらず…家産……之を私有すれば倫安怠惰に陥るものなれば、子孫の為に家産を遺すが如きをば為すべからずと。……然るに迂老は漸く一家を有するに及びても、性愚に且つ行為に於て欠くる所有るが為に、一家円満の幸福を得ること能わざるのみならず……何事も成す無く、只空しく一家に生活するのみにて、年月を経たり。然るに六十歳の頃より、翁の遺訓の尊きを漸く感悟するに至れり。」と回顧している。
関寛斎 最後の蘭医 戸石史郎著
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寛斎は、長男生三をわずか10歳にして、佐藤泰然の順天堂に預けて勉学を習得させていた。当時としてはさほど珍しいことでもなく、寛斎自身が幼くして養子に出されるという生い立ちを経てきた。しかし寛斎と実の父親との関係は、その後の歴史にはほとんど登場しない。生三も親から愛情という大事なものをもらい忘れたまま世に出て、大学東校(現在の東大医学部)に進学するが、時勢という事もあり、なかなか寛斎の望む道は歩まなかった。問題行動を起こし廃嫡処分にされるが、やがて立ち直り徳島で医師として活躍していた。寛斎にとっては、そのことが気にくわぬというよりも、あまりにも自分自身に性格=性分が似通っていたことの方が疎ましい気持ちにさせていたのであろうと、ある識者は分析している。
そして、偏愛していた又一を使い寛斎自身の壮大な夢の実現に向け着々と準備を進めていった。