令和2年1月2日、NHKBSスペシャル「空海の宇宙を描く」を放映していた。この中で、四国遍路を訪ねる人が、「不合理の中の真理」の話をしていた。簡単に書くと、このような意味である。
「現代は全て、オートメーションとかAI(人工頭脳)など、合理性が重んじられている。だが、人間にしか持っていないものがあるので、それを大切にしようではないか」ということである。それが「日本の文化」のひとつではないかと思った。
遍路は、お大師さんと二人連れで自然をありのままに見て、体と世界が一体となる。己を見つめ直し、人の機微にも触れる。人と自然の合一、すなわち「悉有仏性」である。
「十勝の活性化を考える会」会員
注) 真理
真理は、確実な根拠によって本当であると認められたこと。ありのまま誤りなく認識されたことのあり方。 真実ともいう。
真理は、現実や事実と異なり、妨害・障害としての虚偽・誤謬を対義語としており、露わさ、明らかさ、隠れなさに重点がある。そのものありのままであり、あらわであり、その本質が覆われていない、という意義に関しては、哲学的には本質主義や同一性とも関わりが深い。西欧哲学において真理論は、論理学や認識論においてとりわけ主題化される。
真理論の歴史は、古代ギリシアに始まる。人間を尺度とする相対的なものの見方に反論する形で、永遠性・普遍性を有する真理の概念が生まれた。このような絶対性を内実とする真理概念は独断主義を生み、これに対する防衛・反抗が懐疑主義を生んだ。そのどちらにも陥らず、確実な知識の基礎付けを求めて近代の認識論が始まり、その後、真理の担い手が思惟・観念・判断、命題、「事物」等のいずれであるか、について議論がなされてきた。
現代論理学では真理の担い手は命題であるとされ、真と偽を合わせて真理値という。論理学で、「Pは○か○でないかのいずれかである」という形をした文は○の内容に関係なく正しいので、これは「形式的真理」と呼ばれ、思惟と思惟自身の一致と定義される。
このような形式的な形相についてではなく、質料について真理が語られるときは「実体的真理」という。判断について真理が語られるときを「認識論的真理」といい、存在について真理が語られるときを「存在論的真理」という。現代の真理概念は様々な形で修正を受け、相対的な傾向を強めている。
論証する、つまり、言語による表現であることが真理に不可欠であり、哲学的にはロゴスとも関わりが深い。 東洋には不言真如という概念もある。
人間を自由にするものとしての真理が説かれることもある。キリスト教では「真理はあなたたちを自由にする(ヨハネ8章32節) 」と説かれている。仏教では、人間を苦しみから解放する真理をあらわす「法」が説かれる。
(出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)