女性に人気の高い映画である。半年前に録画していたのを、ようやく年末になって視聴。
アン・ハサウェイ演じるジャーナリスト志望の冴えない新卒者(アンドレア)が、就職活動で何故か、メリル・ストリープ演ずる、世界的カリスマファッション雑誌の編集長(ミランダ)の第二アシスタントの面接に漕ぎ着けた。
この業界は、ミランダに憧れて入社を希望する女性が世界中から集まって来る。そんな中、ジャーナリスト志望でお洒落には無頓着なアンドレアは、明らかに「浮いた」存在だった。面接は当然×と思われたが、何故かミランダは、彼女を採用する。
ミランダは、辣腕編集長であり、ファッション界のトップとして、セレブ社会で華やかに暮らしている。部下に対する要求は、とにかく厳しい。仕事から私生活のケアに至るまで、あらゆる注文を付ける。ときに、わざと我侭に振る舞い、単なる憧れだけでこの世界に飛び込んできた女子を蹴落とすようにも感じられる。
色々致命的なミスを犯しながら、アンドレアは次第にファッション界に馴染んでいく。先ず彼女は、お洒落をすることに決めた。同僚の男性を巻き込み、ドレスアップすることからスタート。身体のサイズもワンサイズ落とし、その変貌振りは同僚女性を驚愕させる。
そして、あるとき、怒りを買ったミランダから不可能なミッションを言い渡される。もうやめる、我慢出来ないと絶叫する彼女。同棲する彼氏も、馴染めない職場で無理をしている彼女を見かねて「それがいい」と勧める。
しかし、ミランダのアシストをする中で様々な幸運な出会いがあり、ジャーナリズムの世界にも人脈を築くことができた彼女は、ミランダの無理難題をやってのけた。
そこで、ミランダのアンドレアに対する見方が、変わる。
他方、古くからアンドレアを知る家族や友人たちは、無茶振りの女王様として有名なミランダの元で、どんどんお洒落になっていき、ファッション業界に染まりつつある彼女に警告を発する。だが、困難なミッションをやり遂げ、鬼編集長のお眼鏡に適うまでに至ったアンドレアに、彼女らの言葉は無理解と攻撃としか映らなくなっていった。そして、彼女を理解し,心配し、応援していた恋人も,彼女から離れるという。
偶然が重なり、本来なら第一秘書しか同行できないパリでのショーに、アンドレアが抜擢された。そこでミランダは危機に合う。アンドレアは、あれほど自分を苦しめた上司のために、必死になって彼女に警告をする。
様々なことを考えさせられる映画である。
まず、女性社会の上下関係と、嫉妬。男性にも勿論あるのだが、おそらく女性にしか分からない何かがあるものと思う。
アン・ハサウェイ演じるアンドレアは、生来の美貌はともかく、服に頓着がない。それが、ミランダの憶えを良くするために、劇的に変わる。
勿論、素の美貌がないと、こうはならない。そういったファッション面での楽しみも見所の一つ。
また、無茶振りばかりしてハードルあげまくる上司と、それに翻弄される部下という構図は、いたたまれないものを感じた。2つ前の記事に書いたとおりである。これが我が社の現状で、ミランダのようなカリスマではない上司が、そういう無茶振りをして来るという話をかなり見聞きする。その結果、病んでしまったヒトも多く知っている。この映画では、ハードなミッションはエンターテインとして描かれており、現実の生々しさを捨象しているので、まだ観ていられるが、演出によっては視聴を続けられなかったかもしれない。
さて、今回の本題は「タイトル」である。
プラダを着た悪魔とは、誰か。何が「悪魔」なのか。
鬼編集長・ミランダが「悪魔」か。そうとも言えるだろう。
ジャーナリストへの人脈作りを目的に、偶然飛び込んだ畑違いの「ファッション界」において、変貌を遂げざるを得ない「夢魔」の様に魅惑的なアンドレアか。
そうとも言えるだろう。
しかし、私の見立ては違う。これは、キリスト教圏のヒトでないとわかりにくい感性だと思う。この映画に付された「Devil」の意味は。
キリスト教における悪魔、或いは悪霊は「誘惑する者」である。ヒトを欲望に縛り付けようとし、信仰に自らを捧げ、禁欲することを止めるよう、あの手この手で迫って来る。
イエスの40日間の荒野放浪のエピソードを思い出すといいだろう。荒野の中、空腹に堪えかね、イエスは幻覚を見る。悪魔が「自分に魂を売れ。そうすればこの石をパンに変えることも出来る」と。
ラストシーン、ミランダはアンドレアに語る。「私とあなたは、同じよ。」と。そして「私達は、世界中の女性の憧れなの」と。
これは、部下に苛烈なハードルを課すミランダが、アンドレアを認めた瞬間である。望んで入った世界でも、ジャーナリストへのステップであったとしても、いずれにせよ最大限の成功を、彼女はその努力で、手にした。その瞬間である。
そこで、アンドレアはようやく気づく。自らがファッション界という「悪魔」に魅入られ、誘惑されていたことに。
それは、本来の自分を見失っていたことに。父や友人や恋人が警告してくれていたように。彼女は「なりたい訳じゃないセレブ」に、半ば「なってしまって」いた。
ジャーナリズムは、事実を冷徹にレポートするところから始まる。産業としての欲望はあれど、基本的には禁欲的、抑制的な仕事だ。
他方ファッション界は「美」が最優先である「真・善・美」のうち「美」はおそらく最も「快楽」に近い。しかしそれが「世界中の憧れ」であり「一大産業」であり、そのトップになるということがいかに「激烈な競争に打ち克つ必要があるか」。現代アメリカの価値観をもってしても、それほどの世界に食らいついていくのは「正気じゃない」とまで思われている。
だから、ここで描かれるファッション界は、世の女性の快楽を刺激し、誘惑して已まない「美しい悪魔」として描かれる。褒め言葉と皮肉の両方を纏いながら、それでも魅惑的なものとして。
それが、「プラダを着た悪魔」の、正体だ。この業界自身の有り様、現代社会の有り様そのものが「悪魔」的に、皆を誘惑しているのである。
ヒロイン・アンドレアは、そのことに気づいた。それまでは「社畜」的にひたすら頑張って来ただけだが、いつの間にか「悪魔」に魅入られていたのだ、ということに。
そのことに気づいて以降の、彼女の物語の帰趨は、控えたい。しかし、佳作といってよい内容だった。華やかさだけでない、様々な要素を織り込んだ「ドラマ」があった。本質的な悪人が一人として登場しないのも、良い。
アン・ハサウェイ演じるジャーナリスト志望の冴えない新卒者(アンドレア)が、就職活動で何故か、メリル・ストリープ演ずる、世界的カリスマファッション雑誌の編集長(ミランダ)の第二アシスタントの面接に漕ぎ着けた。
この業界は、ミランダに憧れて入社を希望する女性が世界中から集まって来る。そんな中、ジャーナリスト志望でお洒落には無頓着なアンドレアは、明らかに「浮いた」存在だった。面接は当然×と思われたが、何故かミランダは、彼女を採用する。
ミランダは、辣腕編集長であり、ファッション界のトップとして、セレブ社会で華やかに暮らしている。部下に対する要求は、とにかく厳しい。仕事から私生活のケアに至るまで、あらゆる注文を付ける。ときに、わざと我侭に振る舞い、単なる憧れだけでこの世界に飛び込んできた女子を蹴落とすようにも感じられる。
色々致命的なミスを犯しながら、アンドレアは次第にファッション界に馴染んでいく。先ず彼女は、お洒落をすることに決めた。同僚の男性を巻き込み、ドレスアップすることからスタート。身体のサイズもワンサイズ落とし、その変貌振りは同僚女性を驚愕させる。
そして、あるとき、怒りを買ったミランダから不可能なミッションを言い渡される。もうやめる、我慢出来ないと絶叫する彼女。同棲する彼氏も、馴染めない職場で無理をしている彼女を見かねて「それがいい」と勧める。
しかし、ミランダのアシストをする中で様々な幸運な出会いがあり、ジャーナリズムの世界にも人脈を築くことができた彼女は、ミランダの無理難題をやってのけた。
そこで、ミランダのアンドレアに対する見方が、変わる。
他方、古くからアンドレアを知る家族や友人たちは、無茶振りの女王様として有名なミランダの元で、どんどんお洒落になっていき、ファッション業界に染まりつつある彼女に警告を発する。だが、困難なミッションをやり遂げ、鬼編集長のお眼鏡に適うまでに至ったアンドレアに、彼女らの言葉は無理解と攻撃としか映らなくなっていった。そして、彼女を理解し,心配し、応援していた恋人も,彼女から離れるという。
偶然が重なり、本来なら第一秘書しか同行できないパリでのショーに、アンドレアが抜擢された。そこでミランダは危機に合う。アンドレアは、あれほど自分を苦しめた上司のために、必死になって彼女に警告をする。
様々なことを考えさせられる映画である。
まず、女性社会の上下関係と、嫉妬。男性にも勿論あるのだが、おそらく女性にしか分からない何かがあるものと思う。
アン・ハサウェイ演じるアンドレアは、生来の美貌はともかく、服に頓着がない。それが、ミランダの憶えを良くするために、劇的に変わる。
勿論、素の美貌がないと、こうはならない。そういったファッション面での楽しみも見所の一つ。
また、無茶振りばかりしてハードルあげまくる上司と、それに翻弄される部下という構図は、いたたまれないものを感じた。2つ前の記事に書いたとおりである。これが我が社の現状で、ミランダのようなカリスマではない上司が、そういう無茶振りをして来るという話をかなり見聞きする。その結果、病んでしまったヒトも多く知っている。この映画では、ハードなミッションはエンターテインとして描かれており、現実の生々しさを捨象しているので、まだ観ていられるが、演出によっては視聴を続けられなかったかもしれない。
さて、今回の本題は「タイトル」である。
プラダを着た悪魔とは、誰か。何が「悪魔」なのか。
鬼編集長・ミランダが「悪魔」か。そうとも言えるだろう。
ジャーナリストへの人脈作りを目的に、偶然飛び込んだ畑違いの「ファッション界」において、変貌を遂げざるを得ない「夢魔」の様に魅惑的なアンドレアか。
そうとも言えるだろう。
しかし、私の見立ては違う。これは、キリスト教圏のヒトでないとわかりにくい感性だと思う。この映画に付された「Devil」の意味は。
キリスト教における悪魔、或いは悪霊は「誘惑する者」である。ヒトを欲望に縛り付けようとし、信仰に自らを捧げ、禁欲することを止めるよう、あの手この手で迫って来る。
イエスの40日間の荒野放浪のエピソードを思い出すといいだろう。荒野の中、空腹に堪えかね、イエスは幻覚を見る。悪魔が「自分に魂を売れ。そうすればこの石をパンに変えることも出来る」と。
ラストシーン、ミランダはアンドレアに語る。「私とあなたは、同じよ。」と。そして「私達は、世界中の女性の憧れなの」と。
これは、部下に苛烈なハードルを課すミランダが、アンドレアを認めた瞬間である。望んで入った世界でも、ジャーナリストへのステップであったとしても、いずれにせよ最大限の成功を、彼女はその努力で、手にした。その瞬間である。
そこで、アンドレアはようやく気づく。自らがファッション界という「悪魔」に魅入られ、誘惑されていたことに。
それは、本来の自分を見失っていたことに。父や友人や恋人が警告してくれていたように。彼女は「なりたい訳じゃないセレブ」に、半ば「なってしまって」いた。
ジャーナリズムは、事実を冷徹にレポートするところから始まる。産業としての欲望はあれど、基本的には禁欲的、抑制的な仕事だ。
他方ファッション界は「美」が最優先である「真・善・美」のうち「美」はおそらく最も「快楽」に近い。しかしそれが「世界中の憧れ」であり「一大産業」であり、そのトップになるということがいかに「激烈な競争に打ち克つ必要があるか」。現代アメリカの価値観をもってしても、それほどの世界に食らいついていくのは「正気じゃない」とまで思われている。
だから、ここで描かれるファッション界は、世の女性の快楽を刺激し、誘惑して已まない「美しい悪魔」として描かれる。褒め言葉と皮肉の両方を纏いながら、それでも魅惑的なものとして。
それが、「プラダを着た悪魔」の、正体だ。この業界自身の有り様、現代社会の有り様そのものが「悪魔」的に、皆を誘惑しているのである。
ヒロイン・アンドレアは、そのことに気づいた。それまでは「社畜」的にひたすら頑張って来ただけだが、いつの間にか「悪魔」に魅入られていたのだ、ということに。
そのことに気づいて以降の、彼女の物語の帰趨は、控えたい。しかし、佳作といってよい内容だった。華やかさだけでない、様々な要素を織り込んだ「ドラマ」があった。本質的な悪人が一人として登場しないのも、良い。
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