薫のよもやま話

森山かおる
市原市議会議員
重度障がいの息子を育てながら、日々感じる事を想いのままに

最後まで自分らしく生きるために

2017年01月23日 | 日記

”自分らしい「生き」「死に」を考える会“って、すごいネーミングです。

この会の代表を務める東京女子医科大学・第一内科非常勤講師の渡辺敏恵先生の話を聞きました。

急性期病棟では、意識がなく寝たきりになった患者さんに対して胃瘻(いろう)の造設・経管栄養を行って療養病棟へ転院させることを当然のように行っていたが、療養病棟を担当するようになって自分が転院させた患者のその後の姿を見て、本当にこれで良いのか?と疑問をいだくようになったそうです。

手足の萎縮や拘縮によって元気なころとは様変わりした状態になり、意識もなく管につながれているこの人にとって幸せがここにあるのだろうか?この状態を本人が望んでいたのだろうか?と。

終末期の医療のあり方は「生きる長さ」か「生きる質」か?

医者はどうしても生きる長さにこだわりがちだが、選択は患者本人の意思の尊重が何よりも重要。

そのためには「あらゆる治療を受けたい」「延命治療は受けたくない」「どのような状態になっても〇〇だけはしてほしくない」などの思いを、自分で意思表示ができなくなる前に(元気なうちに)家族と話し合い、意思を共有しておくことが必要になります。

そのツールとして渡辺先生が考案されたのが「私の生き方連絡ノート」

このノートには、・大切にしていることや大きな出来事、家族や仕事、友人など自分のことについて・今の自分が望む医療や闘病のかたち・自分で意思表示ができるときに治療に望むこと・自分で意思表示ができないときに治療に望むこと・治療や生活について自分の代わりに判断してほしい人などを記入するようになっていて、その作業そのものが自分の「生き」「死に」を考えることになります。

人の価値観は一人ひとり違い、最後の迎え方も人それぞれ。「どう死ぬかということはどう生きるかということでもあり、死は生の対極ではなく、その一部として存在する」と、村上春樹さんの著書・ノルウェーの森から引用して、締めくくられました。

両親を亡くした私は、救命と延命の違いに混乱した経験があります。

数多くの事例を目の当たりにしてきた医師や看護師とは違い、家族にとってはどこからが延命医療になるのかわかりません。

食べられなくなってきたら点滴で栄養を摂れば元気になるかもしれない、経管栄養(胃瘻)をすれば持ちこたえるかもしれないと、生きていてほしいという強い願いから、本人の意思を考えずに家族本位の治療を望んでしまうのです。

私が出会った訪問看護の看護師から、看取りの医療について患者の思いと家族の思いにズレがあり患者本位の医療を提供できないことに苦悩したと伺ったことがありました。

患者の思いを家族が共有していれば、医療現場も残される家族も旅立ちを気持ちよく迎えることができるのかもしれません。

父の死を受け入れられず泣いていた時に、カレンダーに書いてある言葉にハッとしました。

死が不幸なら どんなに幸せな人生も 不幸に終わる

死を悲しむよりも、生き方を称えたくなったことを思い出した講演でした。


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