
老々介護の日々
出張前の、少し慌ただしい朝のひと時のことです。
諸々の用事も済ませ、母をデイサービスに送り出す準備です。母は時間は掛かりますが、手伝ってやりますと、自分のことは何とか自分で出来ます。
ベッドの端に腰かけている母に靴下を履かせていました。母は手足が少し不自由なこともあり、俯いたり屈んだりすることは苦手なのです。
「寒いから暖かい靴下を履こうね」と言って、やっと両足に履かせ終わった時、私の首筋がひやりとしました。顔を上げると母の目が涙で溢れていました。
「どうしたん?」と言いますと「勿体なくてバチが当たる」と言って手の甲で涙を拭っていました。
私は気が急(せ)いていたので、内心は早くさっさと履いてほしいと思いながらしていたのです。何となく面映ゆい気がしました。
私の母は大正8年生まれの97歳です。在宅介護5年、認知症もあり昨年12月に介護度が上がり要介護3になりました。周囲の皆さんが「大変ですね」とか「よく看ておあげで、親孝行ですね」などと言葉を掛けて下さいます。また、お手紙で私の身を案じて下さる方もあります。とても嬉しく有難く感謝している日々です。そのお心遣いで心が癒されます。

勿論私、老々介護の身です。大変ではないと言えば嘘になります。しかし、私は親孝行等というような殊勝な心掛けではないのです。特養施設の職員研修には勿論のこと、講演などでもしばしば介護について触れます。仏教講話でも生老病死について話します。だから、自分が実践せねば「口だけ番長」になってしまうからです。(w)
私のことは、皆さんは誤解しています。自分のことは自分が一番よく知っています。法話等に呼んで頂くあるお寺の坊守り(奥様のこと)様は、機会あるごとに私のことを「まるで観音様、菩薩様みたいな方」なんて言われますが、大いなる誤解です。この私こそ、正に罪業深重極まりなき凡夫です。私よりも先輩であり、名実ともに御仏(みほとけ)に仕えられる方からのお言葉やお手紙には慙愧に堪えません。でも、私への励ましのお言葉として感謝して精進したいと思っています。

閑話休題
梵網経というお経の中に「看病福田(ふくでん)」という言葉があります。
「もし仏子、一切の疾病の人を見て、常に供養せんこと仏における如くにして更にことなることなかるべし、看病福田は第一の福田なり」です。
福田とは、幸せを生み出す田んぼと いうような意味です。その福田が八つあり、その一番が「看病福田」なんですんねぇ。八つとは、仏・聖人・和尚・阿闍梨・僧・父・母・病人に敬い仕えることにより福徳を得るということです。さしずめ介護は「介護大福田」ということになりましょうか。(w)
恥ずかしながら、私は浄土真宗の坊さんの資格がありますが、真宗では禅宗や法華宗などのような厳しい修行などは課せられませんでした。だから私にとっては、介護は修行以外の何ものでもありません。今朝も、母が粗相をしたトイレを掃除しました。西田天香さんの創始された一燈園では、余所様のお便所掃除を無報酬でされます。いつも、そのことを思い出して涙を笑顔に変えている私です。
実は、出版社や周囲の方々のお勧めで、介護についての本を執筆中でした。八分通り書いたのですが、上梓は未定です。母の介護が全て終わってからと心に決めました。
今、母は小さな寝息を立てています。女学生(旧制の高等女学校を出ています)の頃の夢でも見ているのでしょうか・・・。