記憶の確かなうちに、束の間の旅のつづきを少し。
JR福岡駅ホームにて。
JR長崎駅ホームに降り立つ。快晴。
11:55JR博多発 特急かもめ 13:50長崎着13:50
所要時間およそ2時間。小松AP~福岡APは90分足らずだが。
九州へは北陸からはそう近くではない。なので目的地へは最短を選ぶ。反対に青春18の旅などは徹底して、道中を楽しむ移動方法を選ぶ。
何よりも今回は長崎へ。それも平和公園・記念像・碑(いしぶみ)など、あの忌まわしい原爆投下による幾万の殉難の人々に思いを致し、自分なりの鎮魂の旅でもあった。
広島へは、島根県(特に浜田方面へは)講演の途中、何度も行っているので、今、少しでも元気なうちに、「その思いをこめて」の長崎行きだった。
かつて、広島でもそうであったが、遣る瀬無い無力感に襲われる。ただただ、祈るばかりであった。
何度もお水を捧げた。涙が頬に伝ってきた。
次いで、ぜひ訪ねたいと思っていた浦上天主堂。私の永遠のマドンナ九条武子の歌
「青葉がくり天主教堂の文字白うひるを鐘鳴る長崎の町」 を
思い出しながら歩く。
当然のことながら天守堂内は撮影は出来ない。入り口を入ると、ここは信仰の場であるとの表示がある。観光の客らしき人は少なく、静かなひとときを、マリアさま、イエスさまに祈りを奉げてきた。(実はyo-サン、子どもの頃は教会に行っていました。戦後の物資の乏しい時代、教会に行きますとお菓子などを貰えました。この辺りがホンネかも。デンマークから来られた優しい宣教師さんでした。なので、讃美歌もよく覚えています。)
丘の上に発つ 浦上天主堂を見上げる。 ( 筆者撮影)
原爆で原形を留めないほどに破壊され、堂内の神父や信徒、浦上地区にいた12000人の信徒のうち8000人以上が爆死した。
昭和34年に再建され、55年に、外装をこのような美しいレンガ造りに改装された。
1914年に浦上天主堂が完成したとき、イタリアから送られてきた高さ2mの木製のマリア像があった。両眼には青いガラス、水色の衣を着け、頭部には12の星が取り巻かれた美しい像であった。しかし原爆で天主堂は破壊した。戦後、瓦礫の中から発見されたのが、その頭部であった。右の頬は焼けて黒くなり、目は空洞、そして髪は黒く汚れている。マリアさまは何を語りかけられるのだろうか。
↓下掲画像、これは、天主堂正面左側にある「悲しみのマリア像」。(筆者撮影)原爆によりマリアさまの手の指が欠けてしまっています。このマリアさまの前でも手を合わせて祈りを奉げてきた。
怖ろしい勢いであの戦争が風化され、当時の何百倍、何千倍もの破壊力を持つ核兵器が作られている。この国の政治を見ても、沖縄基地の問題、軍備予算の歯止めなき増大、そして、ネットなどに溢れる偏狭なナショナリズム・・・。
不意に、啄木の論考「時代閉塞の現状」が脳裏を過った。啄木の生きた時代は、明治末期から大正に至る時であるが、それはある意味現代と酷似している。彼は元号が大正に変わる直前1912年(明治45年/大正元年)に亡くなった。いみじくも今、正に平成から令和へと変わろうとしている。閉塞感いや増す気がするこの頃である。
yo-サンの長崎の旅はつづく。
あれあれ、またまた小難しくなってしまいました。やっぱりyo-サンはマジメなのかしら。それでは今宵はこれにて。また、ぼつぼつと。
JR福岡駅ホームにて。
JR長崎駅ホームに降り立つ。快晴。
11:55JR博多発 特急かもめ 13:50長崎着13:50
所要時間およそ2時間。小松AP~福岡APは90分足らずだが。
九州へは北陸からはそう近くではない。なので目的地へは最短を選ぶ。反対に青春18の旅などは徹底して、道中を楽しむ移動方法を選ぶ。
何よりも今回は長崎へ。それも平和公園・記念像・碑(いしぶみ)など、あの忌まわしい原爆投下による幾万の殉難の人々に思いを致し、自分なりの鎮魂の旅でもあった。
広島へは、島根県(特に浜田方面へは)講演の途中、何度も行っているので、今、少しでも元気なうちに、「その思いをこめて」の長崎行きだった。
かつて、広島でもそうであったが、遣る瀬無い無力感に襲われる。ただただ、祈るばかりであった。
何度もお水を捧げた。涙が頬に伝ってきた。
次いで、ぜひ訪ねたいと思っていた浦上天主堂。私の永遠のマドンナ九条武子の歌
「青葉がくり天主教堂の文字白うひるを鐘鳴る長崎の町」 を
思い出しながら歩く。
当然のことながら天守堂内は撮影は出来ない。入り口を入ると、ここは信仰の場であるとの表示がある。観光の客らしき人は少なく、静かなひとときを、マリアさま、イエスさまに祈りを奉げてきた。(実はyo-サン、子どもの頃は教会に行っていました。戦後の物資の乏しい時代、教会に行きますとお菓子などを貰えました。この辺りがホンネかも。デンマークから来られた優しい宣教師さんでした。なので、讃美歌もよく覚えています。)
丘の上に発つ 浦上天主堂を見上げる。 ( 筆者撮影)
原爆で原形を留めないほどに破壊され、堂内の神父や信徒、浦上地区にいた12000人の信徒のうち8000人以上が爆死した。
昭和34年に再建され、55年に、外装をこのような美しいレンガ造りに改装された。
1914年に浦上天主堂が完成したとき、イタリアから送られてきた高さ2mの木製のマリア像があった。両眼には青いガラス、水色の衣を着け、頭部には12の星が取り巻かれた美しい像であった。しかし原爆で天主堂は破壊した。戦後、瓦礫の中から発見されたのが、その頭部であった。右の頬は焼けて黒くなり、目は空洞、そして髪は黒く汚れている。マリアさまは何を語りかけられるのだろうか。
↓下掲画像、これは、天主堂正面左側にある「悲しみのマリア像」。(筆者撮影)原爆によりマリアさまの手の指が欠けてしまっています。このマリアさまの前でも手を合わせて祈りを奉げてきた。
怖ろしい勢いであの戦争が風化され、当時の何百倍、何千倍もの破壊力を持つ核兵器が作られている。この国の政治を見ても、沖縄基地の問題、軍備予算の歯止めなき増大、そして、ネットなどに溢れる偏狭なナショナリズム・・・。
不意に、啄木の論考「時代閉塞の現状」が脳裏を過った。啄木の生きた時代は、明治末期から大正に至る時であるが、それはある意味現代と酷似している。彼は元号が大正に変わる直前1912年(明治45年/大正元年)に亡くなった。いみじくも今、正に平成から令和へと変わろうとしている。閉塞感いや増す気がするこの頃である。
yo-サンの長崎の旅はつづく。
あれあれ、またまた小難しくなってしまいました。やっぱりyo-サンはマジメなのかしら。それでは今宵はこれにて。また、ぼつぼつと。
「鎮魂の旅」。目的を持たれての長崎行きでいらしたのですね。
やはり、その場に立ってみることですね。
そこで目にするもの、聞こえてくるもの、空気感…、さまざまあることでしょうね。
想像を、思いを広げながら、心揺さぶられる実感、自然と頬を伝う涙、そしてご自身の思いと向き合う。
こうした体験こそが大切なのでしょうか。
社会の閉塞感は不安材料です。いろいろ考えながら拝読いたしました。
(ブログではつぶやきませんのですが…)
私も平和像と浦上天主堂の前で撮った写真が残っております。
ですが一切記憶が無くて、我ながら不思議なこととしか言いようがありません。
今一度行ってみたいですが、今や「旅」は無理。何かに乗っかって、となりそうです。
天草、島原のほうへ向かわれたのではないかしら?…と期待しながら続きをお待ちします。
keiさんのような、すっきりとして美しく、そしてなお含蓄のある文章の
足元にも及ばない私です。
ここ、と思ったら行ってみる。この人と思ったら会いに行く。近年は特に
そのように思うようになりました。加齢もありますが、「そのうちに」とか、
「行けたら」なんて思っていましても、「そのうち」は決して来ないことに
気付かされたからです。
若い頃、或いは子どもの頃に、親からよく「この子は放浪癖が・・・」なんて
言われました。学校帰りは道草を。旅に出るとあちこちをのんびりと。
でも、後年は何事も一点豪華主義で、あれもこれもはせず(出来ず)に、
旅も、一ところにゆっくり留まるようになりました。今回のメインは仰せの
ように「原爆殉難」の方々への鎮魂であり、こうして生かせて頂いている
ことへの感謝であり、お詫びでした。(ホントは体力不足もあるのですが。)
という訳で、天草や島原方面は割愛でした。また追々と記させて頂きます。
どうも有難うございました。
長崎の原爆投下で亡くなった医学生(二宮和也)とその母親(吉永小百合)の物語です。
引き込まれて、涙涙でした。