転禍為福
在宅での3ヶ月余、コロナ禍も「転禍為福」つまり「禍いを転じて福と為す」として過ごした。拙いブログなど書く時間はなかった。
テレビとは絶縁、新聞は斜め読み、就寝前にラジオを少し。ネットはパソコンでの作業の休憩時に1日2、30分ほど。なので、新着ブログも垣間拝見程度。
まずは読書。蔵書の読破に挑戦。カウンセリングや仏教、宗教書が主だが、他には啄木や短歌や俳句の書、古典というところだろうか。
次いで原稿書き。長年温めていたものに着手。久々の中編100枚ぐらいを目指しながら、今のところ、その8割程度。今回は上梓する予定はないので、後はまたぼつぼつ。
更に特筆すべきことは、在宅時間が長くなり、電話による相談などを出来るだけお受けした。以前にも少しふれたが、主として「悲嘆カウンセリング」の領域に入る内容が多かった。また同様の頂いた手紙も何通かあった。
相談・カウンセリング等というよりも、どうしても話したい、聴いて欲しいとの思いを丁寧に傾聴した。掛け手の方自身も在宅が長くなり、色々な思いが募る一途だったのだろう。私としても、少しでもお役に立ててよかったと思っている。
さて、書き留めた原稿だが、タイトルは未定だが、「その1」は「落日の真宗王国」とした。しばらくこちらにも留めてみよう。
ほんの一部分だが、それでも結構に長くなるので興味・関心なき向きは早目にスルーされたし。(殆どの方がそうかもね。)
(勝手ながらコメントは拝辞させて頂いております。ご連絡は「メッセージを送る」より、よろしくお願い致します。)
落日の真宗王国
福井は仏教王国とも真宗王国とも呼ばれる。福井のみではなくて、石川、富山の両県をも含めて「北陸は・・・」とも言われる。王国とは本来、国王を元首とする国を指すのだが、ある事柄が栄えている、或いは勢力を持っている地域や組織のことをも言うのである。
私は「北陸は」と言うよりも、それぞれに「石川は」、「富山は」と言った方がより実感がある。まあ、呼び方は別にして、現在の「王国」の中身はどうであろうか。
寺院数は全国的にもトップクラスである。(日本全国ランキング「マーケティングデータ・統計データ」:NTT)別けても浄土真宗の寺が多いので、門信徒(いわゆる檀家)の数もそれに準ずるだろう。それはまた「信仰心の篤い土地柄」等との解説も見かける。
今は昔、県外で仏教や親鸞の話などをすると「越前は、ご法義・お念仏がご繁盛で」等と言われた。それは褒め言葉であろうが、現在ではもう、正(まさ)しく「今は昔」のことである。
かつて、福井市青年の家で長丁場の講座を持たせて頂いていた。35歳ぐらいまでの独身の青年男女のための教養講座である。
その内容は主として私の専門であるカウンセリングやコミュニケーション、或いは人間関係についてであった。しかし、時には脱線して色々な話題に及んだが、それがまた喜ばれたものであった。
ある時、受講生に「君たちの宗教、或いは信仰は?」と尋ねてみた。もう正確な数字は覚えていないが、答えの多くは「仏教です。」と。勿論クリスチャンもあれば、新しい宗教の人もあった。
中には「強いて言えば仏教かな」とか「特にありません。」との回答もあった。「仏教」と答えた人に「何宗ですか?」と尋ねると、躊躇なく「浄土真宗です。」と。
実はこの話は30年ほど前のことである。私も一番油が乗っていた頃で、幾つもの定期講座や講演活動をしていたが、若者たち相手の講座は自分も若返るような気分で楽しみながらやっていた。
今はもうそのような類いの講座等はないが、もし、今の若者たちに同様の質問をするとどうだろうか。案外、新しい宗教であったり、「特に無い」とか「無宗教」いう回答があるのでは、と想像している。
先例の場合、それは「家の宗教」という意味を多分に含んでいたのである。代々、真宗門徒の家は家族揃ってお念仏の信仰者として違和感もあまりなかったのである。寺や教団にとっては、長年続いた古きよき時代であったに違いない。
ところが近年は様変わりである。檀家を離れる、墓終いをする、或いはお葬式の簡素化等で寺との関わりを再考する人たちも増えてきた。必然的に寺の経営も大変な時代になった。全国に7、8万の寺院がありコンビニの数よりも多いそうだ。ある研究によると、この先20年ぐらいの間に3万程の寺が無くなる、或いは無住になるという。特に地方の檀家数が少ない寺は深刻な問題である。
それは何も末寺だけのことではない。先般の新聞報道によれば、あの蓮如所縁の本願寺派吉崎別院も伽藍の修復にも困難を来しているという。考えてみれば、これらのことは当然と言うか、成るべくして成ったと言えよう。
【信仰へのプロセス】
さて、本来信仰は極めて個人的、内面的な事柄なのである。その信仰を得るきっかけは何であろうか。「宗教は危機に根差す」と言われる。人間が何かの危機に曝された時に宗教に救いを求める、或いは心の安寧を求めて信仰を持つと思われる。それは、主体的、意識的な活動である。
また、布教や伝道は宗教につきものである。偶々それを受けての入信、或いは回心(えしん・かいしん)も多い。特に新宗教や、新々宗教にはそれが顕著である。勿論、その下地として何がしかの「危機が」根ざしていることもあろう。
結果として、危機を克服したり心の安寧を得られたならば、それでさようならにはならない。その人にとって掛け替えなき一生の信仰となることも多い。これらは、どちらかと言えば積極的な、宗教・信仰の獲得であろう。
ところが、真宗王国(聊かの自虐を込めて)の人々の宗教、信仰へのプロセスはやや異なる。自分なりの経験をもとに考察してみたい。
私はここ、北陸は福井の片田舎、坂井郡丸岡町(現・坂井市丸岡町)に生まれ育った。小中はそれぞれ地元の町立小、中学校を卒業した。丸岡は小さいながらも5万石の城下町である。小学校のすぐ近くの小高い岡に丸岡城が聳えている。
家から小学校への通学は1キロ程でほぼ1本道であった。今でこそ県道のバス路線であるが、当時は戦後、或いは福井震災からの復興期で道路は舗装など無く、土で固めた道であった。自動車と言えばタクシーか運送屋のトラックぐらいしかなく、通学中に車に出合うことなどは滅多になかった。
帰宅時はいつも同じ方向へ帰る友と、路地裏や寺や神社の境内等で道草を重ねながら、登校時の3倍も4倍もの時間をかけて帰宅したものだった。その通学路の周辺には寺が多く有り、ざっと数えても十指に余る。その半数は真宗寺院、つまり東西両本願寺の末寺である。それ以外には、浄土宗、曹洞宗、日蓮宗等がある。
それぞれの寺では折々に行事があった。経常的に催される常例布教、つまり「お説教」であり、或いは法要等である。
特に真宗では、秋の報恩講はそれぞれの寺が、日程が重ならないように営まれるので、長い間いずれかの寺で賑やかに営まれていた。報恩講とは宗祖親鸞聖人の祥月命日の前後に、本尊阿弥陀如来と親鸞聖人に対する御恩に報いるために営まれる法要である。
本山・本願寺は勿論のこと、全国の別院や末寺にとっても最大の行事である。北陸一帯では「ほんこさん」とか「ほんこまつり」、或いは「お取り越し」等とも呼ばれていて、今でも地域によっては各家や集落の行事として営まれている。
寺には大きな案内板が立てられ、提灯に灯が灯り、鐘の音が響く。沢山の人々がぞろぞろとお参りをするのであった。子ども心にもそのような風景は特別のものではなかった。
しかし、今では全てが簡素化されて、報恩講も往年は2晩3日もあったが、この頃では1日で終えるところもある。寺院関係者は「この頃はお参りも少のうて。」と嘆息する。
【日々の暮らしの中で】
少し話が逸れそうだが、この地に「丸岡おじゃれ節」なるものがあった。現在、私は殆ど聞く機会に恵まれないが、伝承されているのではないかと思っている。
その歌の歌詞1番、歌い出しは「城が見たけりゃ 丸岡におじゃれ 城は3階石の屋根」と歌い、町民にとっては丸岡城は自慢の遺産であった。その2番だが「おじじ、おばばも丸岡におじゃれ、お寺参りに孫連れ」である。そして「ヨーイと ヨイヤサの ヨーイとさっさ♫」と囃されるのである。
意訳すれば「おじいさん、おばあさんも丸岡へおいでよ。お寺参りにはお孫さんも一緒に連れて。」となる。
丸岡町は明治の町村法で発足した。その後、周辺の5村と合併して、いわゆる新(或いは大)丸岡町となった。1955年(昭和30年)のことである。ここで言う丸岡とは合併前の旧丸岡町である。以来65年、人間で言えば還暦もとっくに過ぎた歳月だが、旧村部のお年寄りは今でも「丸岡へ行く」と言う。旧丸岡町は城の周辺に民家や商店が密集し、医院や寺院も多くあった。それで、買い物をするのも、医者へ行くのも、また寺参りも皆「丸岡へ行く」となるのであった。
なにしろ「ご法義・お念仏繁盛」の地なので、年寄りには寺参りは楽しみでもあった。いい説教を聞かせてもらい、昔馴染にも会え、帰りにはちょっと美味しいものを食べて、という訳である。
同行の孫にとっては説経は分からないが、寺とはどのようなところなのか、その雰囲気を感じることが出来た。境内には露店があったり、帰りには玩具の一つも買ってもらい、食堂にも行けて、これまた楽しみであった。
このようにして、寺や仏教、或いは信仰について、それは暮らしの中の風景として何の違和感もなく、自然に受容されてきた。それは個人の信仰というよりも家のそれとして。「葬式仏教」等と揶揄されても、現実は欠くべからざる葬送儀礼やそれに続く諸々の仏事として受け継がれてきたのである。
【時代の変遷と共に】
しかしそれは、もう過去のものになりつつある。せいぜい昭和生まれ世代までのことであろう。生き方の多様性等とも言われて久しいが、伝統的な価値観や死生観までもが変容してきた。
特に今年は春からのコロナ禍で加速されたようだ。この辺りでは昔から葬式は家、或いは寺院で営まれた。不幸があると近所の人はこぞって手伝いに集まる。男性は葬送儀礼全般について協力する。女性は、その家の家族や親戚等の賄いに努めた。あれこれと役割を演じる中で、近所のコミュニケーションも深まるのであった。つい20年ほど前までの話である。
ところが、長く続いていた3世代同居が少なくなり、新しい家が建ち、その構造や生活様式も変わってきた。そのような時期と重なるように葬儀社等を中心にして、葬儀を営むための式場が建設された。式の段取りから進行、その他万端をプロがやってくれる。近所の人々の出番も少なくなったのである。
ある意味、便利で楽になり、周囲にも迷惑をかけなくてよいようにも思うが、地域社会、いやもっと身近な近所同士の温かな付き合いまでも失われる気もする。
古くから村八分という掟があった。村の中で様々な付き合いや助け合い、共同で為されることがある中で、火事と葬式以外は一切排除するという不文律である。つまり村落共同社会から排除されるに等しい仕打ちである。
それくらいに葬式、つまり人の死に関わることは特別のことであったのである。皆が死を悼むという心の発露かもしれない。
もう随分と昔であるが「気違い」という映画を観た。作家「きだみのる」の作品を映画化したものである。ストーリーはもう朧になってしまったが、ある一風変わったでの人間模様を描いた悲喜劇である。確か松竹作品で往年の名優、伊藤雄之助や淡島千景、伴淳三郎等が登場していた。
村八分になっているのだが葬式にも誰も手伝いに来ない。伊藤・淡島の演じる夫婦が、雨の中、亡くなった娘の棺を大八車に載せて行く風景が脳裡に焼き付いている。
何処の地方か忘れてしまったが、数年前にある集落に転居してきた家が村八分に合って水利等に困っていて、再び引越しをせざるを得なくなったとネットニュースは伝えていた。
現代社会では、そのようなことはごく限られた地方のことなのかも知れないが、人間の持つ醜さを考えさせられる。しかしながら、社会福祉や行政サービス、或いは生活ビジネスが充実してきた現代では村八分も、村九分でもさほど困らない時勢なのかもしれない。
コロナ禍によって、葬送儀礼が変容した。感染防止のために、通夜だ、葬式だと大勢が集まることは避けることになった。親しい身内のみによる、いわゆる家族葬が増えた。仮にコロナが早く終息すれば、また従来のような形態に戻るであろう。しかし、なかなか収束すら見えず、第二波、第三波さえ予想されている。
そのうちに人々は、葬送儀礼について考え直すようになるだろう。つい先日の新聞に、真宗や禅宗のお坊さんたちが集まって、これからの葬儀の有りようについて討論したとかの記事があった。葬式が身近な人たちだけで営まれれば、当然のことながら、式場や葬儀関連のあらゆる規模が縮小される。必然的に寺へのお布施も少なくなるのである。坊さんたちの討論の趣旨はお布施云々ではなく、簡素化されることによって死者を悼む心や、仏教への思いが希薄になることへの心配であったように記憶している。
もっともなことだが、それは何も昨日今日に始まったことではない。長い時間をかけて変容してきたことで、コロナ禍により少し早くなるかもしれないということである。
【王国の退潮】
長々と前書きにも似たことを連ねたが、真宗王国の退潮は、時代の変遷や人々の価値観の多様性だけではない。仏教、或いは宗教全般を眺めてみると活性化しているところもある。それらは概ね新しい宗教団体である。入信、活動する人たちには若者、青年が多くみられる。その活動内容を把握している訳ではないが、広報誌などの出版物を見る限りでは、「今をどう生きるのか」ということがテーゼになっている。奇を衒った何かをしているというものでもない。
近年、地元紙にも取り上げられていたが、寺の本堂でライブやダンスの集い、或いはカラオケ大会等の催しをして話題になった。それも悪いことではないだろうが長く続いた試しがない。一過性で終わることが多い。
古来「盆踊り」は人々の夏の楽しみであったが、それもダンスのようなものだ。元はと言えば、鎌倉時代に一遍上人がはじめた踊り念仏がルーツである。踊りを通して念仏が拡がって行くのは結構なことに違いない。それは時代状況からみても十分納得の行くことである。 今でも盆踊りが盛んな土地は、かつて一遍上人が全国行脚した時に訪れた土地であることが多いという。
だが今日、寺でダンスやカラオケをやっても始まらない。邪道の誹りをも免れない。もっとやるべきことがあるだろう。そのことに気付かないこと自体が、王国(ふたたび自虐的に)の退潮を助長している。
【蓮如信仰からの解放】
少し前後するが、この地が何故「真宗王国」になりえたかについて、記さねばならない。元々越前には多くの寺があったが、今日のように真宗寺院があった訳ではなかった。
8世紀初頭に修験者・泰澄大師が自ら十一面観音像を刻んで、本尊として豊原(現・坂井市丸岡町豊原の山中)に豊原寺を建立した。時代が下り天台宗の大寺院となり、豊原三千坊と称されるようになった。
天台宗は「日本仏教の母山」とも呼ばれる比叡山延暦寺が本山であり、真宗の開祖親鸞聖人や、その師法然上人、日蓮上人、道元禅師等、鎌倉仏教の祖師方が修行した。そのような背景から古くは天台の寺院も多くあったと推察される。(その歴史的変遷についての知識は聊か心許ないので、間違いあればご教示を賜りたい。)
ところが15世紀後半に蓮如上人(この後は蓮如と表記する)が、比叡山と対立し北陸へ下り、吉崎(現・あわら市吉崎)(クリックOK)に坊舎を建立した。その精力的な布教により越前、加賀辺りの人々が蓮如の元へ群集した。
そのような経緯から、蓮如の真宗に転宗する既存の各宗の寺が続出したと伝え聞いている。蓮如なればこそ、さもありなんと思う。
蓮如は「本願寺中興の祖」と呼ばれ、当に真宗王国の礎でもあった訳である。その蓮如の500回忌も過ぎて10年になる。
真宗に連なる人々は500年もの間、蓮如の教えが暮らしの中に息づいて来たのである。
ある意味それは麗しき伝承と言えないことは無いが、それ故に真宗の退潮へと繋がるのである。
蓮如についてはこれまで何度も書き、また語ってもきた。それは必ずしも真宗という宗派や教義における蓮如ではなく、私の専門のカウンセリングの範疇からである。彼の人柄、人々を引きつける魅力、或いは「女人往生説」に見る彼の女性への眼差し等々である。その辺りのことについてはまた別の機会に譲りたい。
【後生願い】
この辺りでは、寺参りや仏事などに熱心な人を指して「あの人は後生願いやから」と言う。これは正に「蓮如信仰」(私が勝手に名付けている)そのものである。蓮如は稀有の宗教者であり伝道者であったと思っている。彼の存在がなければ本願寺(東西)は決して日本一の仏教教団にはなれなかっただろう。北陸の門徒宗(全国のかも)は、誰しも「蓮如さん」と親しみを込めて呼ぶ。側にも寄れない雲上のお上人様ではないのである。
彼の布教については想像するしかないが、残した多くの書簡(お文、ご文章等と呼ばれる)は見事な名文である。福井辺りに住んでいれば知らない人はない。
例えば真宗門徒のお通夜に参るとする。導師の読経の後に必ず「お文(御文章)」の拝読がある。それは概ね「白骨の章」と呼ばれるものが多い。自らが真宗門徒でなくても参列する人は聞くのである。導師を務める坊さんが、徐に読み始めると一同一斉にうな垂れ、瞑目して拝聴する。全文は長くなるので割愛するが、
「それ、人間の浮生なる相をつらつら感ずるにおおよそ儚きことはこの世の始中終ゆめ幻の如くなる一語なり」で始まり、
「誰の人も後生の一大事を心にかけて阿弥陀仏と深くたのみまひらせて念仏申すべきものなり。」で終わる。
長く親鸞とその教えについて学び深めてきたが、どうも蓮如の伝えるところには違和感が残る。
突き詰めると蓮如は「この世は儚い仮の世に過ぎない。たとえ不幸であっても後生(死後)こそ幸せになることが大切なのだ。
今生に念仏して来世に極楽浄土に生まれるのだ。」と言うのである。死後の為の念仏であり宗教と思われても致し方ないのである。
親鸞はそうではない。現世に対して肯定的である。苦しみや悲しみの多い世ではあるけれども、それに目をそむけずに生きて行く。すると生かされている自分に気づかされるのである。この身にかけられている願い、大きな存在に気づかされる。それが如来(阿弥陀仏)の大悲なのである。
親鸞は「現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)」と示されている。それは、死後に浄土に往生してからではなく、現生(この世で)に正定聚(成仏することの決定した集まりの数)に入るということである。
真宗人には慣れ親しんでいる「正信偈」の中に「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」という件がある。「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」ということなのだが、私はそれは取りも直さず現世を、今をどう生きるかということにもなると思っている。
私淑した師のお一人である故・森隆吉先生は「九十年の生涯に、一つの寺もつくらず、弟子一人も持たないといった親鸞の死後に、彼を開祖とする日本最大の真宗教団が生まれたというのは、いかにも皮肉である。」と言われた。
更に蓮如を「彼は親鸞の思想的遺産を誰よりも的確に把握し、また大胆に改竄した思想家であり政治家でもあった。」と。
そしてまた、「中世的世界と創造する革命期の結実である親鸞精神をいつまでもピューリタン的に保持し、発展させて行くことが出来るなら奇跡というほかはない」とも。
序でに、とも言おうか。実は前述の蓮如の「白骨の章」はどうも蓮如の作ではないらしい。もう故人であるが、藤並天香という苦労人のお坊様が「白骨の御文章・お文は後鳥羽上皇が隠岐に流される前年に書いた文書のほとんどの盗用だが、法然・親鸞を流罪にした上皇の文を真宗の全住職が使っているのも皮肉といえば、これほどの皮肉も矛盾もあるまい。」と書かれている。(親鸞と現代)
いずれの教団においても、「祖師に帰れ」、或いは「釈尊に帰ろう」と叫ばれて久しいが、今こそ、その実践の時であると思う。「お念仏の繁盛」と、本当の意味での「真宗王国」の復活のためにも。