「生涯引きこもり」と宣言された私の、超豪華オプション生活

 登校拒否となり、生涯ひきこもりであろうと決めつけられて四半世紀。社会人として生きる記録。#発達障害 #自閉症 #ニート

治ってきたな

2020-12-26 22:34:58 | 日記

自分、治ってきたなと感じた。

昨日はクリスマスでありめでたい日である。

そして、「電通事件」でお亡くなりになった高橋まつりさんの命日でもある。

キリスト教におけるクリスマスは、イエス・キリストの生誕に思いを寄せるばかりではなく、受難にも思いをはせる日である。例えばバッハのクリスマスオラトリの終曲は、「十字架音階」の散りばめられた葬送曲を、きらびやかに演奏する。

クリスマスは本来、バカ騒ぎではなく、主の降誕における貧しさと受難の苦しみを背負う覚悟をすでに神様ご自身が持っておられたことを記念する行事である。

高橋まつりさんの受難のことに思いをはせ、まさにクリスマスとはそういうものだと思う。

私もまた、高橋まつりさんと同じように、うつ病を持つ身である。先に自死をもって旅立った人たちのことを聞くと、最近まではうらやましいと感じられ、取りつかれる思いになることもあった。

しかし今は、ただただ死ななくてよかった。何度も死神がやってきたことはこのブログに何度も書いているが、取りつかれずによかったと、思えてならない。

気分障害などの精神疾患がある水準を超えると、死ぬことが怖くなくなる瞬間がある。

幸か不幸か、自分は精神疾患への教育があったから、それが病気によるものだと理性で判断でき、そうなったときに、頓服を飲む、医療にかかる、などの緊急措置を取ることができた。

まつりさんの場合は、ご本人は自分が危機的であることは理解していたようだが、医療にかかるとか会社から逃げるとかいう選択ができず、おそらく解離が起きてしまったのだと、私は推定している。

うつ病などのある種の精神疾患にかかると死にあこがれを持つが、それは病気のもたらす一時的な現象。

精神疾患は周りからは見えないから、職場など周りが自殺を命じるなど追い込む言動をするケースがままある。私にもその思いではある。

しかし私の場合、上司の違法な命令には聞き従わず医療にかかり、ドクターストップの診断書に基づき社会的に正当な形で休業し退職している。今、そうしてよかったと思えてならない。

だからこそ、クリスマスはイエス様の降誕を記念する日であり、そして高橋まつりさんの受難を思う日でもあると思う。

年末年始にかかり、経済的困難に直面する人々のことが思われる。死ぬくらいなら早急に支援者を連れて福祉事務所に駆け込んでいただきたいし、過労で苦しいのなら会社を休んで精神科に駆け込んでほしいと思う。

少なくとも死んでくれとか死ねなどという人々に対し、切ることはあっても従う必要はない。

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就労移行支援事業所の様子を、内側から観察しています

2020-10-30 07:31:04 | 日記

就労移行の日常を観察する

 

今、私は、就労移行支援事業所を利用している。

別に引きこもってしまい毎日外に出られなかったからではない。主治医から障害者雇用での就職を強く住められて現状から納得。ひとり+ナカポツ〈障害者就業・生活支援センター〉間接支援による障害者雇用活動がうまくいかなかった過去を踏まえたものだ。

利用してみると、利用者は、コロナ禍があるからか、登録者の半分程度は欠席している。

利用者は皆、社会人経験があるようだ。教育レベルは高卒が偶然多いが、元管理職とか、福祉施設の元役職者とか、そういう人たちもいる。

私のいるところは多機能型なので時々B型の仕事を手伝いに行くが、就労移行のメンバーが行くと小一時間で仕事がなくなってしい、B型の人たちは帰宅。就労移行は再び各々の訓練。または帰宅ということになる。それだけB型の利用者と就労移行のそれとの能力に差があるということだ。

就労移行のメンバーは社会人経験があるので、対応もしっかりしている。社会のルールもわきまえていることが多い。

ただ、訳ありの人たちの集まりであるからは、人同士の距離感に不具合が生じケンカになり、あるいは居づらくなり、出てこられなくなる人がいる。

また、職員に過度な期待をし、職員がそのように動けないことに不満を持ち、引きこもってしまう人もいる。そういう人たちは心理職のいる就労移行に行けばいいかもな。と個人的には思ったりするが、確実ではないし私は彼らの支援者ではないので黙っている。そもそも出てこなければしゃべるチャンスもないしとりわけナイーブな人たちだから、かける言葉は極めて慎重でなければならないと思っている。私は利用者。適度にうんうんと頷きながら観察するだけでいい。

利用しているところの場合、パート職員の時給は最低賃金に近い。職員の7~8割はパート〈常勤的非常勤を含む〉だ。安月給か主婦の小遣い稼ぎである非常勤職員に何を期待するのだろうか。幹部候補でも初任給は給料25万にとどかないようだ。残業手当のつかない管理監督者職員でも年俸400万に達していない人もいるだろう。おそらくボーナスはないに等しいのかもしれない。構造的に安い給料しか払えないから、いい人材は福祉にはいないことが多い。いい支援があれば、それはラッキー。と私は思っている。

利用している会社はしつけがしっかりしているからか、従業員からとりわけ横柄な対応をされたことはない。もちろん苦手な人もいるし、元福祉職としては「もっとがんばれよ」と思う職員もいる。でもそれは言わない。私はただの利用者。就職のために利用しているにすぎない。そこで仕事をしているわけではない。彼らの指導は会社の幹部がやることだ。私のビジネスではない。

就労移行は居場所であればいい。就職活動を進めるから手を貸してくれれば満足。仕事ができるという証拠作りを手伝ってくれればいい。それだけだ。

いまのところ良好に利用できているのかもしれない。コロナ禍なので、なかなか求人は少なく、消える求人にも出会う。安易にブラック企業に引っかかるわけにはいかない。腰を据えて取り組むしかない。

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人生いろいろ

2020-10-20 07:15:39 | 日記

 

いろんな人生が、あっていい。そうなんだけれど、なんかなあ、と思ってしまう人たちもいる。

ご自身がとても苦しい。そして周りに対して誤解したり当たったりするから周りの人たちがとても迷惑している人たちがいる。そういうのは今の精神医学では何らかの病名が付く。薬がメインかもしれないが治療もある。診断をきっかけに考えられる対応もある。

しかしそれら医療を拒否し、私は精神疾患ではないから病院には絶対行かない。と言い張る一群がいる。いわく、精神病の半分は精神科医と製薬会社が自作したものだ。パーソナリティ障害とか発達障害とか、病気ではない。などと。

彼らが言うように、パーソナリティ障害や発達障害を生物科学的方法で診断されていないことは事実だ。うつ病でさえそうだ。それをもって統合失調症など傍から見てわかる人を除き精神科の診断を否定する論調をいくつか見聞した。世の中が悪いとかなんとか。精神科なんか行く必要はないとか。なんとか。

診断基準が1990年代から変化していったのは、米国精神医学会診断基準(DSM)の変遷を見れば明らかだ。製薬会社や精神医学会が巨額の資金と影響力をみって勢力増長を図っていることも事実だ。だからといつて、うつ病や発達障害(DSM診断喜寿からその名は消えたが日本では法律上これからも言われ続けるだろう) は医学会の陰謀だ。存在しないものだ。などというのは、現代社会を全く考慮しない意見だと思う。

診断基準の変遷は政治的なものだと学んでいるが、それにしても、政治社会的変遷の影響を私たちは強く受ける。社会や集団から受ける力によって精神が異常をきたす現象については多くの同意がある。

社会が悪くて病的な反応が出るのは通常であるとかなんとか。そういってなんと精神科の診断そのものを否定する意見にもいくつか出会った。それら意見の人たちは、企業社会から距離を取り就職せず、個人企業をモットーとし、必要とあれば生活保護を受けることを推奨していた。そして精神科の診断、治療、精神科診断の必要な障害年金や福祉にはつながらないことを強く推奨していた。

彼らは精神的に苦しければ薬を飲むのではなく、わめけばいい。器物損壊すればいいと言う。それが正常な反応なのだから。だそうだ。精神科はすべて害悪でしかないそうだ。すごい意見だと思う。言論の自由はある。受けたくない治療を強制するのは困難だろう。でも、周りの苦労や社会情勢を無視して苦痛と貧困を推奨するのだ。私は反精神医学の人たちからは積極的に離れるという一択しかない。

私は自分の精神疾患が表面化し、周りの人たちが離れていくのを感じてきた。離れていくのは仕方がないと思っている。発達障害の概念を勉強し理解し、現代の診断にあてはめ自分が障碍者ということなら障害者だと認識した。社会的に失われた所得の幾分かを(完全にではないが)障害年金をもって補填し、利用できる制度はすべて活用し、補助や控除を最大限受け、自らが貧困に陥ることを防いできた。

また、よい活動や医療があると知れば北海道や鹿児島に出かけ、現地でその活動や治療を受け、対処を学んできた。様々なコーピング技術を試し身に着けてきたことは、このブログで一部を現した通りだ。そうやって自分のできる努力はすべて行い、自分の苦しみから逃れ少しでも普通にパフォーマンスができるよう工夫してきた。

発達障害の苦労はあるし、うつ病の苦労も私には現に存在する。神田橋先生を含む複数の医師が認め、治療に手を貸してくれている。その他さまざまな人たちの力や知恵を借りながら、いろいろな人たちの助力をいただきつつ、今を生きている。

その私の苦労が他人の目には見えないから苦労そのものが存在せず、医師とグルになっているにすぎない。とか、愚弄する意見にあった。

そういう連中とは二度と関わりあわない。それだけでいいと思う。社会活動ならただ離れるだけでいいけど、これが仕事上の関係だとまずいと思う。だから主治医は障害者雇用で行くことを推奨するのだろう。

障害非開示で就業し、長時間残業や長時間連続労働やパワハラ環境でもなんとかなるうちはそれでいいと思う。かつての私はそうだった。ただ今の私にその力はない。障害非開示でやつていける力がないからといって、受けられるはずの制度や支援、医療まで否定され、支援制度を最大限利用し何とか自分を立て直そうとする営みを愚弄されるのは心外だ。私の尊厳を冒涜し名誉を著しく毀損する言動をする人物や集団に対しては、全力で離れることが第一選択肢だ。

もちろん、各種制度は本人が求めるのであれば利用するもの。利用制度とその実際について私はこれからも述べていくが、だからといつてその利用は強制されるものではない。そもそも権利行使や擁護には膨大なエネルギーを要する。本人が嫌がっている状況では権利擁護のしようがないと私は思う。

私は医療などを研究し制度を最大限活用する。自分が医療を受けることを拒否し社会のせいにする一群があること。制度活用を拒否し貧困化する一群があること。について学ぶことができた。彼らの影響下にある人たちがそこから出て支援を求めるのなら、私はそれら人たちの権利擁護をするのかもしれない。それだけのことだと思う。

私は私の学習が不特定の人たちの利益になると思うので、このように公開している。私の経験を活用したい人が、活用していただければ。それでいいと思う。

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生きていかなきゃ、いかんのかな

2020-08-14 12:38:42 | 日記

生きてかなきゃ、いかんのかな

 

社会ではALS女性が医師二人にSNSで自殺を依頼し、その医師二人が金をもらってたった10分でその依頼情勢を殺害した。完全犯罪を試みたようだが成立せず、医師たちは逮捕された。

その殺人行為に対し、維新の松井大阪市長や馬場議員などが医師二人への支持を表明し逮捕した警察を批判。船後議員が医師二人を批判したことに対しても「本来安楽死議論を率先して行うべき立場の人が」などと船後議員に暗に死ねと公然と言い張る。という事態を見てきた。

また、れいわ新選組における、大西つねき氏の騒動も、垣間見てきた。高齢者は若者のお荷物だから、とっとと死ね。というのだ。

これはとりあえず難病がたたき台になってはいるが、実は認知症やうつ病を含む精神疾患にもかかることだと、SMS上では話がなされてきた。精神疾患にあえぐ人たちが安楽死を主張し船後議員や木村議員に対して、お前ら障害者に生きる価値無し。安楽死せよ。と公然と自筆で書き込む光景が展開された。

医師二人のうちの一人の妻が元国会議員でソーシャルワーカーを名乗り、逮捕された夫がアスペルガーだの、夫を一切助けないとか、枯れたく無いから浮気するとか、全力で助けるとか、恥ずかしげなく社会福祉士精神保健福祉士の名誉を失墜させる文章をブログにして目立っている光景も見ている。

 

そして私は、といえば、

発達障害、というのはただの「少数派」なのだから、それだけではハンデとは決定的にはならないが、不適切な子育てしかできない家庭に生まれ、愛着障害によって発達凸凹では済まされずおそらく後天的に発達障害となった。

やがて40過ぎにパワハラでうつ病〈適応障害ともいわれる。うつ病と適応障害の弁別は困難と聞いてする〉となり、今まで障害を基本的に開示しないで生きてきた。障害配慮など得られないとわかっているからだ。

老化現象もあってか身体が弱くなり、それに対して栄養療法やヨガ、腹式呼吸など、試せるものはすべて試してみたことは、このブログを見ればわかることだ。しかしそれらは体質改善には貢献しても、人間関係の軋轢や社会変動の激しさには到底間に合わない。ということも述べてきた。

そして今、信頼する主治医から「障害非開示での就職は、お勧めしない」と明言された。

ただの精神科医ではなく、私の状況をよく知る、信頼関係のある人から出た言葉であり、これまでの苦戦もあり、基本的にはそれを受け入れる方向で、今後は生きていかなければならないと思っている。

障害を受け行けて生きてきたつもりだが、さらに職場に障害開示して生きるというのは、要するに経済的に自立できず、国からの経済的保護がないと立ち行かないことを受け入れなければならない。ということである。時には今までの努力を否定され子ども扱いされるような支援を受け入れなければならない。ということでもある。

 

今、お盆を迎える。故郷のことを思い出すと、エリートとして厳しく育てられた自分は、なんとみじめな状況だ。面目が経たない。腹切って死にたい。という強い思いに駆られる。

そう、冒頭で取り上げた、安楽死を願う難病や精神疾患の人たちと心情は同じだ。心身の障害により自分のイメージしていた自分でなくなったことで、死にたくなる心情は、私の心情である。

 

しかしその心情に、理性をもって律しないといけないと私は考えている。

私の場合、宗教的理由というのが最初に出てくる。私は神様が命じる私の人生を生きるべきだと信じている。それは何なのだろうか。わからないが、理性的に考えると自殺する状況ではない。

それから、私には核家族がある。その核家族のためには、私は死ぬべきではないと〈らしい〉。〈らしい〉と書くのは、私は私の心底の心情である希死念慮・自殺願望の思いを何とか制し、核家族からの「生きていてほしい」という声に応じて、心からの死にたいという思いを制して生きているからだ。

 

安楽死議論が進むと、おそらくは百年前のドイツの道に近い形になるものと、予想している。そのナチスの道は最初の対象は小さくても、10年後にはこの世に住むおびただしい人が殺害の対象となる、理性的には恐ろしい価値観だ。

しかし感覚的にはナチスは究極のヒューマニズムであるから、右翼が好むヒューマニズムが推し進められれば、維新の有力政治家たちやアメリカ美容整形学会を除名された著名な美容整形外科医が理想とするような、ナチスが支配したヨーロッパのように「非生産的」とか「反ナチス」とかレッテルを張られた存在が機械的に殺害される世の中が、現在のこの国に近未来の現実としてもたらされるのだと、想像できる。

 

自分が弱ってきて、実に政治的なことで、自分の生死も分かれてくるのだなと感じる。

なにせ、発達障害なる診断は、誠に政治的社会的なものであると、元々思いつつ、「世の中が障害というのなら障害なのだろう」と認めてきた。

人間は社会的生き物だから、仕方がないのだろう。しょうがない。

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福祉に人が集まらないわけ

2020-07-23 21:41:54 | 日記

 

コロナ禍のさ中に、就職活動しています。

どうしても福祉系に目が行きます。

同じところから毎度のように大量募集が出ます。従業員がどんどん入れ替わるのですね。何らかの理由で、長居できないのですね。

社員を育てるのではなく、余分に雇って選抜する。育成するのではなく、大事にするのでもなく、どんどんふるいにかけていく。いくらやめてもいいようにする。そうしたほうが昇給はないし、ボーナスもいらない。そうやってどんどん人を入れ替えている社会福祉法人が儲かる仕組みになっているようですね。

 

人が来ないと困るから、フェイク求人が横行しています。ハローワークの求人でさえ、期間雇用なのに正社員募集するのは序の口。リクナビやマイナビやタウンワークで、現実の二割三割盛りの求人出して釣り、入社後に現実を見て、辞める人もいます。

前職は一割盛っていました。私にとってそれは想定内のことでした。それでも半分くらいの新人が腹を立てて辞めていくのを見てきました。医療福祉ではフェイク求人が常識としても、三割も盛られてしまっては、一事が万事なので、私にとっても埒外。わかった時点で辞退しています。

 

そして、面接でよくよく聞いてみると、福祉職を人間扱いしない事業所も見えてきます。接客業だからといって生理現象を否定されてしまつては、仕事はできません。責任の所在があいまいでは、何かあったら必ずもめることになります。福祉職はボランティアではないのです。長く勤務するにはそれなりの備えが必要です。人間として生きていける体制を取らないのですから、そういう職場に人は定着しません。

 

なんかそんな現場が多くて。今の私には務まりません。困ったものです。

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自閉症の社会的障害つてなんなのだろうか

2020-01-17 11:55:48 | 日記

最近、ベてるの家見学時資料が出てきて、統合失調症の認知機能障害についての資料が出てきた。それを読んでいて、自閉症の社会性の障害とされることについて思いをはせた。というのも、統合失調症の自閉性と自閉症は、しばしば混同され、誤診も多い。しかし当事者なり専門家なりお互いが「発達障害じゃない」とか「自閉症じゃない」などと不毛なレッテル貼りやら区分けなりなどをやりあう滑稽な光景を見ているので。予後絶望で固定したい人たちがいて、なんだかなあと思う。

最初に、2012年11月5日、北海道浦河町で行われた研修会で、宮崎大学の白石裕子先生のスライドに書かれていた「〈統合失調症の〉認知機能障害による障害 他人についての障害」について引用する。

認知機能による障害 他人についての障害

・自己中心にも物事を捉えて、他人の考えが理解できない。〈他人の考えの理解の障害。心の理論の障害

・相手の気持ちや視線を誤解する〈他人の気持ちの理解の障害。被害的な構え〉

・気配りなど場にふさわしい行動の障害〈人付き合いの障害〉〈白石 2012.

 

つづくスライドで白石先生は「サリーとアンの課題」をそのまま引用した。これは自閉症の社会性の障害について説明するときによく用いられる説明である。

 自閉スペクトラム症(アスペルガー症候群) サリーとアン課題

https://kokoromasic.com/82_asperger4

なお、上記情報は舌足らずの情報である。社会性は後天的に発達するものであり、ある程度の知的能力があれば社会経験を学習することにより、「普通に」課題を答えることができるようになるものである。〈本文後段にて内山登紀夫大正大教授の説明とリンクで説明〉

 

これらを引用しつつ、白石先生はスライドで、認知機能障害は〈統合失調症の〉幻覚妄想によつて他者の意図や感情を誤って推測し、死線や体の働きを誤解するという社会性認知の歪みに基づく症状〈白石 2012〉と説明している。

 

一方、自閉症の「三つ組の障害」のひとつの社会性の障害とされることの説明について、大正大学の内山教授は「よこはま発達クリニック」ホームページ上で、以下のように説明している。

社会的イマジネーション

のを並べる、特定の物を集める、変化を嫌う(同じ行動を繰り返す)などのこだわりと言われる行動は、イマジネーションの障害が背景にあります。次に起こることを想像することが難しく、自分なりに見通しを持つことが出来ないため、同じパターンを繰り返し行うことで安心しやすいと言われています。また、自分の好みの物を集めることや揃えることを好んだり、せっかく集めても、それを本来の目的ではなく、たた蒐集することだけで満足することもあります。

https://www.ypdc.net/自閉症スペクトラムとは/

 

私が自分の知識経験から思うこととして、内山先生がローナ・ウインク博士の理論に基づいて並べたもろもろの特徴は、固定された非可逆的な「症状」であるとは思わない。

統合失調症の予後が必ずしも絶望的なものでないのと同様に、自閉症を含め発達障害とされる人たちもまた、本人や周りの努力にもよるが、発達し進歩していくものである。

統合失調症の人たちの認知障害が幻覚妄想によって引き起こされるのと同じように。自閉症の社会性の障害などもまた、感覚過敏や二次障害〈うつ病や統合失調症など精神障害の併発〉・三次障害〈医師による不適切な多量多剤投薬による医原性精神疾患〉によつて憎悪し、あたかも固定したかのように見えると、私は理解している。

私の理解と経験では、感覚過敏や二次障害、三次障害への手当てをすればローナ・ウインク博士や内山先生の指摘する特徴は目立たなくなる。

このことは内山先生自身がよこはま発達クリニックホームページ上で

”ASD〈自閉スペクトラム症〉の人たちの社会性は発達しないわけではなく、ゆっくりと発達し、変化していきます。知的に高い人たちは、これまでの経験をもとに自分で特性が目立たないようにカバーしている人も少なくありません。

と述べている。

身体環境さえ整えば、いいのである。


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思わず書いてしまった。

2020-01-10 15:24:31 | 日記

発達障害者や自閉症スペクトラム障害の人たちの治療目標が「家事をする引きこもり」であると公言している医師が、こんなツイート書いたのが回ってきたので、思わず反論した。

ちなみにafcp 01こと吉川徹医師〈当時、名古屋大学附属病院、現在愛知県コロニー〉は、以下のように発言し、愛知県庁に住所のある機関の公式文章に残っている。

"吉川:自分は発達障がいの方、特に自閉症スペクトラム障害の方の場合に目標となるのは、私は実は「家事をする引きこもり」だと思っています。そこが目標で、それ以外はオプションだと考えています。" 

引用文献  吉川徹ら 発達障がいを持つ青年の社会復帰支援~特性理解にもとづく援助について考える~ 2012 愛知県精神保健福祉協会 こころの健康第47号 p28

 

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福祉の専門家って、そんなに偉いの?? 

2019-12-11 14:32:24 | 日記

最近、れいわ新選組の動画から、鳥居という新進俳人を知った。

その動画の話と鳥居さんの歌集「キリンの子」KADOKAWA)のプロフィールを読み解くと、両親の離婚と母親の精神疾患発病。小5眼前で母親自殺。児童相談所一時保護所と児童養護施設での施設内虐待。里親に出されるも里親から家を追い出されホームレス体験。とある。

その後、歌人の古川宏志氏に見い出され本を出されメディアのインタビューにも登場されるが、義務教育をまともに受けられない人がいることを表現するため、公の場ではセーラー服で登場する方である。

 

「キリンの子」(KADOKAWA)より

 

孤児院

 

先生に蹴り飛ばされて伏す床にトイレスリッパ散らばっていく

 

理由なく殴られている理由なくトイレの床は硬く冷たい

 

爪のないゆびを庇って耐える夜 「私に眠りを、絵本の夢を」

 

 

壮絶な体験をしていないと、とても書けない描写が綴られている。このような人は昔からいた。

私が四半世紀前受けた福祉教育でも児童施設内虐待は教えられ、就職活動時には児童養護施設・恩寵園事件がたびたび報道された。

社会福祉士教科書には養護施設を経験し施設内虐待を告発するサイトを書いていたEDWARDが紹介されていた。今年になりあらたなる虐待告発も公になった。同時期にエドワード氏と同じ養護施設〈東京サレジオ学園〉で育った花村萬月氏が自らの施設内虐待体験を書いた本が芥川賞を取り、同時期に発生した東京サレジオ学園事件でも同学園での施設内虐待が語られた。大卒時の就活でこの施設にOBがいたので話をきいたが、悪い話はなかったし、そもそも世界最大宗教団体修道院直轄経営で建物のデザインが賞を取るような有名な施設での、その宗教団体の掲げる教義とはあまりにもかけ離れた凄惨な実態の告発に、大変驚いたことを覚えている。

21世紀になってからも児童養護施設での悲惨な施設内虐待の報道は後を絶たない。録音録画されたものがメディアで明かされることもあった。家庭内で虐待された子供たちは、保護された児童相談所施設や養護施設でも虐待され、心の休まる場所がない。

それを歌人・鳥居さんは赤裸々に描いている。花村萬月さんも書いている。いろいろな当事者が児童養護施設のでの悲惨な体験を話されている。にもかかわらず、メディアは児童虐待が報道されると「なぜ保護しなかったか」と短絡的に児童相談所の対応を責めるのみ。虐待家庭からは早期に保護し施設に放り込めば安心であるという神話がまかり通っている。

もちろん家庭内児童虐待はこの社会における大きな課題だが、家庭内で十分な養護ができない家庭への支援やら、虐待で深手を負った人たちをケアできるように療育的里親の養成〈リンク先の土井ホーム亭主は大学院卒〉と体制の整備〈養護施設の小舎化や里親活用〉が必要であると四半世紀前から言われてきた。

私が福祉士として仕事を通して肌で感じ、または専門家同士のうわさで聞くのは、児童相談所が民間児童養護施設の経営に忖度することであり、某欧州国裁判所から判決〈児童相談所から子供を奪還し某欧州国に亡命した母親に対する、日本への強制送還拒否判決〉で指摘されたような、不必要かつ有害な強制的母子分離・家庭離散さえ、まつたくもって巷でありうることであると認めざるを得ない。

ここでも不幸な子供をやり取りし「飼育」することで利益をむさぼる福祉業界の構図が、現にあるのではないかと思えて仕方がない。福祉の専門家がつなぐ、とは、養護施設の空きベッドを出さないようにすることなのか。そうではないだろう。施設収容は最後の手段、のはず。

ソーシャルワーク関係のとある研修での事例検討会で、自治体がすでに保護の必要なし見守りを継続と判断した事例が出た。自分は話を聞く限りではその家庭の人権をはく奪するような保護は必要でなく、それ以外の方法を言ったが、福祉士という人種の少なからぬ人々は、施設収容が絶対安心という信念を持ち、何度となく、さまざまな法令を用いて強制手法は取れないかと入れ知恵し画策したという現実を、私は思いたい。

ソーシャルワーカーは、利用者の人権を擁護する存在。のはずであるが、施設安心信仰なのか、それとも養護施設と裏で繋がっているのかは不明だが、ちょっとでも複合的な問題を持つ家庭〈育て親に障害があり十分な養護ができない。など〉があると、家庭内虐待もないのに強制引き離し手段を声高に主張する一群が、確かにいるのだ。

その場では、その一群は施設内虐待を知らないのかな。と思ったが、そんなことはない。彼らもEDWARD氏の話を、その資格取得の一環で教科書などで読み聞きしているはずだ。施設内虐待を知っていてなお、それを言うか。

次、このような機会に恵まれたら、児童養護施設安全論を声高に叫ぶ児童福祉専門家に、鳥居さんの俳句を朗読してやろうと思う。鳥居さんのような思いをする人は、出てはいけないのだ。でもこれからも、施設で悲惨な暮らしを経験する子供たちは増えることはあっても減ることはないだろう。

 

 

 

 

 

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トヨタパワハラ自殺労災事件報道を受けて。雑感

2019-11-20 09:51:58 | 日記

昨日〈2019年11月19日〉、トヨタ自動車の技術社員が自殺したことについて、豊田労働基準監督署が労災認定した。という報道に接しました。

自殺された技術社員は地方大学卒の後、東大大学院を出られたとのこと。大阪の弁護士さんがついているので、そちらのご出身なのかな。

きっと血のにじむ努力で勉強してこられて、トヨタにも入られて。トヨタさん本体の技術社員は直接車を作る人ではなく、基幹的なことをされることがお仕事。だからものすごい頭脳であると認められた方。

豊田市民にとって「あほ、ばか」はあいさつ言葉でしかない。日常的に一日何十回も大声で絶叫されるのを見聞きし、自分にも言われる言葉。

でもその結果、豊田市の精神科病院病床数は世界的にみて異常な日本の水準に照らし合わせてもなお異常な水準。精神科クリニックも大流行。トヨタの風土は、高い給料支払う代わりにしぼれないところからもしぼって、徹底的にやる。

この自殺された社員さんに上司から言われた言葉も「学歴ロンダリング」。多分、本人に俺の奴隷になれという意味合いで言ったのだろうけれど、あまりにもひどいハラスメントの言葉。でも豊田市の風土で人を死の直前まで追い込むことは、ごく日常的な光景。むしろそれに耐えられない私のような人は、さらに罵声を浴びせられる。それもごく普通とされること。「絶望都市」と言われても仕方がない。

自殺された社員さんは、死の数か月前に「自殺用ロープ用意した」と言われたとのこと。いろいろやばいことも発せられた。

皆さんに言いたい。そういう自殺企図を言う人がいたら、すぐに精神科につなげてください。大変なことになるかもしれないけれど、少なくとも自殺する確率は確実に減らせると思う。

トヨタ自動車とその系列の産業医に、うつ病治療の権威とされる精神科病院〈豊田市猿投〉がある。そこはすぐに入院〈うつ病緩和ケア病棟・完全室料自費〉させることで業界では知られている。トヨタ生産システムのモーレツ主義から逃れるには、医者から指示されて入院するしかないかもしれない。


実は私も、トヨタ系社員の時にパワハラ受け、そこの権威の先生〈精神科病院協会会長〉から入院指示「本当は入院相当ではないが、昼夜逆転が怖いから」に納得し、2か月ほど、看護師からホテル対応される入院生活を経験した。そこでの入院生活は決してきれいごとばかりではなく、科学ではなく金もうけ主義が垣間見れたし、看護記録には私の悪口ばかり書かれていたし〈後日開示請求の機会があり判明〉、私が純粋なうつ病でないことが疑われたところで放置されたけれど、病人になると感がよくなるから、この人には本音が話せる、と思えた看護師さんたちにはしっかり話ができた。

「あなた自身があなたの医者になりなさい」

と、老齢の看護師さんから諭されたことを、今でもよく覚えているし、とても感謝している。

お亡くなりになられた社員さんの話に戻るけれど、もちろん会社はご遺族にそれ相応の賠償金があってしかるべき。

それにしても惜しい。惜しい。同じような立場の方〈入社後トヨタの金でMIT出たというからもっと優秀か〉で発達障害診断受けて退社しB型作業所利用され、「完璧な発達障害支援が社会で構築できるまで、自分はここ〈作業所〉に留まる」と宣言された同世代の方の声をこのブログで紹介したことがあり、それも惜しいと思ったけれど、やはり失われた命は戻ってこないので、医療福祉にかからずにお亡くなりになるのもまた惜しい。

この方と同様、僕もまた、豊田市の風土には耐えられない。でも僕は家族と故郷から離れて、必要なら小石川先生のように完全に絶縁することさえ選択肢に入れつつ、生きることを選ぶ。

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今のタイトル。悪くないな。

2019-02-17 20:37:03 | 日記

今月から心機一転、自分の生きかたを調整しています。

それに伴い、ブログのタイトルも変更しようとしました。

あるがままを生きているのは、そういえば、今も昔も変わらないな、と思いました。

私にとって「あるがまま」というのは森田療法のフレーズ。決して、病気のままでいい。なんていう表現のことではありません。

その「あるがまま」という言葉が、森田療法を受け入れている私のようなものにとっては「不安なことや不足することもあるけれど、いまできること、するべきことを精一杯やる」ということなのですが、別の受け止めをする人もいます。

ある別の人にとっては「今の状況が厳しいから、徹底的な保護を求めて何もしない、させない」というように受け止め、「あるがまま」という言い方を一方的に侮辱し非難する方さえいます。

自分は何と言われようが今でも、前向きに生きることしか考えていません。

今大事にしているのは、ありのままを認めること。降りていく生き方をすること。なのですが、自分にとってそれは自分の人生に向かっての前進でしかありません。自分の思っていることを言って、自分に正直に、生きていきます。

今のタイトルに納得していると思ったので、タイトルは変えません。

私は四半世紀前、不登校状態となり、人生を失いました。

権威筋からは「生涯引きこもりであろう」と宣言され、捨てられました。

しかし私は、いろいろな人たちの協力を得て、人生を取り戻しました。

大学で心理学を中心に学び、社会でいろいろ経験しました。福祉の仕事につき、社会福祉士になる勉強を仕事しながらして、資格を得ました。いろいろあって一度は支援の仕事が嫌になり、離れました。その後またご縁あって、支援の仕事をしています。

私は何度も人生を失いかけました。でも今は、自分の仕事と家庭を持っています。それを大事にしています。

病気を恐れていたら、二次障害を極度に恐れていたら、何も得られないと信じています。これからもリスクをとって、前進あるのみです。

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ついでに、引きこもり支援は、医療福祉以上の「くそ」である。

2019-02-10 22:50:50 | 日記

福祉サービスの支援は「くそ」。

そして思い出した。引きこもり支援は今も昔も「もっとくそ」。

自分が高校中退して引きこもった時、「この人は一生社会に出ることはないだろう」と、名古屋の引きこもり支援第一人者から宣言された。東京の有名支援組織は、社会が悪いから登校拒否が起きるから、社会がよくなるまで引きこもっていよう。などと逸いて、それが現実化して50台になっても引きこもりが続いていることに焦燥感を持っていると、数年前ビッグイシュー誌に書いてあったと記憶している。

くその極み支援は「スパルタの海」で生徒を何人も死亡させても何の反省もない知多半島のヨットスクール以降、延々と続いている。今は報道されたばかりの、引きこもりの30台の息子を乱暴に拉致監禁して何百万円もせしめたくそ施設が訴訟を起こされたと報道され、そのような施設は数年ごとに報道されている。

支援はくそしかない。ただし、他者の助けなしで脱出はないと自分は思う。支援をどう運用し、利用し、そして乗り切るかだと思う。学歴を獲得し、スキルを獲得し、社会に出ることを考え、金を稼ぐことができるようになるか、だと思う。

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元来、福祉の支援は「くそ」である

2019-02-10 20:19:15 | 日記

 

 

昨日今日と、若者サポート系の研修に参加し、冒頭の講演で支援者が「福祉の支援はくそだ」といったことに、心から共感した。

自分は通算12年以上、福祉のプロとして正社員のおまんまをいただき、福祉で「食って」暮らしている。

そう、自分は福祉で障碍者や病人の人生を「喰って」いる。という自覚は、社会福祉士の勉強を始めたころから明白に自覚している。あまりの腐臭にとことん嫌になった時期もあり、福祉以外の正社員の仕事を9年やったことがある。

トヨタ系列で働いていた時、パワハラで休職し復職を目指す過程で、自分が健常者ではないことは20代後半時点で気づいていたが、40過ぎになって、実は知的障害者入所施設で働いていた時に対峙した自閉症者たちと同じ診断がつくこととなり、福祉制度を利用する立場も経験した。

その40台で経験した、とりわけレベルが最高であるとされる国家機関就労支援による「くそ」支援については、以前明らかにした通りである。そしてその直後には病院で食えなくなった臨床心理士が親金で開業した就業支援施設をリワーク利用し「くそ」支援で苦労したことも以前書いたとおりである。

大学を出て最初の就職先で、私は自分の地位が就職説明会とは著しく異なり、夢を見せられて騙され「くそ」と思った。くそったれ経営からキリスト教のコネで転職した老舗施設がこれまた知的障碍者に修道院生活を強要するとんでもない「くそ」であった。そこを当時の石原都知事による福祉予算大削減のあおりで棄てられたのを機に転職した病院で経験したのも、患者「様」などとにぎにぎしく言いつつレセプトの金が全てで本人の困り感無視病院の利益のための囲い込みたらい回しの「くそ」相談支援だった。

40台で出会った福祉の仕事も、発達支援をすると表面では言いつつも遊んでいるだけの「くそ」支援であったりして、腐臭漂う散々なものだった。

今の所属先の支援も、私は決して満足していない。まだまだやれる。どんどん良くできる。改善の余地に満ちている。と思っている。

福祉の支援をしていくと自分の無力を悟り情けなくなるものだと、向谷地・北海道医療大教授も述べている(2009〉。まったくそうだ。いい支援、なんて自称している支援者ほど、詳しく調べていくと恐るべき死臭と腐臭に満ちていた。という経験を自分は幾度もしている。

医療福祉は契約先を選択し必要なサービスを主体的に利用するものであり、決して依存するべきものでない。医療福祉に絶対はない。サービスの選択の責任は結局自分にかかってくると、自分は信じている。

自分の人生は周りを利用しながら自分で切り開くものだと思っている。支配する誰かに囲われるのは嫌だ。また自分もだれかを支配的に囲ってはいけないと肝に銘じている。

福祉で「喰う」「くそ」支援者の一人として、せめて人を育てる土壌の肥やしにでもなってみたいものだと思い、これからも支援という堆肥の改良を試みつつ学んでいくものである。

 

※参考文献 向谷地生良 2009 技法以前 べてるの家のつくりかた 医学書院

 

 

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やはりそうだったか。公官庁の障害者雇用率改ざん

2018-09-02 14:55:50 | 日記

やはり、そうだったかと思った。

官公庁の障害者雇用率の改ざんが明らかとなった。民間企業以上に障害者が雇われているはずなのに、役所ではめったに見ない。役所による障害者求人もあまりにも少ない。

あるいは、メンタル疾患になった人が手帳を取ることを強く勧めていたのかな、と思っていたが、現実は糖尿病や緑内障の自己申告をカウントしていたという。

大企業であれ役所であれ、メンタル疾患から復帰しても配慮どころか障害の告知もできないのだなと思った。うつ病からの復職者に手帳取得をすすめたら、あっという間に雇用率くらい達成されると思う。しかしそれができない。募集したところで集まらない。

それは根本に、障害者への偏見があるからだ。障害者への配慮をして高い生産性を上げられる組織は、ごくごく限られているという現実があると思う。

障害を公表しようものなら、できる仕事もさせてもらえず、ただいるだけか簡単なことしか任せられず、あるいは逆に何の配慮もなく、こんなことまでさせるかということになる。ということしか自分は現実には見ていない。

役所が雇用率を改ざんしているということは、想定の範囲内だった。驚かない。やはり役所の出すデータはいい加減で、中国の統計のように日本の統計も都合よくいじくられているということが明るみになった。これまた、日本の中国化については知っていたこと。役所の統計操作なんて想定内のこと。驚かない。障害者雇用率だけではない、求人倍率も自殺者数も、そういうのは恣意的に数字が操作されていると感じているし、今回のことでありとあらゆる統計資料は役所の都合に合わせて調整されていると、明らかになった。

障害をオープンにしないと働けないのであれば、就労移行支援事業者などを通して頑張られればいいと思います。ごくごくほんのひとつまみ、障害者雇用のうたい文句通りの職場があることも否定しません。そういう幸運に恵まれた方は、そこで頑張ればいい。

現実として、配慮の必要な人など、採用できる職場はほとんどないのです。それでも法定雇用率はある。そこで企業も役所も条文を読み込んで、さまざまな「対策」をする。そこには働く本人の資質開花なんてものはない。あるのは組織の論理のみ。割り切って障害者枠に行くという選択肢もあります。それも生活のため、否定しません。

障害年金は現実には要件が厳しくなるばかり。生活保護方面も、精神発達にはきびしい。メディアに追及されない限り、飢えて死のうが野垂れ死にしようが、役所は構わない。今後の憲法改正で「生存権」「社会権」も怪しい。自分の身は自分で守る。それしかない。

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人のいのち。初めて味わう利用者の死から学ぶ

2018-08-02 21:54:33 | 日記

 今週、はじめて利用者の死を体験した。家庭内での突然死だった。

 介護の必要な、脳機能をかなり失った、重い精神障害の方だった。

 先週まで、自分も介護していて、今週もするものと身構えていたら、突然の訃報だった。

 彼にはもう、会えない。自分の体で、彼を身体介護することは、今後もうない。彼は私に手のぬくもりを伝えてくることは、もうない。ただひたすら悲しいばかりだ。

 今日、彼の顔を見ることができた。眠るようにお亡くなりになっていた。天国に行かれたのだ。

 ご遺族の方々のお話や職場の人たちの話や、自分の目からも出てきた、涙にくれる時間を味わった。

 人の命って、尊いのだと、あらためて実感した。

 「われ看てなんぢを寶(たから)とし尊きものとして亦〈また〉なんぢを愛す」と、聖書には書かれてある。(文語訳:イザヤ書434節)

 彼は病死だった。自分より若いけれど天命だったと信じる。神様は彼のように判断能力の失われた人は自動的に天国に呼び寄せると牧師の説教で教わっていて、自分もそう信じている。神様にとっては彼のような存在こそ、大事にしなければならない命なのだと、私は教えられているし理解している。そして今日、実感を得てますますもって確信が深まった。

 

 人の命を生産性とか何らかの優秀さや利用価値で測ったり判断したりする思想が今でもしっかり世間を跋扈しいて、それが津久井やまゆり園での元職員・植松による大量殺人とか、杉田水脈とかいう自民党に引き抜かれた元維新の2チャンネル的ネトウヨネオナチ発言を公に繰り返す国会議員とか、あるいは少しさかのぼって優性保護法とかT4作戦とか、そういうのがあるが、そういうのとは戦わないわけにはいかないと、今日感じた。

 

 理屈じゃない。人のいのちは宝で尊く、愛すべきものだ。

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「人間の尊厳」と「自己決定」

2018-06-17 12:14:24 | 日記

不断の努力によって確立される、「尊厳」「自己決定」

思考は他者との会話によってはぐくまれます。それは対立的な言葉のやり取りを通してもなお、自分が何者であるのか。何がしたいのかが分かるようになります。

私は昨日、国家機関の高給取り専門家集団が、発達障害の鑑定診断を受けたばかりの私の人生を食い物にしようと画策したことを見抜き、自分への影響を排除したことを赤裸々に表現しました。

国連障害者権利条約などの国際公約や日本国憲法に基づく障害者諸法規の内容は明らかに、個人のあたりまえの自由と権利が謳われていて、むしろ障害者、とりわけ女性と子供が権利侵害や搾取されやすいので、国家はそれを保護することが義務付けられています。

これら条約や法律は、それを知る当事者本人の不断の努力より、活きたものとなります。

日本国憲法第12条には

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

と書かれています。

自分の自由と権利は、自動的に降ってくるものではありません。私たち一人一人の行動によって、保持され深化していきます。

障害を持った人が普通に社会に出て普通に働くことについて、むしろ激しく抵抗し露骨に妨害するのは医療福祉支援専門家である現実があります。おのおのの現実と対峙し、しっかり生き抜く努力をし、人間としての自由と権利を確立させなければなりません。

働く必要のある私のような人は、明日からの仕事を毎日闘い続けるだけです。その前に学校で学ぶ必要のある人は、それが将来の教養になると信じて、少なくとも卒業証書や認定試験合格というライセンスを目指して、指導者の指示に従いつつ奮闘努力する必要があります。

そんな苦労が嫌なら障害者には、福祉に囲われて保護されて生きる権利もあります。

どのようであれ、しっくりくる人生をおのおの生きられますように。願っています。

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