医療や福祉の専門性、そんなものが、この世に存在するのだろうか。
福祉の専門性は、教科書とごく一部の限られた場所での実践に過ぎないのではないか。
福祉教育では、いろいろ「きれいごと」を教わってきた。そしてそれが正しいと思って、実現に向けて努力してきた。それゆえなのかか、私は患い、そして失業したのか。
福祉現場では「なめられたらいかん」と、先輩職員たちからよく言われたものだ。暴行の業務命令を受け、信念上できないので壁をたたいたりもした。その命令を私に行った人が今、某地方自治体福祉協会のトップである。
その種のことは、辞めたばかりの職場でも聞いた。「〈利用者に〉マウンティングする必要」という言葉を職員から聞いた。その職員は生意気な利用者に対し執拗に、食ってかかることがあった。それが彼のスタイルなのだと思い、幹部職員も特に指導しないのだが、それが「彼のスタイル」ではなく「標準のスタイル」なのだろうか。
利用者をなだめ、騙し、脅し、暴力をふるい〈前職では暴行場面はなかったが、東京の老舗施設では日常の光景だった〉。それが「言わずもがなの経験知」として今も口伝で脈々と継承され、それをしない職員、できない職員は、福祉職としてふさわくない、とまで明白に〈老舗施設では〉言われたことを、この体はよく覚えている。
そして昨日、神戸の精神科病院で起きた事件記事に触れ、様々なことがフラッシュバックされた。
この事件は別件で逮捕された元職員が、自らの暴行記録を動画に残していたため発覚したもの。行政による定期監査などでは全く異常は見られなかったとのこと。なんと病院幹部たちは「寝耳に水」と、とぼけた反応だったとのこと〈ほんまかいなと言いたくなるが〉。
人は、教えられたように教えるのだと思う。ふるまうのだと思う。神戸というえば小学校での教師間いじめ事件の顛末記事に接しているが、この事件もまた、「個人の資質」に還元されることなの、だろうか。
管理監督者の対応により、エスカレートしているのだから、暴力的な組織的風土があると、私は思っている。
これは、医療福祉教育施設の根本的性質が、患者利用者生徒を「あずかる」ことに第一義の存在理由があるわけだから、最後には有形力の行使〈すなわ暴力〉をもつて秩序維持が図れるわけだから、その根本性質たる暴力性がいかんなく発揮されたものだと思う。
精神科のからむ医療福祉のシステムは、第一義に、「狂暴な患者」〈確かに存在し、そういう人たちと私は対峙してきた〉をいかに制圧、または恭順せしめるか。にある。医療福祉というよりかは警備であり、自分自身「あなたがたは警備要員である」とも福祉職の最初から意識付けられてきた。
現実として、社会防衛としての福祉が、裁判例を紐解いても基本にあるように理解している。福祉はしつかり「あずから」ないと、それが「本人意思を尊重し、なるべく自由するために」などといっていても、死亡事故を起こされれば訴訟で負けるのだ。
上からの暴力的抑圧的方法を用いない方法で、「あずかる」こともできなくもないはずなのだ。そういつた知恵やヒントを私は多く学んできた。
しかしそれは、どの分野の方法論であれ、「めんどうくさい」やり方なのだ。何しろいろいろ学んで根気強くやってみても、うまくいくかどうかわからない代物だ。
その点「暴力」はすぐに答えが出る。そして日本には暴力を容認する風土が厳然として存在する。暴力は国民性民族性なのかもしれない。とも感じている。私のような暴力の犠牲者は精神障害者となり、一方で暴力的な人はごく一部刑務所に行く人を除き、大部分が世の中を大手を振って生きている。
日本で福祉職は、患者利用者にマウンティングしないと、生きていけないのだろうか。
日本社会では、弱い立場の人に暴力的にふるまえない人間は、日本社会を生きていけないのだろうか。