私は自分を誉めてやろうと思う。
何かを達成したからか? そうではない。
何かすごいこと、普遍的なことをやったか? そうではない。
今は無職だ。病気も癒えてはいない。いろいろ試しているが、どれも完治には至らない。
それでも、私は自分を誉めてやろう。「よくやった」「それでよし」と。
いままでの人生を振り返る。その一部はこのブログでも述べている。話が長くなるから半世紀もの私の人生を書き綴ることは、ここではしないが、感銘深い。
去年の今頃は、希死念慮が強かった。自殺企図もあった。うつ状態厳しく、蓄積された家庭内矛盾爆発し、その後半年で一家離散ということにもなった。
今日は、くだらないメンタリストとやらの発言に翻弄された。ナチス的発言。90年代に読んだ雑誌に東大哲学教養講座の最初は「ナチスは最高のヒューマニズムである」ということを思い出す。
下劣なメンタリストが発しているあの種のたわごとは、巷に満ちている。私も何度も、その権力を持つ個人や組織的背景から、生きていいだの、死ねだの。役に立つだの、立たないだの。消えろだの、いないと困るだの。社会の中でいろいろ言われてきたことが思い出される。
中学の時は、あの頭の良さげなたわけと同じように、疲れ果てた人たちを見下して戯言を思っていたと記憶している。
それから遠く離れていないころに自分が同じ状態になり、自殺未遂したし、専門家から生涯引きこもりだと宣言されたりもした。
引きこもりから脱出し、大学を出て、社会人として紆余曲折を経ながら生きてきて・・・
40代にして精神的忍耐が限界に達し、精神的病を得て、その流れで発達障害の確定診断となった。その後中高の後輩にあたる愛知県の発達障害臨床のトップとして君臨する児童精神科医から「発達障害、特に自閉症スペクトラムの治療目標は、家事をする引きこもり」とはっきり銘記されながらも、これまで努力して社会経験を重ねてきた。
それは決して社会的に成功したとは言えないものだが、仮に今達成しているような資産形成ができていなかったしても、私は自分に「よくやった」と言ってやろうと決めた。
あの下劣なメンタリストは、まさに中二の頭だな。ナチズム優生思想の確信犯だからどうにもならん。ナチス発言のアカウントは停止すべきだ。
努力がどうとか、認めるとか認めないとか、関係ない。人が神の領域に触れてはいけない。下劣な精神で神のごとく振舞う輩の発言は、大変危険だ。
人はパンのみに生きるにあらず。神のみ言葉を食べて生きる。
裁くは我なり。の「われ」は神様である。人間ではない。だれかではない。
働かざるもの食うべからず。とは、元々新約聖書の言葉である。落ち着いて日々の仕事に精進せよ。という言葉である。ゲスどもが言うような、生活保護受給者や障害者やホームレスの人たちに、飢えて死ねという言葉ではない。下劣なゲス思想に神の言葉を用いる輩には、神様が幾重にも罰してくださる。
安心して生きていこう。
よくやつている、私。