治る、回復する、リカバリー、などは「科学」ではなく「物語」だと、心から思います。
昔から、治る、回復する。という事象はありました。例えば聖書には、イエス様に癒された。あるいはパウロの話を聞いて癒された。という記述がよく出ています。
しかし聖書の時代なら知識人である「パリサイ人」にその癒しは否定され、今も「治る」が「良識に反する」という信念である医師たちによって否定されます。昨日のツイートで某県発達障害者支援センター長が裏アカで、「〈たぶん発達障害や自閉症が〉治るは良識に反する」「〈内観法であろう〉臨床心理学で宗教的なやり方が取り上げられること」を白眼視しておられました。
この「治すことは科学的にあり得ないから、治すは良識に反する」と考えているであろう先生に、何を求めたれるのか。
この先生の周りには、行動に応じて強い薬とか、この先生の理想郷的な閉鎖病棟とか。行動分析で外からコントロールするとか。それがこの先生の信じる「良識に基づく医療」なのでしょうか。〈行動分析は保険医療ではありません。多分「行動論的認知行動療法」としてレセプト上の処理さをれるのでしょうけれど〉
この先生は東田直樹さんの学会講演が中止になったことを喜んでおられた。青木先生など臨床の大家たちが東田さんの生きておられる現実をしっかりと見てもらおう。という企画を、「教育された方法がエビデンスに基づかない」などなど東田直樹の人生を否定すると受け止められる無礼極まりない運動をしてつぶれたことが、「良識」であるという方。
医者はたくさんいるので、みなさん自分が診察してもらいたい先生のところにいかれればいいのです。
支援もたくさんあるので、自分に必要な支援をするところに行けばいいのです。
治ることを否定する人は、どんな癒しも否定します。当事者であれ、専門家であれ、知識人であれ。
それでも、人生を回復した人たちは、今も昔も大勢います。この私もそうだ。私の身に起きた現実を、私は否定しません。人生の回復に貢献したい人たちも、大勢います。
私は健康寿命を延ばしたい。大いに神様に用いられて、世の人々の福祉に携わりたい。だから健康な体が心から欲しい。心身の健康を維持発展させたい。と強く思い、今日も生きています。
だから私は、医療を受けるなら、神田橋先生のような、治すことを徹底的に志向する先生のもとに行きます。「医者なら治さないかん」と思います。
治るも治らないも、その方の人生の選択の自由。
たとえ治らなくても、態度で示す価値もあります。
私は「れいわ新選組」から参議院選挙に出馬された木村英子さんの活動を強く支持しています。木村さんたちによる自立生活活動については、それなりに知識を持っているつもりです。「生きる」ということを行動で教えてくださる。すばらしい方々です。
すべての人間の命は高価で貴いのです。その人の生きる価値は、顔の見えない・言葉の汚いネトウヨや自民党サポーターが決めるものではありません。神様の領域に人間が介入してはいけないと思います。
治りたくない方はそのままでいい。社会人として生きることは大変リスクを伴うこと。労働の強制はできません。その人の生き方。スタイルのこと。わたしはクライエントであれ全くの他人であれ、その人はその人の人生を歩まれればいい。思う通りのことを実験的にやってみて、いろいろ失敗しながら学べばいい。絶望から学べばいい。あるがままでいていいのだと、きっぱりしたいと思います。
もちろん、障害者であれ何であれ、何かを壊せば賠償し場合によっては出禁となり、犯罪行為をしたら罪を償わなければいけないのです。障害無罪ではありません。
障害のある方であれだれであれ、私は自分を含め人々の人生を取り戻す運動に、これからもかかわっていきたいと思います。自分の行動に責任を持つ。というのはその最初のステップだと考えています。
治る、回復する、自立生活する、などは、科学ではなく価値判断。文学であり物語です。エビデンスは自分の体が教えてくれれば十分です。