最近、れいわ新選組の動画から、鳥居という新進俳人を知った。
その動画の話と鳥居さんの歌集「キリンの子」〈KADOKAWA)のプロフィールを読み解くと、両親の離婚と母親の精神疾患発病。小5眼前で母親自殺。児童相談所一時保護所と児童養護施設での施設内虐待。里親に出されるも里親から家を追い出されホームレス体験。とある。
その後、歌人の古川宏志氏に見い出され本を出されメディアのインタビューにも登場されるが、義務教育をまともに受けられない人がいることを表現するため、公の場ではセーラー服で登場する方である。
「キリンの子」(KADOKAWA)より
孤児院
先生に蹴り飛ばされて伏す床にトイレスリッパ散らばっていく
理由なく殴られている理由なくトイレの床は硬く冷たい
爪のないゆびを庇って耐える夜 「私に眠りを、絵本の夢を」
壮絶な体験をしていないと、とても書けない描写が綴られている。このような人は昔からいた。
私が四半世紀前受けた福祉教育でも児童施設内虐待は教えられ、就職活動時には児童養護施設・恩寵園事件がたびたび報道された。
社会福祉士教科書には養護施設を経験し施設内虐待を告発するサイトを書いていたEDWARD氏が紹介されていた。今年になりあらたなる虐待告発も公になった。同時期にエドワード氏と同じ養護施設〈東京サレジオ学園〉で育った花村萬月氏が自らの施設内虐待体験を書いた本が芥川賞を取り、同時期に発生した東京サレジオ学園事件でも同学園での施設内虐待が語られた。大卒時の就活でこの施設にOBがいたので話をきいたが、悪い話はなかったし、そもそも世界最大宗教団体修道院直轄経営で建物のデザインが賞を取るような有名な施設での、その宗教団体の掲げる教義とはあまりにもかけ離れた凄惨な実態の告発に、大変驚いたことを覚えている。
21世紀になってからも児童養護施設での悲惨な施設内虐待の報道は後を絶たない。録音録画されたものがメディアで明かされることもあった。家庭内で虐待された子供たちは、保護された児童相談所施設や養護施設でも虐待され、心の休まる場所がない。
それを歌人・鳥居さんは赤裸々に描いている。花村萬月さんも書いている。いろいろな当事者が児童養護施設のでの悲惨な体験を話されている。にもかかわらず、メディアは児童虐待が報道されると「なぜ保護しなかったか」と短絡的に児童相談所の対応を責めるのみ。虐待家庭からは早期に保護し施設に放り込めば安心であるという神話がまかり通っている。
もちろん家庭内児童虐待はこの社会における大きな課題だが、家庭内で十分な養護ができない家庭への支援やら、虐待で深手を負った人たちをケアできるように療育的里親の養成〈リンク先の土井ホーム亭主は大学院卒〉と体制の整備〈養護施設の小舎化や里親活用〉が必要であると四半世紀前から言われてきた。
私が福祉士として仕事を通して肌で感じ、または専門家同士のうわさで聞くのは、児童相談所が民間児童養護施設の経営に忖度することであり、某欧州国裁判所から判決〈児童相談所から子供を奪還し某欧州国に亡命した母親に対する、日本への強制送還拒否判決〉で指摘されたような、不必要かつ有害な強制的母子分離・家庭離散さえ、まつたくもって巷でありうることであると認めざるを得ない。
ここでも不幸な子供をやり取りし「飼育」することで利益をむさぼる福祉業界の構図が、現にあるのではないかと思えて仕方がない。福祉の専門家がつなぐ、とは、養護施設の空きベッドを出さないようにすることなのか。そうではないだろう。施設収容は最後の手段、のはず。
ソーシャルワーク関係のとある研修での事例検討会で、自治体がすでに保護の必要なし見守りを継続と判断した事例が出た。自分は話を聞く限りではその家庭の人権をはく奪するような保護は必要でなく、それ以外の方法を言ったが、福祉士という人種の少なからぬ人々は、施設収容が絶対安心という信念を持ち、何度となく、さまざまな法令を用いて強制手法は取れないかと入れ知恵し画策したという現実を、私は思いたい。
ソーシャルワーカーは、利用者の人権を擁護する存在。のはずであるが、施設安心信仰なのか、それとも養護施設と裏で繋がっているのかは不明だが、ちょっとでも複合的な問題を持つ家庭〈育て親に障害があり十分な養護ができない。など〉があると、家庭内虐待もないのに強制引き離し手段を声高に主張する一群が、確かにいるのだ。
その場では、その一群は施設内虐待を知らないのかな。と思ったが、そんなことはない。彼らもEDWARD氏の話を、その資格取得の一環で教科書などで読み聞きしているはずだ。施設内虐待を知っていてなお、それを言うか。
次、このような機会に恵まれたら、児童養護施設安全論を声高に叫ぶ児童福祉専門家に、鳥居さんの俳句を朗読してやろうと思う。鳥居さんのような思いをする人は、出てはいけないのだ。でもこれからも、施設で悲惨な暮らしを経験する子供たちは増えることはあっても減ることはないだろう。