この度、十年来の念願かない、べてるまつりに参加することができました。
概要は、以下の北海道新聞の記事に書かれています。登録されれば全文無料で読むことができます。
10月18日の記事からの引用を、少しさせていただきつつ、私が強く感じたことから書きます。
まずは北海道新聞報道をコピペします。
(以下引用)
“ 続くミュージカル「ありがとう。」は、べてるの早坂潔副理事長が長年つきあってきた「幻聴さん」と対話する形で、自身の半生を振り返った。幼少期のトラウマとなった怖い父にも良い思い出があったと気づき、当事者研究に役立てる内容。手作りの小道具を使ったメンバーの熱演に会場から盛んな拍手が送られた。”(引用終わり)
私の精神疾患名と早坂副理事長(以降、十年来の尊敬と愛情をこめて「潔さん」と書きます)の精神疾患名は異なるし、全然資質も異なります。
しかしながら、この私にも大いに当てはまることがあることに、すぐに気が付きました。
事情は異なれども、親との葛藤にさいなまれ、精神疾患の反応として出ていること。
たしかに私は潔さんのように入退院を何十回もしたわけではないけれども。
幼少期からの恐怖体験が突如よみがえってくるのですよ。
私の場合、フラッシュバックとして。それに続く自殺企図として。
若いころは何とか体力と気合で抑えてきたけど、
今は心身の衰えやいろいろな病で、抑えが利かないのですね。
50をすぎた今頃になって、教育虐待と専門家がいう親からの厳しいしつけの記憶で、辛くなることがあります。
十年前から親と合うと向精神薬頓服のご厄介になり、フラッシュバック多発し、
かつて同居していた事実婚パートナーから散々指摘されてきました。「親と合うと病気がひどくなるね」と。
事実婚解消理由の重要な事情の一つです。元妻は私の病気と私の両親のありようなど背景の事由により、結婚生活解消を同意したのです。
私の場合、十年ほど前に発達障害専門医の権威筋から診断を受けた際、両親とも面識のあるその専門医と紹介状書いた当時の主治医から、
私が教育虐待を受けていること、
当時の主治医病院の親と距離を詰める指導は間違っていて、親とは距離を取る必要があると、
散々指摘されてきました。
頭ではわかっているのです。
わたしは大事にされていることを。
私が厳しい社会に適応できるよう、両親は厳しく育ててくれたことを。
これが私への親からの愛情なのだと。
だからいくら旧帝大教授の権威の言葉であっても、すんなり受け入れることはできませんでした。むしろその診断を手掛かりすするも、「治していく道」を模索する10年でした。
結果はこれまでブログで書いてきた通り。
うまくいくこともあったし挫折もあった。
総合的にはやり切った感あり、悔いはないのです。
でも今は、親から厳しくされ嫌味たらしくされ極端に楽観され極端に悲観されると、自殺企図という病的反応が出るのですよ。
神田橋先生の方法も藤川先生の方法も、そのほかの先生方の方法もやってみましたが、環境や過去のトラウマ記憶からの影響を超越することは、できませんでした。
私の病気は治らない。両親を含め、私の病気と共存できる人はいない。
後期高齢者の両親にはとてもじゃないけど、変われない。
児童精神科専門医たちの言うような接し方はできない。
だから距離をグーと取るしかない。
今の主治医からも親とは距離を取るよう、今週の診察でも重ねて言われたばかりです。
結論は分からないけど、フラッシュバックと希死念慮は消しようがないと思うけど、
自殺企図だけは何とは沈めて、自分の生命を全うしたいと今は思います。
潔さんが「親との和解」について語りだしたのは、実は最近のことだと記憶します。
それまではひたすら陽性反応に、どう対応するか、ばかりが語られてきた気がします。
もしかしたら、前までは、いろいろな意味でハイパーアクティブだった潔さんが、
いまはいろいろな意味でおとなしいのは、今の浦河町にはいざという時に緊急入院できる精神科病棟が無くなってしまい、今の浦河で存在できるように、周りの人たちと以前に増して弱さの情報公開して助けを求めるようになり、自分を鎮める方法を見出されたのかなあ。とも考えました。
浦河と名古屋ではかなり地域性も異なりますが、自分の地元で自分なりに、ネットワークづくりをしなければと、強く動機づけられました。
対話できる相手がいることは、大事なことです。
このような思いになれるのは、浦河べてるの家さんのメンバーさんたちが30年以上にわたり、顔と本名と病名とあまりにもひどい病態を赤裸々に「弱さの情報公開」されてきたからです。
顔や本名をあえて世間に晒して自らのままならない病気の情報を公開する。そこで得られる作用反作用を使って地域に進出し、軋轢を抱えながらも理解を得つつ仲間を獲得し共存を図る。
浦河では厚労省表彰をもらえるレベルでうまくいった取り組みです。
心から感謝しています。
でもこれ、浦河でも限界に来てると感じました。
今は個人情報保護の時代。
しかも元気になった精神障害当事者や精神障碍者特性を持つ支援者たちは、浦河にはとどまることができない「ママらない事情」があるようです。
彼らには「次」があり、次の地では浦河のような精神疾患への理解のない土壌がほとんどなのが、世間の現状です。
それでも、浦河の外で生きていくしかない。
となると浦河時代にメディアを通じて出していた顔と名前が悪意ある人の目に届き、厳しいハレーションを生み出すリスクがある。
「障害者に仕事なんてできない。させてはいけない。障碍者となんて働けない。首にしろ」
「あんなに元気なんだから、あれの障害はフェイクだ」
みたいな。
こういうこと言う人、じつは医療福祉にとても多い。
今の医療福祉に精神疾患を救う手立てが乏しいことをよく知っているから、患者が回復するなんてありえないと思っている専門家は、実は多い。
(専門家のとこに足しげく通うのは重度の人たちで、社会的必要と医療福祉経済的事情で専門家は重度の人のケアが中心になるという事情もあると思うけど。)
だから、顔と本名をメディアにも出してるのは、個人情報保護法以前の当事者たちで、浦河べてるの家の重鎮メンバー・当事者職員さんたちばかり。
外に出る可能性のある人は、内々にやる。当然だと思うのです。
顔と本名と自己病名と診断名を出した弱さの情報公開弱まり、
やがてなくなり、
浦河べてるの家さんは近い将来、普通の老舗社会福祉法人になるのでは。と感じています。
10年前の残滓がまだ残る中、べてるまつりに参加できて、本当によかったです。
浦河から発信は弱まると思うけど、当事者研究はこれからも盛んにおこなわれることに期待したいです。
まつりの司会をした、北海道の別地域に住む精神疾患当事者が、
実は親が浦河の名士で立派な実家もあるけど、
浦河の行事でさえ実家には泊まらずホテルや旅館を利用していると暴露され、非常に親近感を抱きました。
なんか自分とよく似ているなあ。
親の愛情はわかるけど、
育ててもらったことや、
今でも愛情を持ってくれていることには感謝しかないけど、
己の精神疾患と付き合い、命を保つのためには、距離を取るしかないんだよなあ。
残念ながら簡単には治らない。ぼちぼちやっていくしかない。
「病人として、障害者として、降りていく生き方をする」
精一杯生きてきて、北海道の僻地まで足を運んで、納得したのかもしれない。自分。