恒例の標石のお年玉です。(お宝の放出です)
1昨年は、文化庁の文化芸術振興費補助金・文化遺産を活かした地域活性化事業で
「平成船迫ものがたり」を実施しました。
柴田町船迫地区の文化遺産を取り上げ、「平成船迫ものがたり」の和綴じ冊子を
作成し、文化遺産を巡るウォークを実施しました。
後日、宮城県大崎市の標石仲間Aさんから宮城縣標石の情報を得ました。
東京~塩釜の几号水準点を探しているAさん、柴田町船迫地区にある
「柴田郡舟迫松並木道西側ノ丸石」を何度となく訪れて探しているという。
白第7号の情報を管理人に知らせてくれたので、2016年1月7日に訪ねました。
旧国道4号、柴田高校脇の道を南下、船迫地区に入る100m程の手前の地点
赤矢印に標石があります。
右手の標柱は櫻井喜吉翁の髪塚です。
左手の崖下は旧白石川です。
位置の概略(GPSによる測定値)
東経:140°46′21.7″
北緯: 38°04′14.2″
標高:20m
標石周辺
北面:三角標・赤ペンキあり
東面:大正二年
南面:白第七号(号は、へん:号、つくり:逓から しんにょう をとったもの)
西面:宮城縣・赤ペンキあり
標石は、15.5cm✖15.5cm
上部の十字の長さは、10cm✖10cm
櫻井喜吉翁の髪塚の参道
右・髪塚、左・由来記
宮城県教育委員会「みやぎの先人集 未来への架け橋」に選ばれています
櫻井喜吉ーわけへだてなく命を救う
櫻井喜吉先生の髪塚
櫻井先生の永眠を知った船迫区民は先生の死を悼むこと甚だしく、恩愛の念から先生の墓碑を建てる
ことになり先生の髪の毛をわけて戴き、館山にこれを葬り供養した。
これが髪塚である。地所は館山頂上近くの平ら地で、大沼惣右衛門、溜屋(船岡、飯淵家)、坂元
(成田、大沼家)の三氏の寄附によるもので、約二段歩あった。
子息櫻井剛氏の時代に、この地に杉の木その他を植林し、そのまわりに桜の木を植え墓地公園とした。
この時にあたり、高橋千三郎夫妻は櫻井先生に御世話になったことなどから大いに尽力し、
また墓所の管理保存に努めた。
昭和四十年代になり、この地区にゴルフ場が建設されるや、この髪塚一帯も買収された。
その為館山下、旧国道傍の宮城長清さん所有の畑の一部を寄附して貰い、ここに髪塚を転葬、現在に至る。
髪塚の由来
以前、船迫地区は医療機関に恵まれず、伝染病などに苦しむ者少なからず、これを憂えた地区の有志は
槻木の医師櫻井喜吉とはかり、明治二十六年、無料の日曜診療所を開設し十一年間に及んだ。
その間治療を受けた患者は延べ二千七百人に達し、これにより地域の衛生状態は大いに改善され、
病人は激減した。
地区民はこれを徳とし、頌徳碑を阿弥陀堂跡に建て、さらにその遺髪を乞い船迫館山に髪塚として祀るも、
昭和四十年にゴルフ場となったため、宮城長清氏の土地の寄附を受け、この地に髪塚を移す。
診療所開設百十年に当たり改めてその由来を記す。
平成十五年十二月十日
櫻井 時雄 撰
1昨年は、文化庁の文化芸術振興費補助金・文化遺産を活かした地域活性化事業で
「平成船迫ものがたり」を実施しました。
柴田町船迫地区の文化遺産を取り上げ、「平成船迫ものがたり」の和綴じ冊子を
作成し、文化遺産を巡るウォークを実施しました。
後日、宮城県大崎市の標石仲間Aさんから宮城縣標石の情報を得ました。
東京~塩釜の几号水準点を探しているAさん、柴田町船迫地区にある
「柴田郡舟迫松並木道西側ノ丸石」を何度となく訪れて探しているという。
白第7号の情報を管理人に知らせてくれたので、2016年1月7日に訪ねました。
旧国道4号、柴田高校脇の道を南下、船迫地区に入る100m程の手前の地点
赤矢印に標石があります。
右手の標柱は櫻井喜吉翁の髪塚です。
左手の崖下は旧白石川です。
位置の概略(GPSによる測定値)
東経:140°46′21.7″
北緯: 38°04′14.2″
標高:20m
標石周辺
北面:三角標・赤ペンキあり
東面:大正二年
南面:白第七号(号は、へん:号、つくり:逓から しんにょう をとったもの)
西面:宮城縣・赤ペンキあり
標石は、15.5cm✖15.5cm
上部の十字の長さは、10cm✖10cm
櫻井喜吉翁の髪塚の参道
右・髪塚、左・由来記
宮城県教育委員会「みやぎの先人集 未来への架け橋」に選ばれています
櫻井喜吉ーわけへだてなく命を救う
櫻井喜吉先生の髪塚
櫻井先生の永眠を知った船迫区民は先生の死を悼むこと甚だしく、恩愛の念から先生の墓碑を建てる
ことになり先生の髪の毛をわけて戴き、館山にこれを葬り供養した。
これが髪塚である。地所は館山頂上近くの平ら地で、大沼惣右衛門、溜屋(船岡、飯淵家)、坂元
(成田、大沼家)の三氏の寄附によるもので、約二段歩あった。
子息櫻井剛氏の時代に、この地に杉の木その他を植林し、そのまわりに桜の木を植え墓地公園とした。
この時にあたり、高橋千三郎夫妻は櫻井先生に御世話になったことなどから大いに尽力し、
また墓所の管理保存に努めた。
昭和四十年代になり、この地区にゴルフ場が建設されるや、この髪塚一帯も買収された。
その為館山下、旧国道傍の宮城長清さん所有の畑の一部を寄附して貰い、ここに髪塚を転葬、現在に至る。
髪塚の由来
以前、船迫地区は医療機関に恵まれず、伝染病などに苦しむ者少なからず、これを憂えた地区の有志は
槻木の医師櫻井喜吉とはかり、明治二十六年、無料の日曜診療所を開設し十一年間に及んだ。
その間治療を受けた患者は延べ二千七百人に達し、これにより地域の衛生状態は大いに改善され、
病人は激減した。
地区民はこれを徳とし、頌徳碑を阿弥陀堂跡に建て、さらにその遺髪を乞い船迫館山に髪塚として祀るも、
昭和四十年にゴルフ場となったため、宮城長清氏の土地の寄附を受け、この地に髪塚を移す。
診療所開設百十年に当たり改めてその由来を記す。
平成十五年十二月十日
櫻井 時雄 撰