昆布が美味い

羅臼の昆布漁を見た時にスタートしたblogです。昆布のダシのように、人生の旅にも味付けをしたい。旅を中心に纏めています。

南紀07(本宮大社)end

2006-11-20 | 国内旅行
熊野三社巡りの最後になりました。熊野本宮大社と言われるように、ここが最も主たる神様である。


「熊野を参るには 紀路と伊勢路と どれ遅くどれ速く
 広大慈悲の道なれば 紀路も伊勢路も遠からず」梁塵秘抄

 33回も熊野を訪れた後白河法皇は、今様の歌を愛するのあまり、徹夜で歌った為に翌日声が出なかった時もあったと言う。彼は今様の歌を集めて「梁塵秘抄」を編纂した。
 ここ本宮に来るのに、伊勢路が良いか紀伊路が良いか、など考える事はない、仏の道であると思えば、距離などは関係がない。

鳥居の前に、この札が立ててある。
 

本殿までの石段には人が途切れる事がない。鬱蒼と茂る杉の大木に挟まれて参道を行けば、雑念を去って心が澄んでくることでしょう。


左:幟を奉納する。右:もとあった本宮の絵である。川の中の島にあったのが、明治22年に洪水で流れてしまった。以来現在地に本宮は遷ったのである。


今年は戌歳である。


各神殿の桧皮葺の屋根が美しい。


左:それぞれの祭神と、拝礼の順が出ている。
右:神殿の前に立っていた札には、平家物語からの抜粋が出ている。
 清盛の嫡男重盛が参詣に来て、父の悪行を自分の命と引き換える話である。願いが聞き取られたときに、身体から火とも煙とも、それらしいものが飛び去って行った。

 左:何ともユーモラスなヤタノカラス。
右:ヤタノカラスの意味するものが記述されていた。いろいろとあるものです。


明治22年に水害で流れた神殿の跡地に大鳥居が立っている。治水事業で堤防が出来ている。

南紀06(神武東征)

2006-11-19 | 国内旅行
南紀は記紀の神話の中で登場する。
 神武天皇が九州日向から東のヤマトに向かい大阪に上陸して破れ、紀伊半島を巡り、この南紀勝浦~新宮辺りに上陸した。
 その上陸の場所について、言伝えなどがあると楽しいと思いながら、車を走らせていると、新宮市に入って間もなく、神武天皇上陸地点という文字が目に入った。
 慌ててUターンして立ち寄った。
 国道沿いの高台の斜面にそれはあった。昭和45年に新宮市誌に基づいて新設された宗教法人である。


左:月岡芳年の描く神武天皇。 
右:この神社の由緒を述べる札。日本書紀には神邑に上陸と出てくる。そう言えば大神神社を”おおみわじんじゃ”と読みますね。「神」は「みわ」と読める。

 主神は神日本磐余彦命(かんやまといわれひこのみこと=神武天皇)であり、
 祭神にはその后、媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)と布都主命(ふつぬしのみこと=石上(いそのかみ)神宮)である。石上神社は布都社とも言う。

 神武は熊野の山中で、七支刀(しちしとう)の神剣に宿る布都主命に助けられる。


急な斜面に庭が出来ている。


岡の上から眺望していると、神武がこの入江に入港したらしく見えるから不思議である。


質素な本殿が建立されている。


 これは、始めに立ち寄った補陀洛山寺に隣接する「熊野三所大神社」の境内(浜の宮王子跡)の大楠の隣りにあった石碑である。
 「神武天皇頓宮跡」とある。頓宮も行宮も同じと考えてよい。暫く天皇が滞在した所を言う。大正年間に建立とあるから、これも神話のロマンでしょう。

南紀05(速玉大社)

2006-11-18 | 国内旅行
勝浦から東へ約20kmで新宮に着く。熊野速玉大社がある。ここはここで、熊野大権現を名乗り、熊野古道の終着点でもある。


神橋を渡って境内に入る。京から熊野参詣をした人たちは、九十九王子を通過して、約1ヶ月の旅を終えて、大願成就に到達した事でしょう。


熊野詣での証しとして、境内のなぎの木の枝を手折り、家内安全の標しとした。

 このなぎの木は、平重盛が植えたものと言われる。
 彼は、父が天皇をもないがしろにし、これまでの社会の秩序を破壊する悪行を止めるのと引き換えに、自らの命をかけて参詣をした。
 その後、清盛の嫡男であり平氏の後継者であった彼は間もなく死亡したのである。
 平清盛の心中はいかばかりの事だったでしょう。
 この重盛の死後、ますます清盛のブレーキが利かなくなったと平家物語では言っている。

なぎの葉を拾ってきた。生きている枝には手が届かない。

 千早振る熊野の宮のなぎの葉を 変らぬ千代のためしにぞ折る  藤原定家

 葉脈が平行であるのが特徴である。コウヤマキとかの仲間である。


熊野三社は、それぞれが単独で神を祀っている。根源は同じでも形がそれぞれ特徴がありそうです。


ここにもヤタカラスが祭られている。門の横断幕にはカラスがいる。中に立っている木は柏葉だろう。京都の上賀茂神社と共通している。


熊野御幸(ごこう)の集計の碑がある。回数141回、23人の上皇とその后が訪れている。


きらびやかな、派手なお宮である。


左:なぎ人形は、なぎの実を頭にした雛人形です。

南紀04(那智大社)

2006-11-17 | 国内旅行
中辺路街道を進み、谷の奥に向うと熊野那智大社である。
 途中、車道を外れて歩いて登る道がある。大門道と名がつき、CMなどで平安の衣装を身につけてTVなどに出てくる道が100mほど続く。貸衣装もある。
 それを横目に見て、那智大社の直下まで車で向かい、石段を登るのは15分である。


胸突き八丁も無いが石段はきつい。両側には店舗が並ぶ。横の石垣にシノブだろうか色づいていた。


左:杖を有り難く感じる歳になってしまった。このお方も無心に登っている。
右:道端のツワブキの黄色が眩しい。


左:那智大社本殿である。
右:ヤタガラスのモニュメント。3本足は見えないが・・。


 神武天皇が那智の滝を神とし、仁徳天皇が社殿を作ったと言います。

 さて、記紀によれば、神倭磐余彦命(かんやまといわれひこのすめらみこと)は神武天皇の名であり、神武天皇が九州から「東征」して、奈良のヤマトを攻めた時、瀬戸内海を通って大阪難波から奈良に向おうとしたが、強力な抵抗に遭遇した。
 これは、神武は日の御子であるのに、東から昇る日に向って戦ったからだと反省し、紀伊半島を南下して、ここ熊野地方に上陸した。
 紀伊の山中で道に迷い難渋していたときに、ヤタカラスが道案内をして、ヤマトの橿原の地を本拠としたらしい。橿原神宮の祭神は神武天皇である。

 このヤタカラスを祖神としているのが、現在京都に祀られるカモ神社であり、奈良盆地の西の山並みに源のある鴨氏の流れと言います。
 上賀茂神社でのカラス踊りはこれに由来する。


この大きなクスノキの幹で胎内潜りが出来ます。左の図の洞窟に入って、右の図の幹の途中の穴に出てきます。梯子がかかっています。


すぐ隣りに、西国三十三番札所巡りの、一番の札所「青岸渡寺」の本堂がある。現在、屋根の葺き替えでテントに覆われている。


本源の那智の大滝の写真を三枚続けます。

注連縄のかかる滝の流れは3本である。ミツマタの花の蕾が既に見える。

ドウダンツツジが真っ赤であった。

紅葉に浮かび上がる三重の塔。

左:オガタマ?かなぁ。  右:大滝全景。

南紀03(渡海の寺)

2006-11-16 | 国内旅行
カエデの紅葉もいいが、今年は桜の紅葉が気になっている。真っ赤な葉は、その光沢も見事である。


蜘蛛が日向ぼっこしている。


この寺が渡海する基地となる。即ち、生前の最後の姿を見られる寺である。


普通は、熊野三山巡りと、この補陀洛山寺をそれに加える。案内図の右上に国道42号線を行けば新宮速玉大社であり、左下の中辺路街道を左に進めば熊野那智大社である。

 今回の南紀の旅も、この補陀洛山寺で渡海の船が再現されたと聞いていながら、いつも素通りをしていたし、少し車で入りにくい南側の参道を見逃してしまっていた。それで、今回はゆっくりと拝見しようとした。
 ここに着いてみると、今回は何と車で入りやすい、しかも立派な駐車場まで完備されていた。


左:道しるべの石碑、「左ほだらく山」とある。

 寺の境内におばあさんがベンチに坐っていた。そして話し始めた。昔、この石の姿がよいと言って、家に石を持って帰った人がいたと言う。その後、家に良くない事が続き、自分も病気になったという。それで、石をこの位置に戻すと病は治ったという。
よく喋るおばあさんであった。

右:中辺路街道沿いにある案内板。以前は確かこの辺は崖であったような気がする。


本堂には、西洋の外人の坊さんがいた。いい日本語で親切だった。


平成5年に、曼荼羅図にあった絵から、渡海船を再現したものである。こんな船に乗って海に出て行き、浄土への旅についた。僅かな水と僅かな食料を持って大海原に出て行った。捨身の思想である。即身仏と共通していると思う。
 四方に鳥居をつけ、中に自分がいて経文を読む。南海の浄土に着く為でもあっただろう。

 平家物語では、平維盛(これもり)が渡海をしている。平清盛の直系の孫である。
 彼は、富士川の合戦・倶利伽羅峠の合戦では総大将として敗軍の将となっている。
 また、木曾義仲に追われて都落ちをするときに、都に残る妻子との別れに維盛は時間がかかり、他の兄弟たちに出発を催促されている。心が優しいのである。
 西国落ちした平家が屋島から福原にまで上ってきて、一の谷の合戦の時は、屋島からの出発が遅れ、須磨までは来る事がなかった。

 彼は合戦を厭い、屋島を抜け出し、高野山に上がり、滝口入道の導きを受け、やがて南紀勝浦に向かい、ここ補陀洛山寺から渡海をしたのである。
 滝口入道は出家する前には、横笛と言う娘と話題を作った斎藤時頼である。


左:船のともから見ると、奥の板の間で横になる。
右:補陀洛山寺の隣りには神社がある。神仏混淆の名残りである。「くまのさんしょだいじんしゃ」と言う。


ここは熊野古道に沿っており、浜の宮王子というが、境内に巨大な楠木がある。幹が2本に見えるが、実は一本である。これまで見たのでは最大のものでした。


祭神のトップは「けつみのみこおおかみ」でスサノオノミコトのことである。


「ははそ」モミジである。

南紀02(橋杭岩)

2006-11-15 | 国内旅行
和歌山県の西方に枯木灘海岸と言う岩礁地帯が数十km続くところがある。
 その中で周参見(すさみ)町に夫婦(めおと)波観潮の恋人岬がある。波が2方向から来て一つになるのでこう呼ばれると言う。これを見つめるのは恋人である。


風光明媚なところである。


左:展望台の直近の崖に、ピンクのブーゲンビリアの群落が広がる。
右:地球の緯度の標記に続いて、サンフランシスコまで10,000km、ホノルルまで6,500kmとある。紀伊の国は、海を越えて勇躍する県民性を持っている顕われかも。


最南端の串本町の観光地図である。対岸の大島へは巡行船でなくて大橋が完成した。
大島に向って伸びる橋杭岩が並ぶ奇観がある。


立札までが串本節を思い出す語り口、「ここは串本、向いは大島、中を取り持つ巡行船、アラヨイショ、ヨーイーショ・・」と串本節の出だしではないか。
 バックの山並みは大島である。


岩にはすべて名前がある。弘法大師とか天邪鬼とか、楽しいではないか。


岩が並ぶ姿は、巨人が何か語りかけているような・・。


左:泥岩の地層に、マグマが間隙を縫って隙間に貫入してきて、冷えて固まり扁平な石英斑岩が、浸食されずに残ったものである。
右:岩礁地帯の干潟には、小動物が見られる。カニとかヤドカリが多数。
 この写真のヤドカリは巻貝を引きずり込んで食っているようだ。ヤドカリは只今食事中。


居並ぶ岩礁の隙間から太平洋が見える。そこにトビウオでもないのに、魚が海面からジャンプしていた。
 鰯なら大きな魚に追われていると考えるけれど、30cmはありそうなものである。鱗が光るが、たぶんボラかな。


 大島に渡る「くしもと大橋」の遠望。

南紀01(くじら)

2006-11-14 | 国内旅行


 本州最南端と自他共に許す潮の岬を経て南紀勝浦で一泊した。その時の晩御飯に出たのがこの一品。 
 南紀一帯は「鯨と鮪」の看板が目立つ。この皿の上のものは鯨の「第四の胃袋」と言う。
 食感はトロである。食するのに歯は要らない。襞になっている部分だけがやや舌触りがある。
 そもそも、鯨の胃袋は牛のように四つあるというのは初耳だ。それがまた、これは第4であると言う。鯨は反芻動物なのか。さもあろうか。半信半疑である。

 レストランの若いウエイターに聞くと、「自分たちも子どもの時から「第四の胃袋」といっていた。料理の別の名前は知らない」と言う。
 そしてやがて、鯨の解剖図をネットから出したものを持ってきた。見ると第四の胃袋も出ている。十二指腸の部分が袋になったらしい。

 これは珍味なんだ。一緒に並んだ「尾の身」も美味かったが、この珍味はくせのない味だった。

秋の色03

2006-11-13 | 自然界
道の駅へ新鮮野菜を求めて山間部に向かう。それではとデジカメ持って山里の秋の色を探索した。



山はすでに綾錦、青葉・若葉もいいが紅葉もいい。


段差になった田の畦道に大きなケヤキの木があった。


よく見ると、蔦が巻きついている。真っ赤な色がケヤキの黄葉の中に垣間見える。


赤と黄とが入り混じる秋なんだ。


少しくらい蔦が上ってきても、蔦に宿を貸している風情である。もう何十年と蔦はケヤキに寄り添っている。


左:そばにあった柿の木に這い登るヤマノイモの蔓も、一年の役目が終わった葉を黄色に染めている。
右:ヤマウルシの木は頭上高くで発色している。この大きさではまだ漆は採れませんねえ。



荒れたブッシュの中で生存競争を生き抜き、秋こそがその存在感を示す時でしょう。


ヤマウルシは、人によってはかなりの「かぶれ」を発症する。この赤い色は悪魔の色であるかも知れない。非常に美しい。


人の背丈よりも高く、真紅の色は大空を仰ぐ。


この柿は、野生のままの木だと思う。渋柿に違いない。
 すべて食用にする柿は接木によって結実する。どんなに甘い柿であっても、その種子が発芽すると渋柿しか出来ない。


秋の色02

2006-11-12 | 自然界
 六甲山に秋の色を求めて、オルゴール館付近まで行き散策したものの、山の手入れが不十分なのか、森はブッシュで荒れていた。林間に散在する別荘の敷地の中だけが美しい。


山間の池の秋は寂寥感が漂う。


夏には生命溢れる木々だったが、まもなく休憩して冬眠するようだ。


6月にしっとりとした潤いを見せたアジサイは、そのままの姿で、もう人にも顧みられることもなく、今もなお、すっくと突っ立っている。




自然林の茂みから一際目立って、これはハウチワカエデかなあ。どんな色にもなりますと七変化の色彩を見せる。


バックになっている向こうの山の緑がいい取り合わせになっている。


このドウダンツツジの色は見事な真紅を見せる。


綿毛が渦をえがいて、種子をつくるつる性の潅木。名が出てきません。誰か知りませんか。


ヤマウルシとガクアジサイとミヤコザサで秋を演出します。


コナラ(ははそ)の黄葉とハンノキの紅葉
 

一枝だけの「ははそもみじ」です。


一軒茶屋の道路沿いで色づいた「サクラもみじ」でした。古人は春のサクラよりも美しいと言っています。