昆布が美味い

羅臼の昆布漁を見た時にスタートしたblogです。昆布のダシのように、人生の旅にも味付けをしたい。旅を中心に纏めています。

昼下がり02

2006-11-10 | 話題
10月12日の「昼下がり」のアップから1ヶ月になりました。立冬の日の木枯し第一号が吹く前の日の写真です。再びショッピングセンターの中庭です。

 この花は皆さんのお蔭で「海紅豆」とかアメリカデイゴと判りました。以前にも増して色が濃く、南方系ですから、行く秋を惜しんでさらに色が濃くなっていました。

 マメ科というので楽しみにしていたところ、結実したのを見るとやっぱり豆だった。

 中庭の噴水のある広場のバルコニーの下から蒸気が出てきた。猛暑の日には喜ばれるかも知れないが、そんな日には、人はあまり太陽の下には出て来ないかも知れませんね。

 雀が何やら話合っている。

 女性がベンチで憩い、雀が2羽揃って目の前で囀る昼下がりでした。

大阪モノレール

2006-11-09 | 旅の風物
大阪万博の時に開通したモノレールは、大阪伊丹空港から万博千里会場までを結んだ。それが、かなり延伸して大阪市の東隣りの門真市まで行けるとは聞いていた。しかし、まだ一度も乗った事がなかった。


大阪都心部にあるなにわ橋の欄干にはライオンが坐っている。このライオン像は、第二次大戦の空襲の中でも、花崗岩の身体を茶色に酸化されながらここに居座っている。三越とか大阪証券取引所が近い。

ここから地下に潜って、京阪電車「北浜」駅から「門真」駅に向う。


京阪「門真」から、すぐにモノレールに乗換える。
「これは大阪モノレールと言う名前が付いていたんだ」てっきり空港直結だから「空港モノレール」とばかり思っていた。


のろのろ走るモノレールは約50分で終点まで行く。


高架を走りながら、東側の窓から新幹線の鳥飼基地が見渡せる。


左:かつての大阪万国博覧会のシンボルタワー、岡本太郎の設計になる「太陽の塔」が見える。
右:終点「大阪空港」駅の通路にギネスの賞状を見つけた。営業距離世界一、全長21.2km、ギネス出版から1998年に認定された。(なんと趣味の悪いことよ)


大阪空港は、兵庫県伊丹市と大阪府豊中市にまたがっている。関西空港が出来てからは、国際線は飛ばなくなったが、ANAとJALでターミナルの南と北を使い分けている。


おりしも、夕陽に照らされてANA便が着陸した。標高932mの六甲山の山並みは今宵も美しいシルエットを見せる。


長岳寺の地獄絵図

2006-11-08 | 歴史・文化遺産
山之辺の道はそっくり東海自然歩道になっている。
 天長元年(824)桓武天皇第7皇子の淳和天皇勅願で、弘法大師が大和(おおやまと)神社の神宮寺として創建した。往時は塔頭48ヶ坊、衆徒300人余名を数えたと言う。
 花の寺25か寺の一つで、ヒラドツツジは見事なものである。秋の紅葉も見逃せないポイントである。


 かつては七堂伽藍がそろい、多くの建物があった。
右は大門である。釜の口(かまのくち)山長岳寺と門札が出ている。
 伝説が残っている。かつて大門の前に刀鍛冶が衆徒相手の営業をしていたと言う。ある時衆徒たちが来て、「ここで作った刀は切れ味が悪い」と言ったので、刀鍛冶は怒って、大門の屋根を支えている肘木を斬ったというのである。それで、この門を「肘切り門」とも言われる。


大門から200m程行くと鐘楼門に出会う。釣鐘をつるための金具がついているので鐘楼門と言う。鐘楼門としては我が国最古の物と言う。国指定重要文化財である。
なかなか風格のある立派な楼門である。


境内にある放生池は静かな佇まいを見せる。人間の為に命を落とした生き物を慈悲の心で放ち、供養する。卒塔婆が中央と両側に計6本立っている。一般に放生会(ほうしょうえ)は8月15日に行われる。


 子ども3人に纏わり付かれる地蔵菩薩である。
 地獄絵図から読み取ると、子どもが死ぬと、父母の恩に報いずに死んだ為、親への恩返しに河原の石を積む。
 夜になると、鬼がやってきて石積みを潰す。「父母が持つ未練の涙がお前達の成仏を妨げるのだ」と鬼は言う。やがて、父母の供養により地蔵菩薩が子ども達を救うと言う。
 「一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため・・」とか聞きますね。


左:本堂  
右:本尊の阿弥陀如来坐像は水晶の玉眼が入っている。
玉眼の入っている仏像は鎌倉時代のものであるが、この像はさらに古い。鎌倉時代の仏師運慶らは、この像から学んだに違いないと言う。従って、玉眼のある仏像としては最古のものと言えます。


阿弥陀如来の脇侍、観世音菩薩と勢至菩薩は半跏(はんか)像である。

 地獄絵の掛軸は縦4m、横1.2mで、9幅ある。一列に並んだ絵図は壮観である。この写真では上部1/3が写っていない。上部には死後に赴く六道の世界での裁判官10人の様子がある。


左:死後乗り越える死天山を降りてくる道が中央に見える。
この山を乗り越える為に、旅の装束を着る。帷子・手っ甲・脚絆・草鞋・杖などを持たせて送るのである。

 坂を降りたところにある一本の木は衣領樹と言い、その足元に坐っている二人が見える。赤い服を着た一人は奪衣婆といい、亡者の衣を奪い取る。もう一人は懸枝爺といい、衣を木の上に投げ上げる。

 罪の深い者の衣は高い枝に懸かり、善人の衣は低い枝、普通の者の衣は中ほどに懸かる。
 その結果、三途(さんず)の川の渡る場所が決まると言う。

 橋が見えるだろうか、善人の渡る橋である。その上方で赤いパンツをはいた鬼が槍を持って追い立てているのが悪人の渡る激流である。
 船賃として六文銭を入れるというが、この絵図では船は出てこない。

 最も下に地蔵菩薩が子供たちを救って、連れて行く図である。

右:焦熱地獄である。罪人を地獄の業火によって焼き焦がす。中央の炎の中をよーく見ると、白い身体の亡者が串刺しにして焼かれる。
 炎の左下に串に刺された亡者が見える。炎のすぐ左上では黒い鬼が柱に縛り付けた亡者の舌を抜いている。
 この地獄に行くには、生前に、殺生・盗み・邪淫・酒に関する罪を犯すといい。
 

左:十人の裁判官の長、閻魔大王である。
右:樹上に妙麗の女性がいる。その誘惑に負けた罪人が樹を上って行くと、木の葉が鋭い刃となって、身を切り刻む。それでも上って樹上に着くと、かの女性が樹下にいて、また誘惑する。
 身はぼろぼろになるがやめられないという地獄である。


もう地獄を出ましょうか。

この国指定重要文化財の鐘楼門が、西方浄土に沈む太陽を門の彼方から呼び込んでいた。


 このテイカカズラの紅葉はなんと美しいことか。生きている証である。

長岳寺の柿

2006-11-07 | 自然界
まだ紅葉には少し早い。今年は何処の、何の紅葉に狙いをつけようかと、今から楽しみです。

 長岳寺には、横幅11m高さ4mの地獄絵があって、毎年11月頃に公開している。今年は訪れる機会があって、山之辺の道沿いの古刹を訪ねた。

 紅葉ではないが、秋の色、柿が色付いていた。この色を陶工柿右衛門が出そうと心血を注いだのである。
 鐘の鳴る法隆寺ではないが、ここは静かな奈良盆地を見渡す山之辺の道である。

 

背景の森は第10代崇神天皇陵古墳である。通称、行燈山古墳である。

 崇神天皇は119歳で崩御された。記紀によるものであるが、名をハツクニシラススメラミコトといい、第1代神武天皇と字は違うが同じ名前である。
 記紀の編纂者たちは、この崇神の時代からかなり史実として認識していたのではないか。発掘調査で出土品などはかなり本当らしくなってくる。

 よく言われる、ジンム・スイゼイ・アンネイ・イトク・コウショウ・コウアン・コウレイ・コウゲン・カイカの第9代までは、まさに物語であり神話の世界である。
 

秋の日は釣瓶落しとか言いますが、のんびりしていると早くも夕暮れを迎えた。
左:JR柳本の駅の陸橋で、カメラに入れることに気付いた。西の葛城山系に落ちている。秋の野であれば良かったと臍を噛んでいる。
右:境内で村の人が販売している柿。柿の畑に簾を立てて、店を出している。4個入りが100円とは。3個と思っていたら4個100円だった。近ければ買いに行きたい。
 種があるから出荷できないと言っていたが、家で食べてみると、3個で種が一つくらい入っている。


夕陽に映える蔦紅葉。長い影が地蔵院の土塀に伸びる。
 甲子園の蔦はなくなっても、ここに残っているぞーっ!

ぶらり大津03(弘文御陵)

2006-11-06 | 歴史・文化遺産
 ぶらりもやがて三井寺に辿り着いた。歩いてお参りするのは数十年振りである。比叡山の天台宗と同じ流れを組みながら、比叡山とは一線を画してきた三井寺である。


園城寺は天台寺門宗の総本山としての名である。通称三井寺である。


今日はこの案内図の右の端に描かれている弘文天皇陵を訪ねる事にする。

彼は、天智天皇の嫡子として育った。しかし、次期天皇になる皇太子位は、天智天皇の弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)であった。天智は飛鳥から近江へと都を遷して近江に都を造っていたのであった。

 しかし、激動の時代を乗り越えてきた天智も近江朝で病床に臥し、天皇の位を息子大友皇子に譲りたくなるから、ロマンが生まれる。

 そんなある日、天智は病床に皇太子の大海人皇子を呼び、自分の後継を托そうとした。それを訊いた大海人皇子は、すでにこの事のあるのを察し、
「自分は皇位を継ぐ気はない。今から吉野にこもって、世間を捨てる気です」
と言うや否や、一目散に吉野の山に向って出発しました。
 噂によれば、大海人の吉野入りさえ妨害する待ち伏せ・追っ手の勢力があったそうです。

 おそらく天智の前で「お兄さん後は引き受けました。ご安心ください」とでも言おうものなら、直ちに命を狙われていたと言います。

 さて、吉野に籠った大海人は、その後、吉野から伊賀上野を通って伊勢の方面に出発します。10人ほどの人数が伊勢湾まで来たときは数千人の軍勢となっていたと言います。
 
 そこから北上して、関が原あたりで陣を構えます。そして近江の都に攻め上ります。途中の戦いは、数々の戦略・謀略・戦いを繰り返しました。また、奈良盆地でも戦いがありました。
 かくて、瀬田の唐橋付近での戦に勝利し、大友皇子の率いる近江朝廷軍を打ち破ります。悲劇の主の大友皇子は出奔し、自殺したと伝えられています。

 勝利した大海人皇子は、都を再び飛鳥に遷し天武天皇として即位します。

 これが壬申(じんしん)の乱といわれる天下分け目の戦いだったわけです。

 ところで、天智の後を継いだ若き大友皇子は、こんなに短期間の間に、天皇即位の儀式などする時間があったのでしょうか。また、父の死後に叔父さんの大海人皇子が自分を滅ぼしにやってくるとは夢にも思わなかったでしょう。

 後世の諡号(しごう:おくり名)で「弘文天皇」と呼ばれ、第39代の皇位に就いてはいるが、権力争いの渦に飲み込まれた一人でしょう。天武天皇が吉野に入らざるを得なかった権力争いにも驚かされます。
 壬申の乱は一部を紹介しましたが、まだまだ複雑な、広範囲な戦いでありました。

 万葉集の歌にも読み込まれるほどの、古代における悲劇の数々は枚挙(まいきょ)に暇がない。
 

近江朝廷があったであろう地域に程近く御陵がある。大津市役所のちょうど裏手でこじんまりと護られている。


「弘文天皇長等山前陵」と碑文にある。三井寺が長等山に凭れ掛かっているのでこう呼ぶ。また前陵とあるが、別に後陵があるわけでない。
 手入れの行き届いた御陵は苔で覆われている。苔の隙間からキノコが出ていた。
 

ぶらり大津02(疎水)

2006-11-05 | 歴史・文化遺産
京阪坂本石山線の路面電車道を、北に歩くと「三井寺」の駅に着いた。
 駅のすぐ隣を、川が琵琶湖に流れ込んでいなくて、流れ出ていた。昭和23年まで、この流出する川の流れに沿って京都に向かう船便もあった。明治23年に開通している。人呼んで「琵琶湖疏水」と言う。

 明治になって、京都の人たちは都が江戸に遷ってしまい、伝統の重さよりも、虚無感に気力を半減していたと言います。
 そんな時、京都の市民の気持ちを元気付けたのが、この琵琶湖疏水の快挙であったと言います。琵琶湖の水を京都市内に引いてくる。それも発案から設計から工事そのものすべてを、日本人の手で行ったと言うのですから、意気軒昂なものがあったでしょう。

 また、標高差約30mを利用して京都市内に発電所を作った。それを利用して市電を走らせた。
 さらに、この疎水のトンネルを船で琵琶湖から京都市内まで行った。
 お客は船に乗ったまま、市内に降り立つことが出来ました。市内の最後の急勾配も、船をケーブル(インクライン)に載せて上り下りをした。その動力は今も動いている疎水発電所の電気であった。


琵琶湖からの流出する水路ぞいにある柵は鉄製である。モダンなデザインでしょう。


疎水の水路は数年後には、さらにもう一本増設されたので、これが第一取水口である。右の絵の奥のほうが琵琶湖である。


第二取水口の標識と、静かに膨大な水が流れ込む入口と、比叡山系の山のトンネルに向かう水門。


桜の並木に挟まれた水路はそのまま京都市内に向かってトンネルに入る。
幼い頃、話を聞いて大きくなったらここの船に乗る夢を持ったものだ。


トンネルの入口はレトロな感じで味がある。最近の高速道路のトンネルの入口とは趣が違う。
 京都市内を縦横に水路を作り、滔々と流れる水は市民を潤している。ちなみに、哲学の道沿いの水路も、南禅寺の境内にある水路も、伏見に流れるのもすべてこの水である。
 京都側の疎水はblogにアップしたような気もするが、ちょっと見当たりません。探してみます。


さてさて2!

2006-11-04 | 話題
舞鶴自動車道の丹波篠山のSAでの風景でした。


これぞたこ焼。まさにたこ焼。たこ一匹まるごとが帽子を被って横になって並んでいる。たこ焼は篠山にはあまり関係がない。


丹波篠山名産の黒豆で作った黒豆パン。葡萄パンが頬かむりをして逃げていきそうだ。
 この丹波の黒豆にもこだわりがあるようで、篠山の某地区の山で収穫されたものが特に美味いと言う。水と土壌と温度の日較差が大きいのが良い黒豆を作ると言う。
 どこかで聞いた話である。
 山古志村のお米のようなものかなあ。
 
 
 

さてさて!

2006-11-03 | 旅の風物
最近、電車で出かける事が多い。中吊り広告の中にみた秋です。


この紅葉は立体で作ってある。これだけで何の広告かわかる人がおれば、この宣伝は大成功でしょう。


これは中吊りでなくて、ドアの横の壁面の額縁型の写真である。

 最近、若者に席を譲られる事がよくある。素直に感謝して着席する。と同時に自分の年齢を再認識してショックである。

 しかし、中には、譲られても「結構です」とか言って断る人がいる。そのときの若者はバツが悪くて、そのままどこかに行ってしまう事が多い。

 先日は「次で降りますから」と言って断っておきながら、終点まで乗っていた年寄りがいた。若者に代わって「今の年寄りは・・」と聞こえよがしに若者に話していると、彼は電車を降りる時に気が付いたのか「すみません」と一声かけていた。

 鹿児島の市電に乗ったときのこと、若者が軒並みに席を黙って立上がっていた。茶髪のおにいさんでも、ヒッピー紛いの若者でも、皆が黙って席を立つ。「どうぞ」なんて言わない。これはまた気持ちが良かった。
 さすが、薩摩の風土は立派なものと感動した。

話し変って、こんな胡瓜を見つけた。へび胡瓜と名前が書いてある。

 但馬の新鮮野菜の店である。作った農家の主婦も、今年初めてこんなのができた。飾りとしてあちこちに置いてあった。
自然の妙と言うべし。



ぶらり大津01

2006-11-02 | 歴史・文化遺産
ぶらりと大津に向った。浜大津に出て北に向って歩いてみた。
 自治体の合併で、大津市は琵琶湖大橋のあたりまで大津市になっていた。市役所は渡り廊下で繋がる3つの棟になっていて、建物内部は複雑なイメージがする。
 市役所の前の道路沿いに、大津絵のモニュメントが等間隔で並んでいた。


湖岸に平行して走る京阪石山坂本線の一部は路面電車になる。京阪と名が付き、車両も京阪電車であるが、独立採算の料金体系であった。

 大津絵は、江戸時代初期の寛永年間(1624-1644)頃から描かれていて、最初、仏画として描かれ、三井寺周辺で、信仰の上で必要なものであったらしい。
 それが、世俗画が描かれるようになって大津絵の人気はますます広がっていった。「藤娘」「瓢箪鯰」「文読む女」などがある。

 松尾芭蕉の「大津絵の筆のはじめは何仏」という俳句にも出てくるように、大津絵の画題の中の仏画が庶民への教訓、護符などにもなった。


左:「藤娘」永遠の娘の姿で、縁結びのお守りになる。
右:「長刀弁慶」弁慶の立ち往生を表すといわれている。彼の慈悲の心を表すという。

 この絵の筆者は4代目大津絵師の高橋松山である。彼は1932年生まれで、大津絵の普及に努め、1962年松山の号を襲名。1978年大津絵文化協会会長である。


左:「大黒」
 大黒は福の神であり、前にある菅笠を被って、上を見ないでひたすら働いて、福を手に入れなさい。足るを知りなさい。   
右:「大黒と外法の相撲」
 福の神と長寿の神が相撲をとると、たいていの人は福を勝たせてしまう。あまり福ばかり求めないことが肝要である。


左:「瓢箪鯰(ひょうたんなまず)」
 禅問答に瓢箪鯰があり、どうやって瓢箪で鯰を捕まえるか、と訊かれて様々な回答を論議する。その様子を描いた掛軸が妙心寺に残っている。
右:「ネコと鼠の酒盛り」
 酔ったあまり、肴にするべき鼠から、辛いトウガラシを食った時の猫の顔が見たい。


左:「鬼と柊(ひいらぎ)」魔除けの柊の前では鬼も逃げ出す。誰でも弱点はあると言う教訓。
右:「文読む女」何処の誰からの手紙を読むのだろうか。満足そうな女性から、この絵を見る人の思いは様々に広がる。

神宮寺(下)

2006-11-01 | 歴史・文化遺産
例年3月2日の水送りの行事の時は、数千人の人が参拝に来る。


境内の隅の護摩壇から本堂を見る。この背後に水送りに用いる井戸がある。

 行事の日の午後から、修二会(しゅにえ)の為の経文の声明(しょうみょう)が本堂に響き渡る。華厳経の経文から錫杖・懺法(せんぽう)・悔過と声明が続くのと平行して、弓打神事と弓射大会が行われる。

 本堂内で行われていた大護摩の火は、屋外の護摩壇に移され、まだ雪の残る周囲の山々を照らし、赤く浮かび上がらせるのが午後7時である。

 境内の隅にある井戸から、奈良に送られる水が汲み上げられる。


井戸は覆い屋で囲われ、こんこんと清水が湧いている。

 午後7時30分には、境内の護摩壇の火が、参列している人々の持つ松明に点火される。横に流れる遠敷川(おにゅうがわ)の上流1.8kmの鵜の瀬に向って松明行列を作る。


左:鵜の瀬の標識の下方に「心やすらぐ美食(みけ)の郷・御食国・若狭おばま」とある。美食とは神に供える食物であり、天皇に納める食料である。古代からまかなってきた食の御料地がこの若狭である。
右:鵜の瀬までの道は、夜の松明行列に備えてよく整備されているし、公園が出来ていて、村の作った資料館が出来ている。


水送り神事が紙人形で紹介されている。身を清め、精進潔斎した神宮寺の神官が、桶に入れた井戸の水を川に流して、奈良に送っている。若狭はまた和紙の国でもあると言う。


水送り神事の神聖な場所へ向って鳥居がある。横には日本名水百選の標識が立っている。


対岸の石垣の上に、神官らが並んで水を流す。


水は、10m程下流にある水中洞窟に流れ込むという。写真では水の流れが、湧き水のような丸い波紋が見えるでしょうか。
 この水中洞窟に、白と黒の鵜が潜って行って、奈良二月堂の若狭井まで約10日間で到着するという。

 何故この行事が出来たかと言うに、東大寺初代別当となった良弁(ろうべん・りょうべん)はここ鵜の瀬の生まれと言う。

 彼を慕ってインドの僧実忠和尚が神宮寺から東大寺の大仏開眼供養に参列した。そして、その後二月堂を建立し、修二会(しゅにえ)を始められ、全国の神々を二月初日に招待した。
 ところが、ここ若狭の遠敷(おにゅう)明神だけが来なかったのである。そして2月12日になって到着したので、お詫びとして二月堂本尊十一面観世音へお供えする閼伽(あか)の水を送る約束をされたという。
 その時、二月堂の下の地面から、にわかに白と黒の鵜が飛び出してきて、その穴から泉が湧き出したので、若狭井と名付けられ、この井戸の水を汲む行事が「お水取り」の行事となったと言う。

 この若狭井の水源が鵜の瀬の水中洞窟であって、奈良までこの穴を鵜が潜って行ったという。

お水送り行事は、遠敷明神と神宮寺の神官によって行われている。


3月2日(旧暦2月)の松明行列が紙人形で展示されていた。
左:神宮寺から出発する。村人の老いも若きも参加している。
右:山岳仏教の山伏姿の修験者も、ほら貝を持って参列する。大松明を掲げながら。


まるでオカルト集団のようだ。


川に水を流し、奈良まで送るのである。
 古代において、大陸の文化が若狭の国を玄関口として入ってきた。その象徴として、水がこの地から大和の国に流れて行った事の例えではないかと思われる。