(11月11日)
第一楽章と第二のまとめとして。
レヴィストロースが主唱した構造神話学、その嚆矢とされる歴史的名著「Le cru et le cuit」(生と調理)の解説を試みている。前回までに神話における3段階の構成、そして各構成における表現の有り様を文中、行間そして文字裏に探った。尊師の言い方ではこの段落はテーマと変奏、ソナタ。音楽ならば、語り口と筋道とは演奏の流れ、小節小節に符号(code)が散りばめられ、それがとある方向に展開する。これが符号化(codage)。これらの演奏振りを「鳥の巣あらし」「野豚の起源」二の神話群で探った訳です。
そもそもcode/codageは神話のメッセージの筋道(armature)とスキーム(scheme)を表現する原動力ともいえます。その共通する力が「五感」。
トッカータとフーガ、スバル星のテーマ(247頁)から一節を引用すると;
<en dereniere analyse, ces differences se reduisent a autant de codes , constitutes a l’aide des categories de la sensibilities : gout, ouie, odorat, toucher, vue…>
訳:これら神話は内容において大きな差異を見せているが(人の寿命の起源神話群、この前の数十ページでは南米のみならず、中北米の原住民アメランディアンから神話を選んでいる)これまで論じてきたように官能則による符号(code)付けの成果を取り込めば、それら差異は味覚、聴覚、嗅覚、触覚、視覚の5に縮小できる。
鳥の巣あらし神話では味覚(gout、gustatif)をcodeとしている。父に謀られ絶壁に取り残されてトカゲを喰らう(M1ヒーロー)、毒流し漁獲物を大食らい(M2ヒーローの母)など、生喰らいまでの経緯とその結末をsequence(シーン、聞かせ場のアリア)としてあげている。
野豚でもしかり、鳥の巣ではこうしたsequencesをレヴィストロースはボロロ族での自身の調査での見分、民族誌の知識をもって判定している。生食い行為(manger cru)とは、「野蛮」「未開」を表すのではなく、何やらの社会性、精神を表象していると推理する。哲学者ではなく人類学者と自身を位置づける洞察力の深み、レヴィストロースのraison d’etre存在理由がそこに隠れ見える。
分析によると;
ブラジル中央のマトグロッソ・アマゾニア原住民はmatrilineaire母系社会、ボロロ族ではそれに加えmatrilocal母系居住の社会制度を厳然と維持している。ヒーロー若者は成人の儀礼(initiation)を迎えた。通過後には男屋に隔離される。母系居住の女屋には成人男子の居場所はない。隔離居住こそ母系制維持に不可欠制度だがヒーローが拒否した。それは居残りたい、母から離れたくないに尽きる。
血縁(母方)との連合を継続する、同盟(姻族、父方)の拒否である。父との関係を姻族としたのはボロロ族は邑を二分する「部」が社会の基本である。子は母の子であ、母の部の構成員である。父の部には入らない。子は父を姻族同盟の先端とみている。鳥の巣あらしでは子が樹上(断崖)に上り金剛インコの雛を掴むが、父に「雛は見えない」「まだ卵」と偽り、雛の引き渡しを拒む(M1)。石を卵に見立て、飛礫を投げつける(別神話)。地位の象徴である金剛インコの尾羽を父に渡すまいとする反逆は、同盟を否定する行為である。
母の部での継続とは制度への反逆、放縦、無視、不作法、そして近親姦の「思想」がまつわり、それらを「生喰らい」に集約している。生で食べるとは自然で継続、そして母子姦(おやこたわけ)につながるのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/39/ae8ba1f6cc1a1086c4a0b21396e73d61.jpg)
写真:ボロロ族は金剛インコの雛を盗み育てる。尾羽が長く生えたら抜き取って冠飾りに用いる。このインコはkejara落で著者に撮影された成鳥だが、尾羽がない「鳥の巣あらし」で雛で盗まれた、尾羽が生えたら抜き取られして、「生き続けろと勇気づけられている=悲しき熱帯の一行」のであろう。本書からデジカメ。
野豚の起源神話では音(ouie)となる。
M16で俗神カルサカイベの要求は良き作法に他ならないが、結婚している姉妹は応ぜず、俗神代理を侮蔑し、交換品など渡さず帰す。復讐の結果姉妹の嫁ぎ先一族は野豚に変身させられる。俗神の「汝等、肉を喰らえ」呪いで、これを一族郎党が「まぐわい」に狂えと聞き違えた。「ブイブイ」と野豚の唸りをあげ相手構わずに交合して、その放縦の果てが野豚への変身だった。
不作法な音が放縦、作法破り、連続の思想を表しそれが、姻族からの要求(介入)を拒否する自然となる。
原文では肉=viandeを喰らえとしている、このviandeは調理前の肉で、調理してのちにboef(牛)proc(豚)などに変わる。ここでも生喰らいのcodeが存在し、それが不規則な姦淫(放縦の象徴)と結びついている。
本書序曲の第一行の「生と調理などの経験で判別できる感覚が抽象概念を曝く」との質問に鳥の巣あらし、野豚の起源に答えが用意されていると感じる
良き作法のソナタ7の了
第一楽章と第二のまとめとして。
レヴィストロースが主唱した構造神話学、その嚆矢とされる歴史的名著「Le cru et le cuit」(生と調理)の解説を試みている。前回までに神話における3段階の構成、そして各構成における表現の有り様を文中、行間そして文字裏に探った。尊師の言い方ではこの段落はテーマと変奏、ソナタ。音楽ならば、語り口と筋道とは演奏の流れ、小節小節に符号(code)が散りばめられ、それがとある方向に展開する。これが符号化(codage)。これらの演奏振りを「鳥の巣あらし」「野豚の起源」二の神話群で探った訳です。
そもそもcode/codageは神話のメッセージの筋道(armature)とスキーム(scheme)を表現する原動力ともいえます。その共通する力が「五感」。
トッカータとフーガ、スバル星のテーマ(247頁)から一節を引用すると;
<en dereniere analyse, ces differences se reduisent a autant de codes , constitutes a l’aide des categories de la sensibilities : gout, ouie, odorat, toucher, vue…>
訳:これら神話は内容において大きな差異を見せているが(人の寿命の起源神話群、この前の数十ページでは南米のみならず、中北米の原住民アメランディアンから神話を選んでいる)これまで論じてきたように官能則による符号(code)付けの成果を取り込めば、それら差異は味覚、聴覚、嗅覚、触覚、視覚の5に縮小できる。
鳥の巣あらし神話では味覚(gout、gustatif)をcodeとしている。父に謀られ絶壁に取り残されてトカゲを喰らう(M1ヒーロー)、毒流し漁獲物を大食らい(M2ヒーローの母)など、生喰らいまでの経緯とその結末をsequence(シーン、聞かせ場のアリア)としてあげている。
野豚でもしかり、鳥の巣ではこうしたsequencesをレヴィストロースはボロロ族での自身の調査での見分、民族誌の知識をもって判定している。生食い行為(manger cru)とは、「野蛮」「未開」を表すのではなく、何やらの社会性、精神を表象していると推理する。哲学者ではなく人類学者と自身を位置づける洞察力の深み、レヴィストロースのraison d’etre存在理由がそこに隠れ見える。
分析によると;
ブラジル中央のマトグロッソ・アマゾニア原住民はmatrilineaire母系社会、ボロロ族ではそれに加えmatrilocal母系居住の社会制度を厳然と維持している。ヒーロー若者は成人の儀礼(initiation)を迎えた。通過後には男屋に隔離される。母系居住の女屋には成人男子の居場所はない。隔離居住こそ母系制維持に不可欠制度だがヒーローが拒否した。それは居残りたい、母から離れたくないに尽きる。
血縁(母方)との連合を継続する、同盟(姻族、父方)の拒否である。父との関係を姻族としたのはボロロ族は邑を二分する「部」が社会の基本である。子は母の子であ、母の部の構成員である。父の部には入らない。子は父を姻族同盟の先端とみている。鳥の巣あらしでは子が樹上(断崖)に上り金剛インコの雛を掴むが、父に「雛は見えない」「まだ卵」と偽り、雛の引き渡しを拒む(M1)。石を卵に見立て、飛礫を投げつける(別神話)。地位の象徴である金剛インコの尾羽を父に渡すまいとする反逆は、同盟を否定する行為である。
母の部での継続とは制度への反逆、放縦、無視、不作法、そして近親姦の「思想」がまつわり、それらを「生喰らい」に集約している。生で食べるとは自然で継続、そして母子姦(おやこたわけ)につながるのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/39/ae8ba1f6cc1a1086c4a0b21396e73d61.jpg)
写真:ボロロ族は金剛インコの雛を盗み育てる。尾羽が長く生えたら抜き取って冠飾りに用いる。このインコはkejara落で著者に撮影された成鳥だが、尾羽がない「鳥の巣あらし」で雛で盗まれた、尾羽が生えたら抜き取られして、「生き続けろと勇気づけられている=悲しき熱帯の一行」のであろう。本書からデジカメ。
野豚の起源神話では音(ouie)となる。
M16で俗神カルサカイベの要求は良き作法に他ならないが、結婚している姉妹は応ぜず、俗神代理を侮蔑し、交換品など渡さず帰す。復讐の結果姉妹の嫁ぎ先一族は野豚に変身させられる。俗神の「汝等、肉を喰らえ」呪いで、これを一族郎党が「まぐわい」に狂えと聞き違えた。「ブイブイ」と野豚の唸りをあげ相手構わずに交合して、その放縦の果てが野豚への変身だった。
不作法な音が放縦、作法破り、連続の思想を表しそれが、姻族からの要求(介入)を拒否する自然となる。
原文では肉=viandeを喰らえとしている、このviandeは調理前の肉で、調理してのちにboef(牛)proc(豚)などに変わる。ここでも生喰らいのcodeが存在し、それが不規則な姦淫(放縦の象徴)と結びついている。
本書序曲の第一行の「生と調理などの経験で判別できる感覚が抽象概念を曝く」との質問に鳥の巣あらし、野豚の起源に答えが用意されていると感じる
良き作法のソナタ7の了