(2018年6月15日)
前回まで。
働きかけに応じ文化(culture)は自然(nature)との同盟(allience=婚姻)をうっかり結び、一時は、蜜酒(hydromel)肉、など文化(culture)につながる食材を、人がふんだんに口に出来た。自然の企ては惜しげなく人に文化(食物)を与えようとも窺えるし、自然は(蜂蜜の精Maba)邪に何かを為にするなどの悪ではない。しかし、この同盟は続かない。原因は人の約束破り、禁忌を犯したためである。自然に見捨てられ(allience、同盟関係の断絶)、以来、蜜も肉も獲得には額に汗をし、ひと碗の蜜を得る様に堕ちた。
罰(chatiment)を受けたのである。
これが失いperte。本書「蜜から灰へ」に掲載されている神話群の主題の一つです。レヴィストロースはテーマをして「前作の=生から調理=では社会組織を創成し、食物を獲得する手立ての創造神話。しかし本書は喪失の神話」と述べている。
断絶に関わる神話は続く。今回は同盟関係と分断をの神話の精神の2として取りあげる(前回の出会いの様が1);
木の(女)婚約者(fiancee de bois)は類型的である。同タイトルで7数えられる変容(transformation)から、代表神話としてM259 Warrau族(Carib族の支族)木の婚約者(182頁)を取りあげる。

写真:南米先住民の少女、ネットから取得。
要約;Nahakoboniとは大食い男を意味する。歳がいったが娘はいない。娘なしには婿が来ない、この先、老後を誰が養うのかとの怖れに取りつかれた。
プラムの木(固い)の幹から娘を彫った。出来栄えの良さとは少女の美しさ、近在に知れ渡り、結婚の申し込みは引きも切らない。Naha..は若者Yar(太陽神)が(出自から)眼鏡にかなった。早速、婚約の段取り。
婚約の男 (preneur de femme嫁取り) 側が娘家族(donneur de femme、嫁出し)側に提供する義務をprestationとレヴィストロースは規定する。この語を辞書 grand robertに温ねると封建領主への賦役、公共への夫役があげられのみで、「婿の無償労働」の意味はない。フランスにはこの慣習が無かった。日本には結納の風習が残るが、これは金銭価値の物を送るので、これとも異なる。嫁を貰う(prenerur)婿となる婚約者の労働供与である。その義務は食物、肉と蜂蜜の供給である。義務を越して絶対条件、有無を言わさぬ強制である。
Yarは舅Naha..に肉と蜜ををふんだんに供給し、無事結婚に至った。しかし;
Mais quand il veut prouver son amour il decouvre que c’est impossible. L’auteur de ses jours avait oublie un detail essentiel qu’il s’avoue maintenant incapable d’ajouter>>
訳:(初夜に)Yarは己の愛を確かめようとして、かなわぬと知った。その頃(ses jours)の木彫家(l’auteur)は些細ながら基本的部位の作成を忘れた。もう補修はかなわないと白状した。
注;レヴィストロースは突如「その頃の木彫作者」なるを持ち出した。あたかもN..老人が手練れ職人に「木の婚約者」を発注したかに言葉を並べるが、これは違う。木彫したのはNaha..老人で、忘れたのではなく恣意的にその部位を作成しなかった。文脈の「un detail essentiel些細ながら基本的」を入れなかったうえ、それが後付けは出来ない理由は;
部位は女の外性器で、N..老人は膣の欠落した(木造)娘をYar太陽神に押しつけた。その狙いはprestation=婿候補の義務を長引かせたい為に他ならない。
木彫家は(女性器を造成するなどの)卑属さは備えていない、原住民は奥ゆかしいと修辞的にレヴィストロースはほのめかす。こんな「的はずれコメント」をよく、さらりと流すが、これって哲人レヴィストロースの茶目っ気である。
投稿子は文章の洒脱さに悶えてしまう。
ままならないYarは
Yar consulte l’oiseau bunia; il lui promet son aide, se laisse prendre et cajoter par la demoiselle , et profite d’une occasion favorable pour percer l’ouverture manquante, don’t il faudra ensuite extraire un serpent qui s’y trouvait.
拙訳;Yarはbunia鳥(キツツキの一種)に相談した。しっかり請け負うと約束し、木の婚約者につきまといへつらい、様子をうかがいながらおあつらえの機会を見逃さず、buniaは閉ざされている部を開口した。内には蛇が潜んでいて引き出した。
未完成にしたのみならず、Naha..老人は蛇を木の婚約者の膣の内に潜ませていた。これはYarが気を急いて無理矢理に挿入したり、あるいは自ら開口して勇ましく試みるなどの(若者に)ありうる経緯に、妨害の罠を仕掛けたに他ならない。やっとの挿入で「ああよかった」、有頂天のYarは蛇に噛まれて即昇天と果てる。
それなら木の婚約者は「まだオボコだ、もう一度誰かと婚約させられる」と邪な企てが組まれる。しかしYarは賢いと評判のキツツキを呼び、周到に危険を回避した。
二人の愛を阻むモノはもういない、邪魔もなく暮らす。(desormais, rien ne s’oppose plus au bonheur des jeunes gens)
しかしNaha..老人の重なる嫌がらせにYarは嫌気が差して、妻と子を置いて出奔する。婚約者(妻)はYarを追いに西に旅たつが、疲れて死ぬ。
結局この同盟も分断された。
神話(M26)のこの流れを本投稿2回目で提起した「自然対文化」「同盟の成立と分断」「出会いの仕組みは計画か偶然か」を核として分析すると。
1 Yarは太陽神、紛れもなく自然側である。Naha..老人は焼き肉を喰いたいとの願望をもつからに文化側である。文化が自然に誘いをかけた。誘いかけは自然からが主流とは前回に説明したが、これは数少ない文化の企みの例です。
2 神話M233(Maba)では自然が計画して文化(人)に食物をふんだんに与える。同じsequenceのM235ではMabaが蜂の男(Simo)にとり変わって、嫁側にprestationの蜜と肉与える。こちらでも接近は自然側である。
3 この神話M269でNaha..老人はallianceを結びたくないけれど、婚約者を募った。Yarを選んだ理由は彼が自然側であるから。Maba,Simoの例を逆手にとって、自然を引き込めば、そして婚約のままにしておけば食をふんだんに得られると計算した。動機からして同盟の分断、破綻を狙っている。文化(人)が何かを企めばそれには必ず邪さが潜む。それがこの神話のメッセージでもあるなら、正に能楽「羽衣」、天女の謡い「人の世はいざ知らず天に邪はない」と同じです。
M269と引用の(MabaとSimo)神話の構成を比較すると、夫のうっかりがNaha..老人の邪さに入れ替わり、企みが文化側、Maba神話などの自然側からの誘いとは反対となる。レヴィストロースによればこうした反転現象は「構造的には近似する。変容(transformation)の過程でinversement(逆転)は頻繁に見られる」
両神話の語り手(Arawak族とWarrau族)は言語系統は同一、地理的に近接している。
神話「蜜から灰へ」を構造主義で分析する 3 の了
(次回投稿は6月18日 予定)
前回まで。
働きかけに応じ文化(culture)は自然(nature)との同盟(allience=婚姻)をうっかり結び、一時は、蜜酒(hydromel)肉、など文化(culture)につながる食材を、人がふんだんに口に出来た。自然の企ては惜しげなく人に文化(食物)を与えようとも窺えるし、自然は(蜂蜜の精Maba)邪に何かを為にするなどの悪ではない。しかし、この同盟は続かない。原因は人の約束破り、禁忌を犯したためである。自然に見捨てられ(allience、同盟関係の断絶)、以来、蜜も肉も獲得には額に汗をし、ひと碗の蜜を得る様に堕ちた。
罰(chatiment)を受けたのである。
これが失いperte。本書「蜜から灰へ」に掲載されている神話群の主題の一つです。レヴィストロースはテーマをして「前作の=生から調理=では社会組織を創成し、食物を獲得する手立ての創造神話。しかし本書は喪失の神話」と述べている。
断絶に関わる神話は続く。今回は同盟関係と分断をの神話の精神の2として取りあげる(前回の出会いの様が1);
木の(女)婚約者(fiancee de bois)は類型的である。同タイトルで7数えられる変容(transformation)から、代表神話としてM259 Warrau族(Carib族の支族)木の婚約者(182頁)を取りあげる。

写真:南米先住民の少女、ネットから取得。
要約;Nahakoboniとは大食い男を意味する。歳がいったが娘はいない。娘なしには婿が来ない、この先、老後を誰が養うのかとの怖れに取りつかれた。
プラムの木(固い)の幹から娘を彫った。出来栄えの良さとは少女の美しさ、近在に知れ渡り、結婚の申し込みは引きも切らない。Naha..は若者Yar(太陽神)が(出自から)眼鏡にかなった。早速、婚約の段取り。
婚約の男 (preneur de femme嫁取り) 側が娘家族(donneur de femme、嫁出し)側に提供する義務をprestationとレヴィストロースは規定する。この語を辞書 grand robertに温ねると封建領主への賦役、公共への夫役があげられのみで、「婿の無償労働」の意味はない。フランスにはこの慣習が無かった。日本には結納の風習が残るが、これは金銭価値の物を送るので、これとも異なる。嫁を貰う(prenerur)婿となる婚約者の労働供与である。その義務は食物、肉と蜂蜜の供給である。義務を越して絶対条件、有無を言わさぬ強制である。
Yarは舅Naha..に肉と蜜ををふんだんに供給し、無事結婚に至った。しかし;
Mais quand il veut prouver son amour il decouvre que c’est impossible. L’auteur de ses jours avait oublie un detail essentiel qu’il s’avoue maintenant incapable d’ajouter>>
訳:(初夜に)Yarは己の愛を確かめようとして、かなわぬと知った。その頃(ses jours)の木彫家(l’auteur)は些細ながら基本的部位の作成を忘れた。もう補修はかなわないと白状した。
注;レヴィストロースは突如「その頃の木彫作者」なるを持ち出した。あたかもN..老人が手練れ職人に「木の婚約者」を発注したかに言葉を並べるが、これは違う。木彫したのはNaha..老人で、忘れたのではなく恣意的にその部位を作成しなかった。文脈の「un detail essentiel些細ながら基本的」を入れなかったうえ、それが後付けは出来ない理由は;
部位は女の外性器で、N..老人は膣の欠落した(木造)娘をYar太陽神に押しつけた。その狙いはprestation=婿候補の義務を長引かせたい為に他ならない。
木彫家は(女性器を造成するなどの)卑属さは備えていない、原住民は奥ゆかしいと修辞的にレヴィストロースはほのめかす。こんな「的はずれコメント」をよく、さらりと流すが、これって哲人レヴィストロースの茶目っ気である。
投稿子は文章の洒脱さに悶えてしまう。
ままならないYarは
Yar consulte l’oiseau bunia; il lui promet son aide, se laisse prendre et cajoter par la demoiselle , et profite d’une occasion favorable pour percer l’ouverture manquante, don’t il faudra ensuite extraire un serpent qui s’y trouvait.
拙訳;Yarはbunia鳥(キツツキの一種)に相談した。しっかり請け負うと約束し、木の婚約者につきまといへつらい、様子をうかがいながらおあつらえの機会を見逃さず、buniaは閉ざされている部を開口した。内には蛇が潜んでいて引き出した。
未完成にしたのみならず、Naha..老人は蛇を木の婚約者の膣の内に潜ませていた。これはYarが気を急いて無理矢理に挿入したり、あるいは自ら開口して勇ましく試みるなどの(若者に)ありうる経緯に、妨害の罠を仕掛けたに他ならない。やっとの挿入で「ああよかった」、有頂天のYarは蛇に噛まれて即昇天と果てる。
それなら木の婚約者は「まだオボコだ、もう一度誰かと婚約させられる」と邪な企てが組まれる。しかしYarは賢いと評判のキツツキを呼び、周到に危険を回避した。
二人の愛を阻むモノはもういない、邪魔もなく暮らす。(desormais, rien ne s’oppose plus au bonheur des jeunes gens)
しかしNaha..老人の重なる嫌がらせにYarは嫌気が差して、妻と子を置いて出奔する。婚約者(妻)はYarを追いに西に旅たつが、疲れて死ぬ。
結局この同盟も分断された。
神話(M26)のこの流れを本投稿2回目で提起した「自然対文化」「同盟の成立と分断」「出会いの仕組みは計画か偶然か」を核として分析すると。
1 Yarは太陽神、紛れもなく自然側である。Naha..老人は焼き肉を喰いたいとの願望をもつからに文化側である。文化が自然に誘いをかけた。誘いかけは自然からが主流とは前回に説明したが、これは数少ない文化の企みの例です。
2 神話M233(Maba)では自然が計画して文化(人)に食物をふんだんに与える。同じsequenceのM235ではMabaが蜂の男(Simo)にとり変わって、嫁側にprestationの蜜と肉与える。こちらでも接近は自然側である。
3 この神話M269でNaha..老人はallianceを結びたくないけれど、婚約者を募った。Yarを選んだ理由は彼が自然側であるから。Maba,Simoの例を逆手にとって、自然を引き込めば、そして婚約のままにしておけば食をふんだんに得られると計算した。動機からして同盟の分断、破綻を狙っている。文化(人)が何かを企めばそれには必ず邪さが潜む。それがこの神話のメッセージでもあるなら、正に能楽「羽衣」、天女の謡い「人の世はいざ知らず天に邪はない」と同じです。
M269と引用の(MabaとSimo)神話の構成を比較すると、夫のうっかりがNaha..老人の邪さに入れ替わり、企みが文化側、Maba神話などの自然側からの誘いとは反対となる。レヴィストロースによればこうした反転現象は「構造的には近似する。変容(transformation)の過程でinversement(逆転)は頻繁に見られる」
両神話の語り手(Arawak族とWarrau族)は言語系統は同一、地理的に近接している。
神話「蜜から灰へ」を構造主義で分析する 3 の了
(次回投稿は6月18日 予定)