6月21日)
Maba(蜜の精)とfiancee de bois(木の婚約者)の2の神話を取りあげ、自然(nature)
と文化(culture)の交流と断絶の様を本投稿の2~4で見てきました。この章「カエルの饗宴」は変奏曲スタイルをとっています。Maba神話を第1主題として1,2,3の変奏を取りあげています。木の婚約者は第2主題(変奏曲4,5,6)の扱いです。
Maba神話の主題は「蜂、女性」で、その変奏の1がSimo神話(Warrau族)これは「蜂男性」を主題に替えて、メロディ(的な語り口)も音調が変わる。それ以下2変奏Adabaは「男性のカエル」、3での「Wauuta」は女性のカエルとなります。
写真1 本家の作成した自然と文化の断絶の表。最下の項(conjonction+/disjonction-がすべてマイナス)に注目ください。
主題のメロディ基調とは「自然と文化はかつて同盟の関係にあった」と当投稿(2~4)で指摘している。御大レヴィストロースはどの様にそれを解説しているか。第3変奏の演奏にさしかかって(147頁)に興味深い表を載せています(写真の1)。これはメロディの「音素分解」的解説となりますか、なぜ自然と文化は断絶したのか、その解説の表です。まさに短調、文化の葬送行進曲だと耳を傾けたら理解が深まります。
そのレヴィストロースの本元の表を投稿子なりに解釈し、一部は勝手ながら変更して手書き表にしました(写真2)。
写真2 投稿子が改編した表。本家の主旨は変えないから 4)はすべてがー、すなわち自然と文化は断絶。
写真2の読み解きに入ります。
上の神話番号は連番です。レヴィストロースの整理手法の整合性が理解できます。その下Maba,Simoなどは主人公の名称です。
主題のMabaは2回目に詳しいのでとばして、
第1変奏曲。番号(M235、Simoはオスの蜂);第2回(6月12日)であらすじは紹介したので、Simoと娘の出会いを引用します。娘が家族から離れ一人となる頃合いを狙っていたSimoが娘に同衾を迫る場面;
En depit du soin qu’elle prit de l’avertir de sa condition de la resistance qu’elle lui opposa, mais le garcon eut le dernier mot, et il s’installa aupres d’elle en protestant de la purete de ses intentions. Certes, il l’aimait depuis lontemps.(Du miel auz cendres 135頁)
拙訳;(たとえ同衾にしても)同意を見せずに抵抗する娘、その理由「私の身体は汚れている」をとつと告げる気の配り。それにも関わらず、少年は娘の脇に座り込んで、意図の純真さを隠さずに、心の奥には密か、しまい込んだ最後の言葉を伝える。前々からお前を愛していたのだ。
美しい場面です。日本のどこか、東京でも青森県でも人目を避けての片隅、うぶな少年と少女が俯いて頬を赤くして、こんな会話が交わしている。
さて、女は火を熾して肉を焼く。そこに兄たちが帰ってきた。狩旅行に出て以来、来る日も来る日も獣は狩れない、すなわち坊主(狩や漁で獲物無しを伝える、フランス語でbredouille)。落胆の歩みは重いけれど、近づくテントからなぜか煙りが立ち上り、脂の爆ぜる音、焼き焦げる肉の燻りに鼻がうずき、思わず足を早めた。見知らぬ若者が火の前、妹の脇に立っていた。
Simoは喰いきれない数の獲物を担いで帰っては兄たちに提供する(これがprestation、婿候補(prenneur)が、娘を与える側(donneur)へ提供する義務)。帰村までには村人全員に行き渡る量を確保した。Simoは婿として認められ、結婚にいたる。そのSimoが自然に戻ってしまった経緯は;
義理の妹二人がSimoに関心を抱く。沐浴する皆の横で川岸にとどまり子を抱くSimoに、二人が水を掛ける。Simoは「身が焼ける、焼ける」と叫んで空に消えた。最後の部分を原文は;Un jour qu’il se tenait sure le ravage avec le bebe dans le bras pendant que les trois femmes se baignaient, les belles-soeur reussirent a le mouiller.。Aussito il s`ecria << je brule! je brulle!>>(156頁)
解説:水を掛けられた蜂は飛び立ち逃げる。義理の妹達に前もって「水を掛けないでくれ」Simoの懇願を「気を惹くため、正反対の願いを洩らしたのよ」と妹たちが勘違いし、ふざけて水を掛けた。女が男に水を掛けるのは愛を受け入れるとの表現。それにしても何故、妹なのか。婿のprestationが標準とされる要求(野豚の数、標準はおおまかに月に一匹、子豚なら3匹と聞く)を越す働き場合、donneur(義理の兄)は手持ちの妹をさらに上げる。沢山豚を狩ればうれしいボーナスが貰える。Simo神話Warrau族ならず南米先住民の規則(文化)である。しかしSimoは自然児だった。
兄達は「残り妹二人を遣るにたる仕事をしている」決めたし、妹達もその気になっているから沐浴が好機「私たちぞっこんよ」水を掛けた。
Simoは義理の兄に狩の仕方を伝授していた。逃避でSimoのprestation豚肉も、彼らの狩も奮わなくなった。自然との同盟は破棄されて文化が肉を失った。
破棄の原因が約束破りである。Mabaとの約束は言葉の禁忌(本名を言ってはならぬ)、Simoとの約束は物に関わる実質の禁忌、水掛がダメだった。
以上が基礎知識、さて写真の表を解読する。
Maba神話の第1変奏曲は235。主題が蜜の精(女)から蜜蜂オスに変化した。出会いは自然から、企て(娘と一緒になりたい)が潜んだから+、約束破りは実体(水)で+、失いは同盟関係と肉なので+、最後4)の継続か断絶とは、自然と文化の融和は継続せず、もうかつての黄金時代age d’or(ふんだんに肉が食えた)は戻らない、故に-。
どの様な状況で出会っても、たとえ融和があったとしても、自然と文化は同盟(allience)を維持できない。必ず断絶に陥る。4)の項のすべてが-の意味です。
次回で237と238を解説します。
神話「蜜から灰へ」を構造主義で分析する 5 の了
(次回投稿は6月25日 予定)
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