(平成30年4月18日)
非熱帯の旅の続き。
彼の語り口に非難らしきは聞こえない。淡々と述べるその場の状況が耳に残る。伝えるその意図は明瞭に読める。一市民、大戦中の苦労を一つの逸話として記録したいがためです。
出版年は1955年、戦後10年たった。1940年から5年間の戦中の記憶が重い。出来事とは休戦armistice、実は敗戦(大文字で始まるArmisticeの方は次大戦の休戦、こちらは盛大な式典が繰り広げられる)。軍は戦わず兵士は除隊、無防備都市宣言パリの無血解城。屈辱の5年でした。今も誰も多くを語らない。
この体験を歴史の一断片に残すべく、レヴィストロースは己を語った。
(野生のスミレPenseeSauvageの9章=サルトル批判=文中に彼の歴史観が述べられる。逸話anecdotesを語るが歴史の一歩であると。その通りの記述です)
さて本文に綴られるフランス脱出は、文章のその意味通りに理解して「偶然に船に乗れた」運が良いうえ機会も揃ったを伺わせています。
しかしこれは表書き、実際はこうした経緯では無かった。
ネットからの情報を書き入れる。郵便貨物船paquebotのCapitane Paul Lemerle号は、「ナチス拘束のおそれあるユダヤ人救済」を目的に1940年8月から13ヶ月、アメリカ人VarianFryにチャーターされていた。自身ユダヤ系の出自でジャーナリストとして地位を確立していた彼は、ナチスのユダヤ迫害の風聞に接し、さらに亡命者から実際を聞くにつけ同胞への迫害に心を痛めた。マルセイユに乗り込み、米国の対独最後通牒まで(1941年12月)救済活動を広げた。
ネット・米国ホロコーストミュージアムの記載で1940~41年、複数の航海を敢行し2000人のユダヤ人亡命者を救助したとある。
写真:VarianFry, 米国ホロコーストミュージアムHPから
With that in mind, in August 1940, Fry, a Protestant and 32-year-old, went to Marseilles to begin a covert rescue operation that during his 13-month stay would result in the escape of more than 2,000 people, among them many artists and intellectuals, including Marc Chagall, Hannah Arendt, Max Ernst, Heinrich Mann, Marcel Duchamp, André Breton, Jacques Lipchitz and Alma Mahler, who crossed the Pyrenees carrying Gustav Mahler’s Symphony No. 10, her former husband’s final composition.(Varian Fry’s Bravery to Save Jews,ニューヨークタイムズネット版)
原文の英語の訳文は控えます、個人名だけたどってください。
救済した名前に我らがレヴィストロースは入っていないのが残念ですが、面々がすごい。シャガール、アーレント、エルンスト、マン、マーラー(未亡人、第十交響曲の総譜を持つ)…(ブルトンは前述)。その後の活躍をうかがい知るに、もし、脱出できずナチスに彼らが拘束されたら、戦後の文化の様相が変わったかもと感慨を抱く次第です。
写真:ハンナアーレント哲学者、救済センターに選ばれてLemerle丸で脱出した一人。
こちらのリストにはレヴィストロースの名が見えます。
Varian Fry a sauvés. André Breton, Jean Malaquais, Dina Vierny, Max Ernst, Benjamin Péret, Victor Serge, Marc Chagall, Jacques Lipschitz, le frère de Modigliani, Claude Levi-Strauss, Anna Seghers, le frère de Thomas Mann et son fils Golo, Alma Werfel, veuve de Gustav Malher dont la valise contenait quelques compositions dont la Neuvième Symphonie... Des milliers de personnes, des scientifiques, des poètes, des hommes remplis d’idéal, des anonymes... (フランスキュルチュールネット版より)
幾つかの疑問;
1 レヴィストロースは休戦(1940年6月)で除隊となってモンペリエに戻った。時同じくしてロックフェラー財団救済プログラムに選ばれ招請状を受け取った。当初はブラジルビザを取得してフランス脱出を試みたが、在ヴィシー大使の裏切りに遭い頓挫した(前回)。この時点で7月は過ぎていたと思う。8月にチャーター船(LeMerle丸)が最初の出航なので乗り込んだ。(前回の投稿は「これが最後の出航」とレヴィストロースは焦ったとしたが、投稿子の誤り、実際と反している)
2 第一回目でしかも特待乗船(キャビンでのベッド寝泊まり)。しかしこの待遇の背景を語らない。さらにはVarianFryセンターについても語らない。乗船に際してはFryに査問、あるいは面会を受けているはず(なぜなら彼のチャーター船だから)ロックフェラー救済センターから推薦があった故の第一回の乗船の筈だ。それらを一切語らない。
3 前回に触れたセントルイス号事件((乗客は1000人のユダヤ人、アメリカが亡命を拒否した)の乗船客はドイツ脱出をはかる一般市民。Fryが選んだ乗船客は芸術、学術、音楽でかくも豪華な顔ぶれ。改めてユダヤ人へのスクリーニング(選り分け)が徹底していたと感じる。
レヴィストロースに限らず救済された諸氏は(投稿子の知る限りですが)VarianFryセンターの援助について語っていない。救済する側とされる側に暗黙の合意があったのかも知れない。アメリカは亡命者を選ぶ、命を選んでいるのだと。前年に全米で議論を沸騰させたセントルイス号の寄港拒否の顛末では、亡命受け入れに反対していたのはユダヤ系のオピニオンリーダー達であった(書籍・ストロベリーデイズより)。拒否がトラウマになってVarianFryが動いたのか。
さらにアインシュタインにしてもハイフェッツにしても、己が第一番目に選ばれた「選良」とは一言も述べていない。ユダヤ救済のネットワークとは、かくも迅速に冷酷に働くかと思い直した。
悲しき熱帯(レヴィ・ストロース著)の真実 2 了
非熱帯の旅の続き。
彼の語り口に非難らしきは聞こえない。淡々と述べるその場の状況が耳に残る。伝えるその意図は明瞭に読める。一市民、大戦中の苦労を一つの逸話として記録したいがためです。
出版年は1955年、戦後10年たった。1940年から5年間の戦中の記憶が重い。出来事とは休戦armistice、実は敗戦(大文字で始まるArmisticeの方は次大戦の休戦、こちらは盛大な式典が繰り広げられる)。軍は戦わず兵士は除隊、無防備都市宣言パリの無血解城。屈辱の5年でした。今も誰も多くを語らない。
この体験を歴史の一断片に残すべく、レヴィストロースは己を語った。
(野生のスミレPenseeSauvageの9章=サルトル批判=文中に彼の歴史観が述べられる。逸話anecdotesを語るが歴史の一歩であると。その通りの記述です)
さて本文に綴られるフランス脱出は、文章のその意味通りに理解して「偶然に船に乗れた」運が良いうえ機会も揃ったを伺わせています。
しかしこれは表書き、実際はこうした経緯では無かった。
ネットからの情報を書き入れる。郵便貨物船paquebotのCapitane Paul Lemerle号は、「ナチス拘束のおそれあるユダヤ人救済」を目的に1940年8月から13ヶ月、アメリカ人VarianFryにチャーターされていた。自身ユダヤ系の出自でジャーナリストとして地位を確立していた彼は、ナチスのユダヤ迫害の風聞に接し、さらに亡命者から実際を聞くにつけ同胞への迫害に心を痛めた。マルセイユに乗り込み、米国の対独最後通牒まで(1941年12月)救済活動を広げた。
ネット・米国ホロコーストミュージアムの記載で1940~41年、複数の航海を敢行し2000人のユダヤ人亡命者を救助したとある。
写真:VarianFry, 米国ホロコーストミュージアムHPから
With that in mind, in August 1940, Fry, a Protestant and 32-year-old, went to Marseilles to begin a covert rescue operation that during his 13-month stay would result in the escape of more than 2,000 people, among them many artists and intellectuals, including Marc Chagall, Hannah Arendt, Max Ernst, Heinrich Mann, Marcel Duchamp, André Breton, Jacques Lipchitz and Alma Mahler, who crossed the Pyrenees carrying Gustav Mahler’s Symphony No. 10, her former husband’s final composition.(Varian Fry’s Bravery to Save Jews,ニューヨークタイムズネット版)
原文の英語の訳文は控えます、個人名だけたどってください。
救済した名前に我らがレヴィストロースは入っていないのが残念ですが、面々がすごい。シャガール、アーレント、エルンスト、マン、マーラー(未亡人、第十交響曲の総譜を持つ)…(ブルトンは前述)。その後の活躍をうかがい知るに、もし、脱出できずナチスに彼らが拘束されたら、戦後の文化の様相が変わったかもと感慨を抱く次第です。
写真:ハンナアーレント哲学者、救済センターに選ばれてLemerle丸で脱出した一人。
こちらのリストにはレヴィストロースの名が見えます。
Varian Fry a sauvés. André Breton, Jean Malaquais, Dina Vierny, Max Ernst, Benjamin Péret, Victor Serge, Marc Chagall, Jacques Lipschitz, le frère de Modigliani, Claude Levi-Strauss, Anna Seghers, le frère de Thomas Mann et son fils Golo, Alma Werfel, veuve de Gustav Malher dont la valise contenait quelques compositions dont la Neuvième Symphonie... Des milliers de personnes, des scientifiques, des poètes, des hommes remplis d’idéal, des anonymes... (フランスキュルチュールネット版より)
幾つかの疑問;
1 レヴィストロースは休戦(1940年6月)で除隊となってモンペリエに戻った。時同じくしてロックフェラー財団救済プログラムに選ばれ招請状を受け取った。当初はブラジルビザを取得してフランス脱出を試みたが、在ヴィシー大使の裏切りに遭い頓挫した(前回)。この時点で7月は過ぎていたと思う。8月にチャーター船(LeMerle丸)が最初の出航なので乗り込んだ。(前回の投稿は「これが最後の出航」とレヴィストロースは焦ったとしたが、投稿子の誤り、実際と反している)
2 第一回目でしかも特待乗船(キャビンでのベッド寝泊まり)。しかしこの待遇の背景を語らない。さらにはVarianFryセンターについても語らない。乗船に際してはFryに査問、あるいは面会を受けているはず(なぜなら彼のチャーター船だから)ロックフェラー救済センターから推薦があった故の第一回の乗船の筈だ。それらを一切語らない。
3 前回に触れたセントルイス号事件((乗客は1000人のユダヤ人、アメリカが亡命を拒否した)の乗船客はドイツ脱出をはかる一般市民。Fryが選んだ乗船客は芸術、学術、音楽でかくも豪華な顔ぶれ。改めてユダヤ人へのスクリーニング(選り分け)が徹底していたと感じる。
レヴィストロースに限らず救済された諸氏は(投稿子の知る限りですが)VarianFryセンターの援助について語っていない。救済する側とされる側に暗黙の合意があったのかも知れない。アメリカは亡命者を選ぶ、命を選んでいるのだと。前年に全米で議論を沸騰させたセントルイス号の寄港拒否の顛末では、亡命受け入れに反対していたのはユダヤ系のオピニオンリーダー達であった(書籍・ストロベリーデイズより)。拒否がトラウマになってVarianFryが動いたのか。
さらにアインシュタインにしてもハイフェッツにしても、己が第一番目に選ばれた「選良」とは一言も述べていない。ユダヤ救済のネットワークとは、かくも迅速に冷酷に働くかと思い直した。
悲しき熱帯(レヴィ・ストロース著)の真実 2 了