(2019年11月7日)
M1神話(神話学全4巻の基準)は以前の投稿「生と料理」で取り上げた。
あらすじ;
少年バイトゴゴは森に入った母を追って、母を姦する。母は息子の印(腰ひもに飾る羽)を取って、己の紐に「みよがし」に飾る。夫はその羽模様を訝しみ、少年らを集めダンス特訓を開く(通過儀礼の過程)。突き止めた結果を信じられず再度集める。やはり同じ結果、妻を犯した少年は実の息子と知った。=中途はいろいろあって略=バイトゴゴは蘇って村に戻り、牡鹿に変身して父を川に突き落とす。父はピラニアに喰い殺された。実の母を含む複数の妻も一人残らず殺戮する。洪水が村を襲って、彼と祖母はジャガーからくすねた火を守って生き残る。
M1では近親姦は上下婚(おやこたわけ)で一度のみ。罪と罰に分解すると;
罪:感情と行為を連続させる「未文化」思考が罪。
姦淫したいと蠢く情を、それは禁忌だ、人倫を乱すと自制などはたらかせず、直に行動に移す。罪はバイトゴゴ(神話主人公の名)個人行動にあるのではなく、統制のない人間社会にやどる。
罰:そのような社会を是認していた父、母全員の殲滅。バイトゴゴは一旦死んでしるから、罪はチャラになっている。罰明けでバイトゴゴと祖母は新たな「文化」社会を創り始める。
(「生と料理」でレヴィストロースは「何故、罪を犯したバイトゴゴは復活しさしたる罰を受けず、罪をとがめた父が報われないのか」の問いかけを行中に挟んだ。この解にたどり着かなかったが、4巻目にして罪と罰のあり方を見直し、解を得た、と思う)
罪とは行為ではない、思想が罪である、これはキリストにも繋がる価値観であり、同時に構造主義としての森羅万象の解釈でもある。
M538(イシスの冒険、第4巻での基準神話)
あら筋は前回(11月5日)に紹介した。母親が末弟を床下に閉じこめる理由は「あまりにも美少年」であるから。長姉が婚家と夫をないがしろにして、足繁く実家に戻る狙いが末弟。その二人が戻る途中で野営するハメにおちた。この晩に起きた出来事には2の解釈が立つ。1は同衾のみ 2は交合、近親姦が起きたーのいずれか。レヴィストロースは(=)と括弧付きで表す。
直説法では何も語らないから、姦淫は無かったと思わしめるが言い回しにクセが見え隠れする。まず少年が目覚めると姉はcontre lui=彼に対峙=にいた。寝ている脇に滑り込んだのならa cote de luiとすればよい。対峙なら馬乗りとなる。少年は目覚めたが、この目覚めをse reveillerではなくs’eveillerとしている。後者は比喩としての「目覚め」例えば春の目覚め、性の目覚めなど使われるし、まず最初の事象であるとの意が強い。

図:レヴィストロースの解釈する近親姦の相関図、本書から再掲
さらに姉は、身代わりに置いた幹は弟とすっかり騙されて、昼まで寝込んでしまう。もし姦淫に至らなければ「まんじりともせず」眠るのであろうから生身と幹の区別は立ちどころだ。状況証拠では「あった」気配濃厚である。それが(=)の関係図である。
怒りの姉の放火で嫁が死に、母が嫁腹を割って子(男と女の双生児)を取りだした。その子達が夫婦となって暮らす。第2の近親姦の発生。以上が著者レヴィストロースの解釈です。
投稿子は姦淫の起と結を拡げて解釈します(回答を与えるのではない、質問しているのだとレヴィストロースは幾度か語るので、読者の解釈は踏み外しではない)。
まず、母(姉弟の)に禁忌破りがあった。理由はこの母のただならぬ警戒心。長姉が実家に帰る頻度から末弟への恋慕心を見抜いた。婚家に帰るお供に姉は末弟を指名したが、許した理由は「まだ日が高い、夕暮れ前にはたどり着く」。野営を前提の旅行きでは「きっと起こる」禁忌破りを危惧するから、許さなかった筈だ。

投稿子の解釈による近親姦の繰り返し(feuilleton化)の図部族民通信オリジナル
腹から取りだした双生児を一体化して、男子に影を見てはならないと戒めた理由は、分身したら近親姦が発生すると知るから。結局、二人は分身し愛し合い、子(英雄イシス)までもうける。
母(双生児からは祖母)は己が犯した禁忌破りを知るからに、子の代孫の代に渡る悪状を怖れていたのだ。最後の近親姦はイシス養父と嫁の姦淫。
これら行為の罪と罰を考えよう。近親の姦淫は結果としての「行為」なので罪にも罰にも比定されないを前提にする。
母(祖母)の罪は記述されない。
姉は弟と野営を設けるべく「太陽を脅して」運行を速めた、天体周期の規則を乱したが罪。その罰は水鳥に化け、首を狩り取られるが罰。双生児にまつわる罪は死んだ母から兄妹を引きずり出した祖母の罪(生まれない子は死んでいるとの信心;こうした信心が民族宗教誌として正しいのか、当方は証明できない)。祖母の戒めを破った兄、兄を問いつめた妹の罪。

M538における罪と罰(部族民通信オリジナル)
前回の投稿(神話から物語りへ)で同じ出来事を繰り返し語る「新聞の連載小説=feuilleton化」なる現象が「物語化」に見られるとレヴィストロースは教える。M1とM538を見比べれば、近親姦とそれにまつわる罪と罰の繰り返しが4例を数えられる。まさに伝播した実例であろう。改めて南北神話の分布図を示す。

(神話の分布図、再掲)
「裸の男HommeNu」を読む4 了
なお本ブログは前回(...読む3)とあわせて部族民通信ホームページWWW.tribesman.asiaに(HP版では2回目)として本日投稿されています。HPではPDFとリンクされているので理解しやすいかと。
(次回は11日、南北神話のグローバル野の試み)
M1神話(神話学全4巻の基準)は以前の投稿「生と料理」で取り上げた。
あらすじ;
少年バイトゴゴは森に入った母を追って、母を姦する。母は息子の印(腰ひもに飾る羽)を取って、己の紐に「みよがし」に飾る。夫はその羽模様を訝しみ、少年らを集めダンス特訓を開く(通過儀礼の過程)。突き止めた結果を信じられず再度集める。やはり同じ結果、妻を犯した少年は実の息子と知った。=中途はいろいろあって略=バイトゴゴは蘇って村に戻り、牡鹿に変身して父を川に突き落とす。父はピラニアに喰い殺された。実の母を含む複数の妻も一人残らず殺戮する。洪水が村を襲って、彼と祖母はジャガーからくすねた火を守って生き残る。
M1では近親姦は上下婚(おやこたわけ)で一度のみ。罪と罰に分解すると;
罪:感情と行為を連続させる「未文化」思考が罪。
姦淫したいと蠢く情を、それは禁忌だ、人倫を乱すと自制などはたらかせず、直に行動に移す。罪はバイトゴゴ(神話主人公の名)個人行動にあるのではなく、統制のない人間社会にやどる。
罰:そのような社会を是認していた父、母全員の殲滅。バイトゴゴは一旦死んでしるから、罪はチャラになっている。罰明けでバイトゴゴと祖母は新たな「文化」社会を創り始める。
(「生と料理」でレヴィストロースは「何故、罪を犯したバイトゴゴは復活しさしたる罰を受けず、罪をとがめた父が報われないのか」の問いかけを行中に挟んだ。この解にたどり着かなかったが、4巻目にして罪と罰のあり方を見直し、解を得た、と思う)
罪とは行為ではない、思想が罪である、これはキリストにも繋がる価値観であり、同時に構造主義としての森羅万象の解釈でもある。
M538(イシスの冒険、第4巻での基準神話)
あら筋は前回(11月5日)に紹介した。母親が末弟を床下に閉じこめる理由は「あまりにも美少年」であるから。長姉が婚家と夫をないがしろにして、足繁く実家に戻る狙いが末弟。その二人が戻る途中で野営するハメにおちた。この晩に起きた出来事には2の解釈が立つ。1は同衾のみ 2は交合、近親姦が起きたーのいずれか。レヴィストロースは(=)と括弧付きで表す。
直説法では何も語らないから、姦淫は無かったと思わしめるが言い回しにクセが見え隠れする。まず少年が目覚めると姉はcontre lui=彼に対峙=にいた。寝ている脇に滑り込んだのならa cote de luiとすればよい。対峙なら馬乗りとなる。少年は目覚めたが、この目覚めをse reveillerではなくs’eveillerとしている。後者は比喩としての「目覚め」例えば春の目覚め、性の目覚めなど使われるし、まず最初の事象であるとの意が強い。

図:レヴィストロースの解釈する近親姦の相関図、本書から再掲
さらに姉は、身代わりに置いた幹は弟とすっかり騙されて、昼まで寝込んでしまう。もし姦淫に至らなければ「まんじりともせず」眠るのであろうから生身と幹の区別は立ちどころだ。状況証拠では「あった」気配濃厚である。それが(=)の関係図である。
怒りの姉の放火で嫁が死に、母が嫁腹を割って子(男と女の双生児)を取りだした。その子達が夫婦となって暮らす。第2の近親姦の発生。以上が著者レヴィストロースの解釈です。
投稿子は姦淫の起と結を拡げて解釈します(回答を与えるのではない、質問しているのだとレヴィストロースは幾度か語るので、読者の解釈は踏み外しではない)。
まず、母(姉弟の)に禁忌破りがあった。理由はこの母のただならぬ警戒心。長姉が実家に帰る頻度から末弟への恋慕心を見抜いた。婚家に帰るお供に姉は末弟を指名したが、許した理由は「まだ日が高い、夕暮れ前にはたどり着く」。野営を前提の旅行きでは「きっと起こる」禁忌破りを危惧するから、許さなかった筈だ。

投稿子の解釈による近親姦の繰り返し(feuilleton化)の図部族民通信オリジナル
腹から取りだした双生児を一体化して、男子に影を見てはならないと戒めた理由は、分身したら近親姦が発生すると知るから。結局、二人は分身し愛し合い、子(英雄イシス)までもうける。
母(双生児からは祖母)は己が犯した禁忌破りを知るからに、子の代孫の代に渡る悪状を怖れていたのだ。最後の近親姦はイシス養父と嫁の姦淫。
これら行為の罪と罰を考えよう。近親の姦淫は結果としての「行為」なので罪にも罰にも比定されないを前提にする。
母(祖母)の罪は記述されない。
姉は弟と野営を設けるべく「太陽を脅して」運行を速めた、天体周期の規則を乱したが罪。その罰は水鳥に化け、首を狩り取られるが罰。双生児にまつわる罪は死んだ母から兄妹を引きずり出した祖母の罪(生まれない子は死んでいるとの信心;こうした信心が民族宗教誌として正しいのか、当方は証明できない)。祖母の戒めを破った兄、兄を問いつめた妹の罪。

M538における罪と罰(部族民通信オリジナル)
前回の投稿(神話から物語りへ)で同じ出来事を繰り返し語る「新聞の連載小説=feuilleton化」なる現象が「物語化」に見られるとレヴィストロースは教える。M1とM538を見比べれば、近親姦とそれにまつわる罪と罰の繰り返しが4例を数えられる。まさに伝播した実例であろう。改めて南北神話の分布図を示す。

(神話の分布図、再掲)
「裸の男HommeNu」を読む4 了
なお本ブログは前回(...読む3)とあわせて部族民通信ホームページWWW.tribesman.asiaに(HP版では2回目)として本日投稿されています。HPではPDFとリンクされているので理解しやすいかと。
(次回は11日、南北神話のグローバル野の試み)