(2019年11月25日)
デカルトが主唱した自由とは「無関心の自由」で、無関心とは選択する際に有利か不利か、役に立つか無益かなどの関心事から超越とした心構えで処すべきとの意味です。人はこのようにして神の心境に近づける。「考える」の手段を持って物事の本質を見抜く、コウして神の思考に肉薄できるとしたcogitoを精神作用に入れ替えた流れです。アンドレジッドは近世において自由とは何かを追求した。代表作「狭き門」では主人公アリサを通して、近代人が追求する自由の困難さを語りました。彼が20世紀において代表的カルテジアン(デカルト信奉者)とされる背景です。では日本では;日野市の老人Kがカツ丼自由(リベルタ)を実践した。しかし彼の自由はどうも無関心の自由ではなさそうだ。
このテーマで昨年ブログ(カツ丼の自由とアリサの勝手)を投稿した。本年5月に部族民通信ホームページ(WWW.tribesman.asia)開設に併せて上梓したが、リンクにバグが発見されたので、このたびHPを手直しした。同時にかなりの改編、加筆を施したので中身もHPらしく増大している。
以前にブラウザしてリンクに飛べなかった方には是非再来訪を乞います。
全体で50頁を越すので前文のみ本ブログに掲載する。HPでは前文,1,2,3と4部に分かれる。
ジッドとサルトル。拡大は下。
前文:カツ丼を食らいの自由を堪能したK氏が浮かれ気分。身勝手好き勝手を満喫したアリサとは皆様ご存じ文豪はアンドレ・ジッド、ノーベル賞作品「狭き門」(La porte etroite)の女主人公。二人ながら「自由」を求めてそれぞれの、喰い様と生き様を邁進したのだけれど、その起因を促す事由の諸々、というか自己表現の発露模様に取り付いた形式美学の混迷か、喰い地の貫きも世俗の愛のスッタモンダも結局は結実しなかった。
日野なるイナカの丘陵地、ムジナ除けなる犬と住む老人K氏とフランスはノルマンディの旧家のご令嬢、薄幸美女の可憐さと一途の献身を比べる宿命の、その糸口を小筆は探せないけれど、本邦21世紀は令和的島国の閉塞、彼の地19世紀のその末は文明の灯火か細き黄昏と、両の事情を比べてどこでも開けてしまうパスパルトゥーみたいな魔法の尺度はないけれど、比較の鍵に自由liberteを用いれば、生きと死にの比べの様が成立するのではないか。
するとこの前文とやらは、無責任すら裸足で逃げる ヤシンの一文だ。デカルトが説いた自由とはいわばcogitoの自由。ジッドはvertu行動の自由追求した。そして信仰と自由との狭間に近代奈落を見てしまった。K氏が落ち込んだカツ丼陥穽とは食と社会の葛藤の熱地獄だった。
この三題噺をまとめるは難しい。しかし 小筆ハカミには強い味方があったのだ。
サルトルとジッド、二人のノーベル文学賞受賞者。ただしサルトルは受賞を拒否した。既存権威からの格付けを拒んだのである。自由意志でノーベル賞を拒否した唯一の人間。彼も自由を追求した一人で、その流れはデカルトの自由に濫觴を得る。
多様な精神在りどころの位相差をレヴィストロース(Claude Levi-Strauss, 哲学者人類学者2009年没)が主唱した構造主義の手法を用いれば易々と、細部に至りチチンプイと解決してしまう。カツ丼を食らう心情のワケをアリサの純真に投影して、なおもついでに老人の内なる心のねじくれを純情オボコの潔癖ぶりと対比させ、21世紀はいかにして19世紀との離反に苦しむか。これを解明せんとするハカミ、コンシンの投稿。 (前文の了)
よろしく部族民通信HPにご来訪を。(左ブックマークから、ないし部族民通信でネット検索)
デカルトが主唱した自由とは「無関心の自由」で、無関心とは選択する際に有利か不利か、役に立つか無益かなどの関心事から超越とした心構えで処すべきとの意味です。人はこのようにして神の心境に近づける。「考える」の手段を持って物事の本質を見抜く、コウして神の思考に肉薄できるとしたcogitoを精神作用に入れ替えた流れです。アンドレジッドは近世において自由とは何かを追求した。代表作「狭き門」では主人公アリサを通して、近代人が追求する自由の困難さを語りました。彼が20世紀において代表的カルテジアン(デカルト信奉者)とされる背景です。では日本では;日野市の老人Kがカツ丼自由(リベルタ)を実践した。しかし彼の自由はどうも無関心の自由ではなさそうだ。
このテーマで昨年ブログ(カツ丼の自由とアリサの勝手)を投稿した。本年5月に部族民通信ホームページ(WWW.tribesman.asia)開設に併せて上梓したが、リンクにバグが発見されたので、このたびHPを手直しした。同時にかなりの改編、加筆を施したので中身もHPらしく増大している。
以前にブラウザしてリンクに飛べなかった方には是非再来訪を乞います。
全体で50頁を越すので前文のみ本ブログに掲載する。HPでは前文,1,2,3と4部に分かれる。
ジッドとサルトル。拡大は下。
前文:カツ丼を食らいの自由を堪能したK氏が浮かれ気分。身勝手好き勝手を満喫したアリサとは皆様ご存じ文豪はアンドレ・ジッド、ノーベル賞作品「狭き門」(La porte etroite)の女主人公。二人ながら「自由」を求めてそれぞれの、喰い様と生き様を邁進したのだけれど、その起因を促す事由の諸々、というか自己表現の発露模様に取り付いた形式美学の混迷か、喰い地の貫きも世俗の愛のスッタモンダも結局は結実しなかった。
日野なるイナカの丘陵地、ムジナ除けなる犬と住む老人K氏とフランスはノルマンディの旧家のご令嬢、薄幸美女の可憐さと一途の献身を比べる宿命の、その糸口を小筆は探せないけれど、本邦21世紀は令和的島国の閉塞、彼の地19世紀のその末は文明の灯火か細き黄昏と、両の事情を比べてどこでも開けてしまうパスパルトゥーみたいな魔法の尺度はないけれど、比較の鍵に自由liberteを用いれば、生きと死にの比べの様が成立するのではないか。
するとこの前文とやらは、無責任すら裸足で逃げる ヤシンの一文だ。デカルトが説いた自由とはいわばcogitoの自由。ジッドはvertu行動の自由追求した。そして信仰と自由との狭間に近代奈落を見てしまった。K氏が落ち込んだカツ丼陥穽とは食と社会の葛藤の熱地獄だった。
この三題噺をまとめるは難しい。しかし 小筆ハカミには強い味方があったのだ。
サルトルとジッド、二人のノーベル文学賞受賞者。ただしサルトルは受賞を拒否した。既存権威からの格付けを拒んだのである。自由意志でノーベル賞を拒否した唯一の人間。彼も自由を追求した一人で、その流れはデカルトの自由に濫觴を得る。
多様な精神在りどころの位相差をレヴィストロース(Claude Levi-Strauss, 哲学者人類学者2009年没)が主唱した構造主義の手法を用いれば易々と、細部に至りチチンプイと解決してしまう。カツ丼を食らう心情のワケをアリサの純真に投影して、なおもついでに老人の内なる心のねじくれを純情オボコの潔癖ぶりと対比させ、21世紀はいかにして19世紀との離反に苦しむか。これを解明せんとするハカミ、コンシンの投稿。 (前文の了)
よろしく部族民通信HPにご来訪を。(左ブックマークから、ないし部族民通信でネット検索)