(2022年3月23日)参加者Mannoniの質問に対するラカンの講釈;
<Toute une tradition humaine, qui s’appelle la philosophie de la nature, s’est employée à cette sorte de lecture . Nous savons ce que ça donne. Cela ne va jamais très loin>(48頁)人社会の伝統なのか、それを自然の哲学と名付けるが、この手の講義(cette sorte de lecture)には引き出されるものだが、それがどのような効能を及ぼすかに我々は知る。決して多くに影響を与える流れなど形成しない。(セミナー参加者M.Mannoni、精神分析医、1923ベルギー~89年パリ)
Mannoni 質問はこの文脈では触れていない。推察するしかない。試みるに引用文には不明箇所が残る。不明は1この手の講義とは何か 2自然の科学とはー2点
本書表紙裏の頁
1については前文<Il y a un réel, un donné. Ce donné est structuré d’une certaine façon>を解いてから推測しよう。一つの現実、一つの実態は在る。実態は何がしかの様態で構造化されている。こうした思想が盛り込まれている、あるいはそれを解説する講義と目星をつけた。Mannoniがそれを引き合いに出したと読む。すると2の自然の科学との関連に理解が至る。哲学で「自然」をして現実、実態の一の集合として捉える。集合体が抱える様々な要素は因果に結ばれるを旨とする。神の意思がそこに具現されると耶蘇教条をあからさまにする場合もあるとか。
これを「自然哲学」とする。1と2の不明点が連結した。
すると上引用文は以下にくだけて訳される;
<Mannoni君、君が引用した講座は自然哲学を語ったもので、森羅は一つの構造を有する集合体で、構成要素はそれぞれに因果律(causalité)が、いわば機械的に、応用されるとする。それだけの哲学、発展性など持たないのだよ>
ちなみに別文節でラカンは「ゲシュタルト心理学」を否定的に解説している。自然哲学との繋がりに思い当たるが妄想に近いので、ゲシュタルトとラカンの論評は別にする。
Maud Mannoni セミナー参加時点では32歳、少壮の分析医であった。写真はネットから。
一元論、因果律を否定した。これがレヴィストロースに繋がる;
<La seconde chose est de savoir si c’est ce point que visait Lévi-Strauss quand il nous a dit hier soir qu’en fin de compte il était là, au bord de la nature, saisi d’un vertige, à se demander si ce n’était pas en elle qu’il fallait retrouver les racines de son arbre symbolique>(同) その次だが。レヴィストロースは結局、昨夕ここにやって来て語ったのだが、(その言葉を理解するに)彼が視野に置いたのこの事ではないか。自然に身を委ね、目眩すら覚えたあの刹那に、己の象徴の樹(ラカン独自の言い方、思考と言い換える)の根っこを「自然」の中に求めるべきでないと。
この「自然」とは自然哲学、それを社会科学に応用すれば「経験主義」「機能主義」の科学となる。すなわちとある事象を取り出して、別の言葉で置き換える実利の思想となる。その単一性に依らず、二元論に向かうレヴィストロースを決心させたのが「vertige、目眩」。
そして部族民にはこの情景にとある書の読み覚えを感じてしまう。Tristes tropiques悲しき熱帯12章Bons Sauvages(良き野生人)の章頭、ボロロ族の村落を探り当てた一文。
脇に逸れるが同書から<après des heures passées sur les pieds et les mains à me hisser le long des pentes, transformées en boue glissante ~ (中略)~ faim, soif et trouble mentale, certes : mais ce vertige d’origine organique est tout illuminé…>(悲しき熱帯249頁)足立ち手つきの這いずり数時間、滑る泥と化した急斜面をよじ登る。飢え、渇き、それにも増しての気落ち、しかしその時、目眩に襲われた。それは身体起因であるのだが、私は「光」に照らされたのだ。
理由はボロロ族村落をようやく発見、崖下に見下したから。這いつくばいが報われ、光lumièreに照らされた。光学現象にすぎない光ながら西洋語系で、天啓、啓蒙(ce qui rend clair, Le Robertから)の義をも帯びる。疲れ果てた崖淵のレヴィストロースが天啓を全身に浴び、目眩の彷徨のさなか自然哲学に決別した。その体験をラカンに語ったとラカンが、皆も聞いたよねのドヤ顔ノリで(小筆の主観)、報告した。
レヴィストロースはラカンを訪ねたのだ。日付はこのセミナー、1954年12月1日に開催されその昨夕なので11月30日火曜日となる(セミナー日付は章末に記載される)。
(同書の刊行は1955年、時系列は合わない。一方でレヴィストロースが同書を起稿した日付は1954年10月12日。ボロロ集落を発見した下りは同書の圧巻であるから(故に物覚え劣悪の部族民蕃神もvertige, lumièreは記憶していた)レヴィストロースとして、11月末には天啓の文脈は出来上がっていたと思える。とっておきの予告編としてこの挿話をラカンに伝えた。そう解釈すればvertigeとlumièreとの相乗のあり様から自然哲学、一元論、因果律を遠ざけた経緯に納得がいく。信ずる者は救われる、古の格言は大事と心しよう)
レヴィストロースはどこに行くのか。ラカン講釈に耳を傾けよう、
<Lévi-Strauss est en train de reculer devant la bipartition très tranchante qu’il fait entre la nature et le symbole, et dont il sent bien pourtant la valeur créative, car c’est une méthode qui permet de distinguer entre les registres, et du même coup entre les ordres de faits>レヴィストロースは事象を自然と象徴とで分断する2元論に今、取り組んでいる。その論法こそ高い価値を生み出すと自ら信じている。なぜならそれは事象(registres)と秩序(les ordres de faits)を分別しているから。
ラカンは事象と秩序の対峙、これこそレヴィストロースが諭すforme形体に対する思想idéeの対峙と同列と理解できる。対峙とは自然(nature)と象徴(symbole)とも言いかえている。レヴィストロース構造主義をラカンの言葉で解析したそのものです。
レヴィストロースの著作(1954年時点で学術論文を除き「親族の基本構造」のみ)に当てはめると自然とは「人は小集団バンド生活を維持し系統内での婚姻を禁止し族外婚を実践していた。旧石器時代」を指し、文化を獲得して後に「嫁、婿を交換する婚姻の制度」を設けた。ここで事象に退治する象徴(規則)を創生した。本章に見られる象徴化(symbolique)の意味はレヴィストロースにおける思想(idée)である。
ラカンはレヴィストロースの構造主義をかく正確に理解し、それが自然哲学、一元論を排除し、同時に神を葬ったと解析したのである。この後に衝撃の一文、
<il craint qu’après nous avons fait sortir Dieu par une porte, nous ne le fassions entrer par l’autre>彼(レヴィストロース)は我々が1の出入り口から追い出した神が、もう一方の口から入りこむを見逃しているのでないかと怖れている。
1954年11月30日のサントアンヌ病院、講義室で有神対無神の論者、構造主義の原点とラカンの確信、火花沸き上がる論交がレヴィストロースとの間に交わされた。
ラカンとレヴィストロースの接点 3 了(2022年3月23日)次回3月25日神が裏口の下を予定。
追:ちょっと文法。上の引用 « nous ne fassions »neは虚辞(explétif)、肯定を表現する。虚辞は段々と用いられなくなっているが、動詞craindreを受ける接続法では頻繁に用いられるーとの解説を文法書 « Le bon usage » で得た。ラカンの口説はその典型であろう。セミナー日付は1954年12月。70年近く以前の発言であるから現代フランス語explétif用法とは異なるか。
<Toute une tradition humaine, qui s’appelle la philosophie de la nature, s’est employée à cette sorte de lecture . Nous savons ce que ça donne. Cela ne va jamais très loin>(48頁)人社会の伝統なのか、それを自然の哲学と名付けるが、この手の講義(cette sorte de lecture)には引き出されるものだが、それがどのような効能を及ぼすかに我々は知る。決して多くに影響を与える流れなど形成しない。(セミナー参加者M.Mannoni、精神分析医、1923ベルギー~89年パリ)
Mannoni 質問はこの文脈では触れていない。推察するしかない。試みるに引用文には不明箇所が残る。不明は1この手の講義とは何か 2自然の科学とはー2点
本書表紙裏の頁
1については前文<Il y a un réel, un donné. Ce donné est structuré d’une certaine façon>を解いてから推測しよう。一つの現実、一つの実態は在る。実態は何がしかの様態で構造化されている。こうした思想が盛り込まれている、あるいはそれを解説する講義と目星をつけた。Mannoniがそれを引き合いに出したと読む。すると2の自然の科学との関連に理解が至る。哲学で「自然」をして現実、実態の一の集合として捉える。集合体が抱える様々な要素は因果に結ばれるを旨とする。神の意思がそこに具現されると耶蘇教条をあからさまにする場合もあるとか。
これを「自然哲学」とする。1と2の不明点が連結した。
すると上引用文は以下にくだけて訳される;
<Mannoni君、君が引用した講座は自然哲学を語ったもので、森羅は一つの構造を有する集合体で、構成要素はそれぞれに因果律(causalité)が、いわば機械的に、応用されるとする。それだけの哲学、発展性など持たないのだよ>
ちなみに別文節でラカンは「ゲシュタルト心理学」を否定的に解説している。自然哲学との繋がりに思い当たるが妄想に近いので、ゲシュタルトとラカンの論評は別にする。
Maud Mannoni セミナー参加時点では32歳、少壮の分析医であった。写真はネットから。
一元論、因果律を否定した。これがレヴィストロースに繋がる;
<La seconde chose est de savoir si c’est ce point que visait Lévi-Strauss quand il nous a dit hier soir qu’en fin de compte il était là, au bord de la nature, saisi d’un vertige, à se demander si ce n’était pas en elle qu’il fallait retrouver les racines de son arbre symbolique>(同) その次だが。レヴィストロースは結局、昨夕ここにやって来て語ったのだが、(その言葉を理解するに)彼が視野に置いたのこの事ではないか。自然に身を委ね、目眩すら覚えたあの刹那に、己の象徴の樹(ラカン独自の言い方、思考と言い換える)の根っこを「自然」の中に求めるべきでないと。
この「自然」とは自然哲学、それを社会科学に応用すれば「経験主義」「機能主義」の科学となる。すなわちとある事象を取り出して、別の言葉で置き換える実利の思想となる。その単一性に依らず、二元論に向かうレヴィストロースを決心させたのが「vertige、目眩」。
そして部族民にはこの情景にとある書の読み覚えを感じてしまう。Tristes tropiques悲しき熱帯12章Bons Sauvages(良き野生人)の章頭、ボロロ族の村落を探り当てた一文。
脇に逸れるが同書から<après des heures passées sur les pieds et les mains à me hisser le long des pentes, transformées en boue glissante ~ (中略)~ faim, soif et trouble mentale, certes : mais ce vertige d’origine organique est tout illuminé…>(悲しき熱帯249頁)足立ち手つきの這いずり数時間、滑る泥と化した急斜面をよじ登る。飢え、渇き、それにも増しての気落ち、しかしその時、目眩に襲われた。それは身体起因であるのだが、私は「光」に照らされたのだ。
理由はボロロ族村落をようやく発見、崖下に見下したから。這いつくばいが報われ、光lumièreに照らされた。光学現象にすぎない光ながら西洋語系で、天啓、啓蒙(ce qui rend clair, Le Robertから)の義をも帯びる。疲れ果てた崖淵のレヴィストロースが天啓を全身に浴び、目眩の彷徨のさなか自然哲学に決別した。その体験をラカンに語ったとラカンが、皆も聞いたよねのドヤ顔ノリで(小筆の主観)、報告した。
レヴィストロースはラカンを訪ねたのだ。日付はこのセミナー、1954年12月1日に開催されその昨夕なので11月30日火曜日となる(セミナー日付は章末に記載される)。
(同書の刊行は1955年、時系列は合わない。一方でレヴィストロースが同書を起稿した日付は1954年10月12日。ボロロ集落を発見した下りは同書の圧巻であるから(故に物覚え劣悪の部族民蕃神もvertige, lumièreは記憶していた)レヴィストロースとして、11月末には天啓の文脈は出来上がっていたと思える。とっておきの予告編としてこの挿話をラカンに伝えた。そう解釈すればvertigeとlumièreとの相乗のあり様から自然哲学、一元論、因果律を遠ざけた経緯に納得がいく。信ずる者は救われる、古の格言は大事と心しよう)
レヴィストロースはどこに行くのか。ラカン講釈に耳を傾けよう、
<Lévi-Strauss est en train de reculer devant la bipartition très tranchante qu’il fait entre la nature et le symbole, et dont il sent bien pourtant la valeur créative, car c’est une méthode qui permet de distinguer entre les registres, et du même coup entre les ordres de faits>レヴィストロースは事象を自然と象徴とで分断する2元論に今、取り組んでいる。その論法こそ高い価値を生み出すと自ら信じている。なぜならそれは事象(registres)と秩序(les ordres de faits)を分別しているから。
ラカンは事象と秩序の対峙、これこそレヴィストロースが諭すforme形体に対する思想idéeの対峙と同列と理解できる。対峙とは自然(nature)と象徴(symbole)とも言いかえている。レヴィストロース構造主義をラカンの言葉で解析したそのものです。
レヴィストロースの著作(1954年時点で学術論文を除き「親族の基本構造」のみ)に当てはめると自然とは「人は小集団バンド生活を維持し系統内での婚姻を禁止し族外婚を実践していた。旧石器時代」を指し、文化を獲得して後に「嫁、婿を交換する婚姻の制度」を設けた。ここで事象に退治する象徴(規則)を創生した。本章に見られる象徴化(symbolique)の意味はレヴィストロースにおける思想(idée)である。
ラカンはレヴィストロースの構造主義をかく正確に理解し、それが自然哲学、一元論を排除し、同時に神を葬ったと解析したのである。この後に衝撃の一文、
<il craint qu’après nous avons fait sortir Dieu par une porte, nous ne le fassions entrer par l’autre>彼(レヴィストロース)は我々が1の出入り口から追い出した神が、もう一方の口から入りこむを見逃しているのでないかと怖れている。
1954年11月30日のサントアンヌ病院、講義室で有神対無神の論者、構造主義の原点とラカンの確信、火花沸き上がる論交がレヴィストロースとの間に交わされた。
ラカンとレヴィストロースの接点 3 了(2022年3月23日)次回3月25日神が裏口の下を予定。
追:ちょっと文法。上の引用 « nous ne fassions »neは虚辞(explétif)、肯定を表現する。虚辞は段々と用いられなくなっているが、動詞craindreを受ける接続法では頻繁に用いられるーとの解説を文法書 « Le bon usage » で得た。ラカンの口説はその典型であろう。セミナー日付は1954年12月。70年近く以前の発言であるから現代フランス語explétif用法とは異なるか。