蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

ラカンとレヴィストロースの接点2 嬰児殺しで社会に、ご褒美

2022年03月21日 | 小説
(2022年3月21 日)前回投稿(18日)で本章(セミナー第二巻、第3章)での驚き3論法を挙げた。その1、女児嬰児殺し(infanticide)の風習(かつてのネパール、チベットなど)から社会が受取る代償(compensationの原義はご褒美)を採り上げます。


本章l'univers symboliquesの章題ページ。Dialogues sur Lévi-Straussが読める


文頭<Comment pouvez-vous attacher tellement d’importance au fait que Lévi-Strauss fasse intervenir dans son langage des mots comme compensation> (本書40頁=前出)レヴィストロースがcompensation代償なる語を自身の文脈に潜り込ませている事実を、どれほどに重要かを説明できるだろうか。
このラカン注釈はセミナー参加者Anzieuからの報告<il s’agit des tribus thibétaines ou népalaises, où on se met à tuer les petites filles, ce qui fait qu’il y a plus d’hommes que de femmes> チベット、ネパールのいくつかの部族では女児殺しが実践されている。結果、これら部族の人口は男が多く女が少ない。これをしてcompensation代償なる語を用いるは理解し難いに返答するものであった。(Didier Anzieu、精神分析医、ディディエアンジューはフランスの著名な精神分析医でした。1923~1999年パリWikipédiaから)

Didier Anzieu、写真はネットから。しかめっ面は地顔かもしれない、他の写真すべては落ち着いた風情を見せています。

この文を読んでまず初めの理解は「嬰児殺しが起因となって社会には<支払う代償>が科せられる」だった。支払う代償は人口の男女偏位、個の悪行が社会に転嫁して代償compensationとなった、その不道理を文列に読み取ったのだが。これが大違い、社会は「ご褒美」を受けている。誤読、勘違いの理由はcompensation意義の取り違えで、根源には私、蕃神が日本人であるから。「悪習には罰が課される」仏教が教える懲悪の摂理が土着脳に無条件反射を引き起こさせて勘違い解釈に至った。
そもそもこの解釈では次節の<Nous ne pouvons pas ne pas accorder à Lévi-Strauss que les éléments numériques interviennent dans la constitution d’une collectivité >(同)レヴィストロースの主張「集合体における数値要素が社会を規定する」これを認めざるを得ないーこの文意と整合しない。

引用は二重否定、言い回しは理解がいささか難しい。以下に上引用文を意訳解釈する;
拙訳:社会が成立するためには数のバランス(élémentsの意訳)が不可欠で、人口比をそれに当てると男女1対1が通常。しかし対等均衡を崩しても、その社会に最適化するバランスはあるのだとレヴィストロースが言うのだが、それは正しいと認めざるを得ない。とラカンがAnzieuに諭した。

前引用文の勝手解釈(支払う代償)と上文の意味(最適化される)は文脈として整合しない。勝手解釈が誤りと気付くも、どこでマズッた?

辞書ではcompensationに<Avantage qui compense un désavantage>不利益を保障(補填)する利益。例文<Compensation reçue pour des dommages>損害に対してもたらされた代償とある(Petit Robert)。CompensationをAnzieuにしてもラカンにしても勿論、それを受け取る報酬として理解する。
すなわち嬰児殺しを実行すると社会が利益、保障を受取る。レヴィストロースはその仕組みをしてcompensationと説明した。Anzieuはその語義を知っての上で、社会が利益を受ける構図は理解しにくいとラカンに説明を求めた。これが引用文の流れです。
社会が享受する利益とは;
<Vous voyez le sens que le mot de compensation peut avoir dans ce cas-là ― s’il y a moins de femmes, il y aura forcément plus d’hommes>(41頁)。代償なる語の、この文脈での用い方でのその真の意味に気付くと思う。もし女が数少なければ、男がより多い(社会への褒美)となる。
男女比の不均衡こそ社会が受取るご褒美なのだ。
ネパール山間地域は地の生産性が低く行商、季節労働などインドへの出稼ぎで生計を維持してきた。兄弟が3人揃えば協力して一の家計を賄う、一人は家屋、田畑を守り、二人は出稼ぎに。これを周回させながらの生活形体を保つ。しかし主婦は一人。一妻多夫(polyandrie)婚姻が実践されている(いた)。生産性に寄与する男を多くすれば、女はより少なくなる。その数的不均衡が家族形態であり、les éléments numériques(数的要素、数値バランスの最適化)が社会のあり方(constitution)に伸延されてゆく。男女比不均衡はcompensationである(infanticideの風習は廃絶されていると思うが。いつまで継承されたかは不明)
生産性に寄与する男が多くなった、社会は報奨を得た。
Anzieu氏はこの年(1954年)31歳、少壮の精神分析医として活躍していたと推測する。人道を超える人智には思い至らなかったのか。ラカンにして人道なる感傷現象をすっかり排して乾燥しきるレヴィストロース論理を暴いた。これをして究極律(finalité)と規定するが、因果律を超えるからくりを見抜いた。
ラカンとレヴィストロースの接点 2  了(2022年3月21 日)



セミナーが開催されたSainte Anne病院。第一回目は1954年1月13日、ラカンその歳53歳、絶頂期でした。

次回予告:追い出したはずの神が裏口から忍び込んだ、神を怖れるレヴィストロース(2月23日予)。

追記:女児の嬰児殺しは手口を替えて東アジアで実践されている。中国で一人っ子政策が蔓延した時期(1960~2010年代)には、簡便な(手持ちできる)超音波診断装置が大いに普及した。助産師が出張して妊婦の腹に当て胎児性別を判断する。男子の徴候(睾丸)が見られなければその場で堕胎する(以上は中国留学生からの部族民の又聞き、一次資料はない)。なぜこの話を持ち出したか、こうした社会事象は因果律(causalité)か究極律(finalite)かについてラカンとレヴィストロースが論じ、両者とも究極律(finalité)で一致している(本書)。中国社会では男系での世代再生産が社会強制(contraintes)として個人にのしかかる。ネパール山村の数値要素の最適化(これもcontraintes)との共通性から、究極律の傍証として提示した。インドにおいても、今もかくなる風習は実行されているとnetで見える。
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