(2023年6月27日)堕胎に対しては反対か賛成しか態度の決めようがない。部族民(蕃神)は神話、伝説に語られる「人はいかにして生まれるか」を絡め、堕胎の正反を論じたい。ネットニュースでアメリカにおいては堕胎の可否は連邦法ではなく、州法で定めるとの連邦最高裁判断が2020年6月に下された。すでに(2023年5月現在)13州が堕胎禁止法を定めた。日本には禁止する法は定められていない。医師個人の判断に委ねられており、多く医師は(生物学的)父親が子の母親ともに来院して合意を確かめられたら施行する(仄聞です)。なお部族民は「堕胎は罪」の立場を執ります、最終行に罪の有様を明確にしています。堕胎賛成の方も読んでください。
レヴィストロースの著になる「Anthropologie Structurale構造人類学」の第一章魔術と信仰 Magie et Religionは次の文節から始まる。« Ce principe est bien illustré par notre interprétation du mythe d’Œdipe qui peut s’appuyer sur la formation freudienne, et lui est certainement applicable. Le problème posé par Freud en termes « œdipiens » n’est sans doute plus celui d’alternative entre autochtonie et reproduction bisexuée » (240頁)これを基本とすると我々のエディプス神話解釈(人の生まれは砂の芥か女の股か=部族民注)はフロイトの説明と重なり合うし、きっと基本的に応用可能であろう。さらにはフロイトが提唱した「エディプスコンプレックス」とは人は砂から生まれる(=autochtonie)か両性結合の再生産かの問いかけでしかない。

エディプスに謎かけしたスフィンクスも大地生まれ。地上に出て世の人を悩ます。

人の「砂、大地生まれ」を同書では « l’autochtonie de l’homme » と記す。直訳すると人の「先住民性」となるが、これをして « les hommes puissent naître de la terre » 人(男)は大地に生まれる(同書237頁)が実体と言う。 エディプス神話には大地生まれの思想が色濃く反映されている。テーバイ歴代の王はビッコ、不様歩きなど、生まれの由来は地の下であると仄めかしている。更に « En mythologie, il est fréquent que les hommes, nés de la Terre soient représentés marchant avec gaucherie » (ギリシャに限らず)神話において男は不器用に歩くと描写されるなど大地に生まれが度々語られる(238頁)。大地生まれはレヴィストロースの独創ではなく、遠くホメロス時代(ソフォクレスより500年?以上前)から信心されていた。238頁脚注はかなりの長文でそれを検証している(ギリシャ神話学Delcourt夫人の作品「Œdipe ou la légende du conquérant」の紹介 « Dans les légendes archaïques, ils naissaient certainement de la Terre » 古代伝説の全てで彼らは大地から生まれている。
太古の信心がフロイトの「エディプスコンプレックス」(父は不要、母と関係したい)と同期する。そしてレヴィストロースの提題は « Nait-on d’un seul, ou bien de deux ? ― et le problème dérivé qu’on peut approximativement formuler : le même naît-il du même, ou de l’autre ? » (239頁)人は一人から生まれるのか二人が必要なのか、この問題はすなわち人は自身から生まれるのか他人からか?に派生していく。これをして信心とするが、それはある意味で歴史における思想の変遷といえる。流れの様を分析すると ;
1 二人から生まれるは両性の結合で女の子宮に胚が生じて、成長して生まれる。生物学からの説明。
2 一人で生まれるとは男(父)の介入は要らないとする思想です。男は一人で母の子宮に籠もり生育して誕生する。父の精は「きっかけ」。
3 男は一人で生まれるとすれば生まれる前から、そもそもの個体性は存在している。男は他者(父親)の精など受け継がず、己から生まれる。
1は誰もが知る現実で、おそらく多くの人が(この生物学的仕掛け)を信じている。この肉体的現実のみを語る人々が堕胎賛成派と部族民は考えています。2はフロイト説の根底です。3はレヴィストロースが同書構造人類学で展開した論です。では「人は己から生まれ」は彼の独創でしょうか。部族民はユダヤ教の思想が入っていると考える者です。
神の子の言い伝えは旧約聖書に2例の記述があります。処女マリアが懐妊する受胎告知、こちらは有名で皆様もその情景を知っているかと。もう一例が洗礼者ヨハネの誕生。聖書記述では(新約聖書ルカ伝から引用) ;
ユダヤの王ヘロデの世に祭司で名をザカリヤという者がいた。妻はアロン家の娘のひとりで名をエリサベトという(二人とも老齢との注釈が前段にあるうえ、二人の間に子はない、エリザベトは不妊)
祭壇で祈るザカリヤの前に、主の御使が現れて香壇の右に立った。ザカリヤは恐怖の念に襲われた。御使が彼に言うに「エリサベトは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい」ザカリヤは御使に答えた「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」(引用は全日本キリスト教普及協会のHPから採取、一部変更)
ヨハネはキリストに先立つ6月、夏至に生まれた。2023年前の6月21日が誕生日に当たる。人はいつから人か 上の了
レヴィストロースの著になる「Anthropologie Structurale構造人類学」の第一章魔術と信仰 Magie et Religionは次の文節から始まる。« Ce principe est bien illustré par notre interprétation du mythe d’Œdipe qui peut s’appuyer sur la formation freudienne, et lui est certainement applicable. Le problème posé par Freud en termes « œdipiens » n’est sans doute plus celui d’alternative entre autochtonie et reproduction bisexuée » (240頁)これを基本とすると我々のエディプス神話解釈(人の生まれは砂の芥か女の股か=部族民注)はフロイトの説明と重なり合うし、きっと基本的に応用可能であろう。さらにはフロイトが提唱した「エディプスコンプレックス」とは人は砂から生まれる(=autochtonie)か両性結合の再生産かの問いかけでしかない。

エディプスに謎かけしたスフィンクスも大地生まれ。地上に出て世の人を悩ます。

人の「砂、大地生まれ」を同書では « l’autochtonie de l’homme » と記す。直訳すると人の「先住民性」となるが、これをして « les hommes puissent naître de la terre » 人(男)は大地に生まれる(同書237頁)が実体と言う。 エディプス神話には大地生まれの思想が色濃く反映されている。テーバイ歴代の王はビッコ、不様歩きなど、生まれの由来は地の下であると仄めかしている。更に « En mythologie, il est fréquent que les hommes, nés de la Terre soient représentés marchant avec gaucherie » (ギリシャに限らず)神話において男は不器用に歩くと描写されるなど大地に生まれが度々語られる(238頁)。大地生まれはレヴィストロースの独創ではなく、遠くホメロス時代(ソフォクレスより500年?以上前)から信心されていた。238頁脚注はかなりの長文でそれを検証している(ギリシャ神話学Delcourt夫人の作品「Œdipe ou la légende du conquérant」の紹介 « Dans les légendes archaïques, ils naissaient certainement de la Terre » 古代伝説の全てで彼らは大地から生まれている。
太古の信心がフロイトの「エディプスコンプレックス」(父は不要、母と関係したい)と同期する。そしてレヴィストロースの提題は « Nait-on d’un seul, ou bien de deux ? ― et le problème dérivé qu’on peut approximativement formuler : le même naît-il du même, ou de l’autre ? » (239頁)人は一人から生まれるのか二人が必要なのか、この問題はすなわち人は自身から生まれるのか他人からか?に派生していく。これをして信心とするが、それはある意味で歴史における思想の変遷といえる。流れの様を分析すると ;
1 二人から生まれるは両性の結合で女の子宮に胚が生じて、成長して生まれる。生物学からの説明。
2 一人で生まれるとは男(父)の介入は要らないとする思想です。男は一人で母の子宮に籠もり生育して誕生する。父の精は「きっかけ」。
3 男は一人で生まれるとすれば生まれる前から、そもそもの個体性は存在している。男は他者(父親)の精など受け継がず、己から生まれる。
1は誰もが知る現実で、おそらく多くの人が(この生物学的仕掛け)を信じている。この肉体的現実のみを語る人々が堕胎賛成派と部族民は考えています。2はフロイト説の根底です。3はレヴィストロースが同書構造人類学で展開した論です。では「人は己から生まれ」は彼の独創でしょうか。部族民はユダヤ教の思想が入っていると考える者です。
神の子の言い伝えは旧約聖書に2例の記述があります。処女マリアが懐妊する受胎告知、こちらは有名で皆様もその情景を知っているかと。もう一例が洗礼者ヨハネの誕生。聖書記述では(新約聖書ルカ伝から引用) ;
ユダヤの王ヘロデの世に祭司で名をザカリヤという者がいた。妻はアロン家の娘のひとりで名をエリサベトという(二人とも老齢との注釈が前段にあるうえ、二人の間に子はない、エリザベトは不妊)
祭壇で祈るザカリヤの前に、主の御使が現れて香壇の右に立った。ザカリヤは恐怖の念に襲われた。御使が彼に言うに「エリサベトは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい」ザカリヤは御使に答えた「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」(引用は全日本キリスト教普及協会のHPから採取、一部変更)
ヨハネはキリストに先立つ6月、夏至に生まれた。2023年前の6月21日が誕生日に当たる。人はいつから人か 上の了