(2020年2月19日投稿)
アニエスの行動を追うと、1450年2月初、
国王(シャルル7世)暗殺計画を知ったアニエスは、居城のロッシュ(Loches、Indres et Loire県、Toursの約47キロ南西とある)を出て、シャルルが滞在しているジュミエージェJumiege(Normandie、Seine Maritime県)に向かった。出立は2月早々、厳冬の旅程は厳しさを増すが、アニエスが雪解けを待てない事情は切迫さの増す仏英百年戦争の動静があったから。シャルルが同地に滞留していた目的はイングランド軍の集結地であるノルマンディを攻略するためである。冬期に戦闘は始まらないから春までの籠城、雪解けを待つ間の行軍準備であった。(シャルルはその後、50年秋までにノルマンディを平定し1453年百年戦争終結の足がかりを作った)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/75/a6/905177c2e1e2e07bb5f111200d6950d7_s.jpg)
アニエスソレルを愛妾にしたシャルル7世(フーケ画)
暗殺者は当然、春の行軍前に暗殺を実行するだろう、アニエスが今すぐに出立しなければ間に合わない。両処の距離はネット地図で目計算すると150キロ+となろうか。ほぼ10日をかけて、2月9日に Mesnil sous Jumiegeに辿り着いた。その名(Jumiegeの下の町Mesnil)通り、シャルルの居城に唇歯の距離。しかしここでコト切れた。
死体が語る歴史(シャルリエ著、河出書房新社刊)からアニエス死の状況を見ると、
「疲れ果てたアニエスは赤ん坊を産み落とすが、子はまもなく死んでしまった(名前が歴史に記されないとは洗礼を受けなかった。これが死産もしくは分娩後すぐに死んだとの根拠。性別も知られない=小筆注)。程なくして「腹下し」に見舞われたつまり肛門、あるいはヴァギナから物質が流れ出たのである。赤痢だったか、産褥熱だったか。毒を盛られたに違いないとの噂が流れた。死が近いと悟りアニエスは遺言執行者を指名した」
(同書14頁)
3人の有力者が執行者に指名された。その一人がエチエンヌ・シュバリエ、後に(1455年)アニエスと己の肖像画を2双一幅の祭壇絵としてフーケに依頼した人物である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/a6/905177c2e1e2e07bb5f111200d6950d7.jpg)
さて、話は現代。シャルリエはアニエスのミイラ化した死体を取り出し、分析し死因を特定した。それまでの経緯は;
遺体はJumiegeの館にアニエスを待つシャルルに届けられた。シャルルはアニエスの心臓を切り出すよう命じた、すなわちここで左胸がはだけたのである。遺体には王族、貴顕が受ける防腐術が施された。シャルリエはその手順を、記録に残るベリー公の埋葬から引用する。「心臓を取り出し、次に内臓を抜き取った。閣下のお体を空にした。内臓は直ちに墓地に埋葬された。腹腔には空豆に粉、オリバン、ミルラ、乳香…を詰めた」防腐と異臭防止の薬石がおおよそ20ほど語られる。アニエスもそれに劣らない処置、腹腔は空にされたと思える。
貴顕の遺骸に防腐処置する目的は展示である。ベリー公の場合はパリからブールジュまで6日間をかけている。先々で遺骸は公開された。
アニエスの遺骸はジュミエージェから、旅程は行きと同様9~10日をかけロシュに、戻った。ロシュ・ノートルダム教会の内陣に埋葬された(教会内陣には多く王族貴族の石棺が納められる。儀典を伴う葬儀を=encevelir=とし邦訳は埋葬とするが、この場合には地中に埋めるのではない。石棺は陣内に置かれる。ナポレオンの石棺もアンバリッドの陣内にある。小筆注)
宿泊の度に「展示」される。当時の風習だとされる。シャルリエは「頭のみ」もあるとするが、原則は全身を公開する。ギロチンで落とされたルイ16世の首を執行者が公衆に展示する図を見るが、辱めを目的としていない。王族貴顕の死は公開される習わしがあった。
アニエスの左胸ははだけたまま、(3人の娘に続き)4人目が産まれた証として死産の子を横に置いたミイラ姿が宿泊する先々で展示された。領主、騎士、多くの市民が目視したろうが、その一人にフーケがいた。
彼はシャルル7世の肖像画を残す宮廷付き絵師であるから、アニエスの遺体をより間近に、例えばシャルルが心臓を望んだから左胸が開かされた、あるいは腹腔を空にして防腐薬を詰め込んだ。乳はだけ、生きる人にはあり得ない細腰のアニエスを目にしていると推察する。そして脇にはアニエスの証でもある死産の子が置かれていた。 続く
アニエスの行動を追うと、1450年2月初、
国王(シャルル7世)暗殺計画を知ったアニエスは、居城のロッシュ(Loches、Indres et Loire県、Toursの約47キロ南西とある)を出て、シャルルが滞在しているジュミエージェJumiege(Normandie、Seine Maritime県)に向かった。出立は2月早々、厳冬の旅程は厳しさを増すが、アニエスが雪解けを待てない事情は切迫さの増す仏英百年戦争の動静があったから。シャルルが同地に滞留していた目的はイングランド軍の集結地であるノルマンディを攻略するためである。冬期に戦闘は始まらないから春までの籠城、雪解けを待つ間の行軍準備であった。(シャルルはその後、50年秋までにノルマンディを平定し1453年百年戦争終結の足がかりを作った)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/75/a6/905177c2e1e2e07bb5f111200d6950d7_s.jpg)
アニエスソレルを愛妾にしたシャルル7世(フーケ画)
暗殺者は当然、春の行軍前に暗殺を実行するだろう、アニエスが今すぐに出立しなければ間に合わない。両処の距離はネット地図で目計算すると150キロ+となろうか。ほぼ10日をかけて、2月9日に Mesnil sous Jumiegeに辿り着いた。その名(Jumiegeの下の町Mesnil)通り、シャルルの居城に唇歯の距離。しかしここでコト切れた。
死体が語る歴史(シャルリエ著、河出書房新社刊)からアニエス死の状況を見ると、
「疲れ果てたアニエスは赤ん坊を産み落とすが、子はまもなく死んでしまった(名前が歴史に記されないとは洗礼を受けなかった。これが死産もしくは分娩後すぐに死んだとの根拠。性別も知られない=小筆注)。程なくして「腹下し」に見舞われたつまり肛門、あるいはヴァギナから物質が流れ出たのである。赤痢だったか、産褥熱だったか。毒を盛られたに違いないとの噂が流れた。死が近いと悟りアニエスは遺言執行者を指名した」
(同書14頁)
3人の有力者が執行者に指名された。その一人がエチエンヌ・シュバリエ、後に(1455年)アニエスと己の肖像画を2双一幅の祭壇絵としてフーケに依頼した人物である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/a6/905177c2e1e2e07bb5f111200d6950d7.jpg)
さて、話は現代。シャルリエはアニエスのミイラ化した死体を取り出し、分析し死因を特定した。それまでの経緯は;
遺体はJumiegeの館にアニエスを待つシャルルに届けられた。シャルルはアニエスの心臓を切り出すよう命じた、すなわちここで左胸がはだけたのである。遺体には王族、貴顕が受ける防腐術が施された。シャルリエはその手順を、記録に残るベリー公の埋葬から引用する。「心臓を取り出し、次に内臓を抜き取った。閣下のお体を空にした。内臓は直ちに墓地に埋葬された。腹腔には空豆に粉、オリバン、ミルラ、乳香…を詰めた」防腐と異臭防止の薬石がおおよそ20ほど語られる。アニエスもそれに劣らない処置、腹腔は空にされたと思える。
貴顕の遺骸に防腐処置する目的は展示である。ベリー公の場合はパリからブールジュまで6日間をかけている。先々で遺骸は公開された。
アニエスの遺骸はジュミエージェから、旅程は行きと同様9~10日をかけロシュに、戻った。ロシュ・ノートルダム教会の内陣に埋葬された(教会内陣には多く王族貴族の石棺が納められる。儀典を伴う葬儀を=encevelir=とし邦訳は埋葬とするが、この場合には地中に埋めるのではない。石棺は陣内に置かれる。ナポレオンの石棺もアンバリッドの陣内にある。小筆注)
宿泊の度に「展示」される。当時の風習だとされる。シャルリエは「頭のみ」もあるとするが、原則は全身を公開する。ギロチンで落とされたルイ16世の首を執行者が公衆に展示する図を見るが、辱めを目的としていない。王族貴顕の死は公開される習わしがあった。
アニエスの左胸ははだけたまま、(3人の娘に続き)4人目が産まれた証として死産の子を横に置いたミイラ姿が宿泊する先々で展示された。領主、騎士、多くの市民が目視したろうが、その一人にフーケがいた。
彼はシャルル7世の肖像画を残す宮廷付き絵師であるから、アニエスの遺体をより間近に、例えばシャルルが心臓を望んだから左胸が開かされた、あるいは腹腔を空にして防腐薬を詰め込んだ。乳はだけ、生きる人にはあり得ない細腰のアニエスを目にしていると推察する。そして脇にはアニエスの証でもある死産の子が置かれていた。 続く
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