本文 Conscience 悟性の章 第一部 LA CERTITUDE SENSIBLE, LE CECI ET MA VISÉE DU CECI(感じる蓋然、あるいはこのモノ、そしてこのモノに向ける私の視界) の紹介
(2025年1月23日)上引用文(前回22日の最終行、感じる蓋然は見えるがままのモノ理解をもっぱらとする)で留意すべきは2点 ;
1 悟性がモノ世界を見る、モノは「豊かな認識」として映し出される。ここでの覚知作用は「即座immédiat」。対象を「存在そのものétant」として認識する。
2 上記1の結論は「モノは形状を持つ、それは永遠無限、非溶解。時空と自己の形状に」制限はかからない。
これがモノ世界を見つめるヒトに共通した精神です。しかし…
« En fait cependant, cette certitude se révèle expressément comme la plus abstraite et la plus pauvre vérité. De ce qu'elle sait elle exprime seulement ceci : il est ; et sa vérité contient seulement l'être de la chose. De son côté, dans cette certitude, la conscience est seulement comme pur moi, ou j'y suis seulement comme pur celui-ci, et l 'objet également comme pur ceci » (82頁).
しかしこの蓋然は最も曖昧(抽象的)にして、何にもましての貧しい真実を明らかにしてしまう。モノの身の内をただ単にそんなモノ(ceci)と表しているに過ぎない。そのモノは「存在する、真実はモノとしての存在のみ」と語っているだけとなる。こうした思考作用の悟性は「純粋な個」でしかない。あるいは個は純粋な「その者」かもしれぬ。向かい合う対象にしても純粋な「これ」でしかない(としか覚知していない)。
Hyppolite先生の遺影。本書を未だ読みかけですが、解釈にあたり先生の脚注には助けられている。そもそもヘーゲルは一人独行で読んでも解明できない。一つ二つの文言の「ゲーゲル的」意味付けを掴み難い。そこで頁下部に目を下ろすと、脚注が解説してくれている。
部族民:3の引用文で本章主題のすべてが出揃った。
1 「単にそんなモノ」とは時空に存在し、個(牾性)に即座に覚知されているにしか過ぎない。この即座はモノが時空の中で進行変遷する、この真理を掴めない。別の意味では「今、見えているモノ」には真理が備わらない。モノ変遷のカラクリ(弁証法)に悟性が気づいていない。
2 (行外に)モノ世界は弁証法に統治される(前回9月25日~の導入章の紹介投稿)。モノを永遠として氷結固定するモノ理解は蓋然certitudeに「貧しい真実」のみを反映させるだけである。
« Le Moi n'a pas la signification d'un représenter ou d'un penser des moments divers, et la chose n'a pas la signification d'une multitude de caractères distincts ; mais la chose est, et elle est seulement parce qu'elle est. Elle est ; c'est là pour le savoir sensible l'essentiel, et ce pur être ou cette simple immédiateté constitue la vérité de la chose. La certitude également, en tant que rapport, est un pur rapport immédiat. La conscience est moi, rien de plus, un pur celui-ci. Le singulier sait un pur ceci ou sait ce qui est singulier » (同)
私(大文字の私、悟性ではなくモノを見ている私)には、いろいろな時間軸、節目(moments)を思考し表現する意味合い(能力)はない。モノにしても種々性質の集成である身の内は見えない。モノはそこにただ存在するだけ。存在するからそこに在る。知にはそれは実質である。純粋な存在、あるいは純粋な即座がモノの真実を決めている(と早とちりする=訳者)。蓋然にしても(モノ世界との)交信は純粋「即座」に制御されている。悟性とは私、純粋(単純)な「この者」である。個別性は純粋(単純)なこのモノを理解するし、それが個別であると知る。
部族民:悟性は「純粋な即座性 cette simple immédiateté」を持ってモノを取り込む。モノが見えるがまま、真理としてしまう、Certitude蓋然の起点です。しかしここに誤りが宿る。最後の句 « Le singulier sait un pur ceci ou sait ce qui est singulier » 個別性は純粋なこのモノを理解…は「個別的悟性は純粋な個別のモノしか理解しない、なぜならCertitudeは即座理解をもっぱらとするから」と読みます。Purを純粋と訳したが、日本語の「前向き語感」はフランス語のpurには必ずしも含意されない。Immédiat即座の言い換えなので「単純」が正訳であろう。
« Mais dans ce pur être qui constitue l'essence de cette certitude, et qu'elle énonce comme sa vérité, il y a encore bien autre chose en jeu, si nous regardons bien. Une certitude sensible effectivement réelle n'est pas seulement cette pure immédiateté, mais est encore un exemple de celle-ci et de ce qu'il y a en jeu » (同)
しかしこの単純存在がこの蓋然の実質となっているし、この単純が己の真理と蓋然は強弁している。正しく観察すれば、組をなす別のモノがある。感じる蓋然(la certitude sensible)の実効的実際は、単純な即座判断のみではないと気づく。これ(単純な即座)の傍証(exemple) ながら、伴うとある組の存在に気づく。
(原文引用なし)このあとこの純粋存在に脇にある組が見えている。それは「その者」の個と存在の表象である対象。この差異(純粋存在に対峙して「個」と「対象」の組が居座ること)ーを省察すると、個も対象も即座immédiatementに蓋然に取り込まれてはいない。介在médiationを受けている (médiatisé) と理解に至る 。
« j'ai la certitude par la médiation d'un autre, la chose précisément, et celle-ci est aussi dans la certitude par la médiation d'un autre, précisément le moi » (同)他のあるモノの介在をもって個は蓋然を得る。それはモノである。これも蓋然のなかで別のモノの介在を受ける、いわばそれは個である。
部族民:悟性がモノ対象を見る、見えるそのものを概念化する、これをImmédiateté即座性とする。モノには介在が備わる、その介在の例「今は夜」を後述する。対象の即座性を受け入れてそれを概念化すると表象としての即座になる、しかし時(場)の変遷でこの単純真実は破れる。久遠の、永遠地平の真実はない=前述=につながる。
ヘーゲル精神現象学 仏語Hyppolite訳の紹介
本文 Conscience 悟性の章 第一部 感じる蓋然、あるいはこのモノ、そしてこのモノに向ける私の視界 了
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