これから正直、「辛い」記事が続きます。大和としての戦歴は、敢えて酔漢が語らずとも多くの記録、書物が残されておりますので、「よろしいか」と判断いたしました。
太平洋戦争開始時からこの昭和19年年末まで、祖父は横須賀鎮守府を拠点にしながら、海軍省に努めております。軍の中枢にいる通信暗号の特務でございましたから、戦況には「極めて冷静に、そして細部に至るまで知り尽くしていた」と推察いたしております。「一兵卒の兵曹長」として海軍省ではやはり古参兵として幅を利かせていたとも考えられます。
昭和17年頃。横須賀鎮守府正門前は、多くの少年達が長蛇の列を作っております。志願兵の採用の為です。地方より東京を出て横須賀へ。横須賀ですから、東北出身者も大勢いたことでしょう。
宮城県七ヶ浜村からも数名。その列に加わっておりました。
「なんだべ、こんなにいっぺい人いっと思わねかったっちゃ」
「んだ、だれ横須賀の海軍だべ。みんなして海軍さぁへぇっぺって思ってんだっちゃなや。んでもおらいもこんなに汽車さぁ乗ったなんて初めてだべ」
「ゆんべは寝られねかったっちゃ」
七ヶ浜から塩竈駅までバス。そして塩竈駅より東北本線で上野まで、そこから東京駅へ、横須賀線で横須賀。そこから約20分ばかり歩いての鎮守府入り口です。
長蛇の列の殆ど後ろの方でした。
「そういえば、酔漢のおんちゃんや、ここさぁいんだとや」
「んだ、親父が言ってたべ。んでもおんちゃんや。ここで何してんのかや?」
列は全く進む様子がございませんでした。
その時、一台の車が列を逆方向に進んできました(丁度坂道を下るように)。開いている窓から一人の兵が大声で叫んでおりました。
「宮城、七ヶ浜村からの志願兵。返事ぃ!挙手の上、姓名を名乗れ!」
「おめぇ、今の聞いたか?おらいの事でねぇべか?」
「んだっちゃ。はっきし『七ヶ浜村』って聞いたべ!」
「おめぇ、何したんだ!こんな所で呼ばれたなんて、悪ささぁ見つかったんでねぇかや?」
「おめぇ、何かしたか?」
「しゃねぇ!おめぇだべ!」
「そげなこと言ったって、しゃますねぇっちゃ!早ぐ手さぁあげっぺ!」
代表格の少年(酔漢祖父の甥にあたります)が大声で叫びました。
「宮城七ヶ浜出身者です」
黒塗りの車はその少年の前で止まります。
「何名だ」
「4人だっちゃ」
「馬鹿こくでねぇ、おめぇ今訛ってたっちゃここは『です』だべ」
「何を言っておるか。早く車に乗らんか」
「どこさぁ連れて行かれんだべ」
不安な気持ちと一緒に車に乗り込んだ彼ら達でした。長蛇の列を車は追い越していきます。
さて、横須賀鎮守府の門の手前。助手席の兵が車を先に降りました。
「貴様らは俺の後について来い!」
「いよいよ、あの悪ささぁ知れたんでねぇかや」
かれらは、長い廊下を渡ります。と、ある部屋の前。
「兵曹長殿。連れてまいりました。入ります」
兵が部屋のドアを開けました。
「おう、ご苦労だったなや。後は俺がやっから、あんだはけぇっていいど」
聞きなれた東北訛り。ですがここは横須賀です。
がっしりとした後姿が窓越しに見えました。
兵がさって、ドアを閉めます。
その準士官が振り返りました。
「あんだら、よく来たなや」
「す・・・酔漢おんちゃんでねぇか!」
「馬鹿、おめぇ、ここは海軍だべ。『おんちゃん』なんて言ったらダメなんでねぇか」
隣の少年が、脇を小突きました。
「はははは・・まぁ、遠くから来たなや。ばっぱは元気なのすか?」
七ヶ浜からきた志願兵の中には酔漢祖父の「甥」がいたのでした。
酔漢祖父は、愛飲している「しんせい」に火を着けます。
「おめぇがここさぁ(よこちん)さぁ来るって、姉様から手紙貰ったのっしゃ。迎えさぁいぐべと思ってっしゃ。んだとも、おらいも忙しくてなや。迎えさぁやったんだっちゃ」
「誰、いきなし、車だべ。おどろいたっちゃ。周りの奴らなんて目ん玉大きくしてたべ」
「はははは・・・そいずは無理ねぇべな」
いくら、自身の叔父とはいえ、海軍士官です。そこは緊張しまくりの彼らでした。
「だれ、大きな部屋さぁおんちゃん一人でいるんだおん!まんずたまげたなや。横須賀に居たのは知ってたんだけんど。何してっかしゃねぁかったもんだからっしゃ。本当にあん時はビックリしたなや」
昨年、親戚の法事の際、当の本人がこう話しておりました。
「なして、海軍さぁ来たのっしゃ」
酔漢祖父が、こう聞きました。
彼らは、軍国少年よろしく、その抱負を語ります。
酔漢祖父は黙って聞いておりました。
全員、直立不動の姿勢は崩してはおりません。
酔漢祖父、たばこの火を消しました。それまで黙っていた口を開きます。
「海軍なんておめぇらの来るとこでねぇど」
この言葉は息子達(酔漢父、叔父)に何度も話していた言葉です。同じことを横須賀鎮守府の中でも平気で口にする酔漢祖父でした。
「・・・・・・・」
彼らは呆気に取られました。
「まんず、その覚悟はてぇしたもんだ。おめぇも三男坊だから百姓すんのはやんだと思ったんだべ。飯は食わせてやれっけんど。おっかぁばしんぺぇさせることさぁすんでねぇど」
「だれ、おんちゃんさぁ海軍で合ったのは最初で最後だったっちゃ。今でも忘れねぇおんなや」
果して、彼ら4人。海軍へ入隊。しかし、終戦まで前線に行ったことはありませんでした。
「おんちゃん、ちゃんと手さぁ回してたんだっちゃ。村のやろっこ全員なんだ」
父は、「海軍さぁ来るっていうんなら家さぁ勘当すっと!」と言われたそうです。横須賀鎮守府通信隊。第二艦隊に配属される直前の事でした。
ある早朝。寝ている祖父です。横須賀不入斗(いりやまず)の家に電報が届きます。それを見た酔漢祖父。枕元にある軍服(祖母は着ているものは必ず枕元にたたんでおいておくのでした。その習慣が身に着いていたのかもしれません)を急いで着た酔漢祖父です。
「出かける」と一言残して家を出ます。
「省ヘ至急コラレタシ」
しかし、横須賀線は空襲の影響で運休。駅員へ掛け合う酔漢祖父。
「はやく動かしてけらいん!」
数名の士官達と一緒。横須賀線は臨時列車を一両運転するのでした。東京直通。貸切。レイテ沖海戦直後の事だったのでした。
太平洋戦争開始時からこの昭和19年年末まで、祖父は横須賀鎮守府を拠点にしながら、海軍省に努めております。軍の中枢にいる通信暗号の特務でございましたから、戦況には「極めて冷静に、そして細部に至るまで知り尽くしていた」と推察いたしております。「一兵卒の兵曹長」として海軍省ではやはり古参兵として幅を利かせていたとも考えられます。
昭和17年頃。横須賀鎮守府正門前は、多くの少年達が長蛇の列を作っております。志願兵の採用の為です。地方より東京を出て横須賀へ。横須賀ですから、東北出身者も大勢いたことでしょう。
宮城県七ヶ浜村からも数名。その列に加わっておりました。
「なんだべ、こんなにいっぺい人いっと思わねかったっちゃ」
「んだ、だれ横須賀の海軍だべ。みんなして海軍さぁへぇっぺって思ってんだっちゃなや。んでもおらいもこんなに汽車さぁ乗ったなんて初めてだべ」
「ゆんべは寝られねかったっちゃ」
七ヶ浜から塩竈駅までバス。そして塩竈駅より東北本線で上野まで、そこから東京駅へ、横須賀線で横須賀。そこから約20分ばかり歩いての鎮守府入り口です。
長蛇の列の殆ど後ろの方でした。
「そういえば、酔漢のおんちゃんや、ここさぁいんだとや」
「んだ、親父が言ってたべ。んでもおんちゃんや。ここで何してんのかや?」
列は全く進む様子がございませんでした。
その時、一台の車が列を逆方向に進んできました(丁度坂道を下るように)。開いている窓から一人の兵が大声で叫んでおりました。
「宮城、七ヶ浜村からの志願兵。返事ぃ!挙手の上、姓名を名乗れ!」
「おめぇ、今の聞いたか?おらいの事でねぇべか?」
「んだっちゃ。はっきし『七ヶ浜村』って聞いたべ!」
「おめぇ、何したんだ!こんな所で呼ばれたなんて、悪ささぁ見つかったんでねぇかや?」
「おめぇ、何かしたか?」
「しゃねぇ!おめぇだべ!」
「そげなこと言ったって、しゃますねぇっちゃ!早ぐ手さぁあげっぺ!」
代表格の少年(酔漢祖父の甥にあたります)が大声で叫びました。
「宮城七ヶ浜出身者です」
黒塗りの車はその少年の前で止まります。
「何名だ」
「4人だっちゃ」
「馬鹿こくでねぇ、おめぇ今訛ってたっちゃここは『です』だべ」
「何を言っておるか。早く車に乗らんか」
「どこさぁ連れて行かれんだべ」
不安な気持ちと一緒に車に乗り込んだ彼ら達でした。長蛇の列を車は追い越していきます。
さて、横須賀鎮守府の門の手前。助手席の兵が車を先に降りました。
「貴様らは俺の後について来い!」
「いよいよ、あの悪ささぁ知れたんでねぇかや」
かれらは、長い廊下を渡ります。と、ある部屋の前。
「兵曹長殿。連れてまいりました。入ります」
兵が部屋のドアを開けました。
「おう、ご苦労だったなや。後は俺がやっから、あんだはけぇっていいど」
聞きなれた東北訛り。ですがここは横須賀です。
がっしりとした後姿が窓越しに見えました。
兵がさって、ドアを閉めます。
その準士官が振り返りました。
「あんだら、よく来たなや」
「す・・・酔漢おんちゃんでねぇか!」
「馬鹿、おめぇ、ここは海軍だべ。『おんちゃん』なんて言ったらダメなんでねぇか」
隣の少年が、脇を小突きました。
「はははは・・まぁ、遠くから来たなや。ばっぱは元気なのすか?」
七ヶ浜からきた志願兵の中には酔漢祖父の「甥」がいたのでした。
酔漢祖父は、愛飲している「しんせい」に火を着けます。
「おめぇがここさぁ(よこちん)さぁ来るって、姉様から手紙貰ったのっしゃ。迎えさぁいぐべと思ってっしゃ。んだとも、おらいも忙しくてなや。迎えさぁやったんだっちゃ」
「誰、いきなし、車だべ。おどろいたっちゃ。周りの奴らなんて目ん玉大きくしてたべ」
「はははは・・・そいずは無理ねぇべな」
いくら、自身の叔父とはいえ、海軍士官です。そこは緊張しまくりの彼らでした。
「だれ、大きな部屋さぁおんちゃん一人でいるんだおん!まんずたまげたなや。横須賀に居たのは知ってたんだけんど。何してっかしゃねぁかったもんだからっしゃ。本当にあん時はビックリしたなや」
昨年、親戚の法事の際、当の本人がこう話しておりました。
「なして、海軍さぁ来たのっしゃ」
酔漢祖父が、こう聞きました。
彼らは、軍国少年よろしく、その抱負を語ります。
酔漢祖父は黙って聞いておりました。
全員、直立不動の姿勢は崩してはおりません。
酔漢祖父、たばこの火を消しました。それまで黙っていた口を開きます。
「海軍なんておめぇらの来るとこでねぇど」
この言葉は息子達(酔漢父、叔父)に何度も話していた言葉です。同じことを横須賀鎮守府の中でも平気で口にする酔漢祖父でした。
「・・・・・・・」
彼らは呆気に取られました。
「まんず、その覚悟はてぇしたもんだ。おめぇも三男坊だから百姓すんのはやんだと思ったんだべ。飯は食わせてやれっけんど。おっかぁばしんぺぇさせることさぁすんでねぇど」
「だれ、おんちゃんさぁ海軍で合ったのは最初で最後だったっちゃ。今でも忘れねぇおんなや」
果して、彼ら4人。海軍へ入隊。しかし、終戦まで前線に行ったことはありませんでした。
「おんちゃん、ちゃんと手さぁ回してたんだっちゃ。村のやろっこ全員なんだ」
父は、「海軍さぁ来るっていうんなら家さぁ勘当すっと!」と言われたそうです。横須賀鎮守府通信隊。第二艦隊に配属される直前の事でした。
ある早朝。寝ている祖父です。横須賀不入斗(いりやまず)の家に電報が届きます。それを見た酔漢祖父。枕元にある軍服(祖母は着ているものは必ず枕元にたたんでおいておくのでした。その習慣が身に着いていたのかもしれません)を急いで着た酔漢祖父です。
「出かける」と一言残して家を出ます。
「省ヘ至急コラレタシ」
しかし、横須賀線は空襲の影響で運休。駅員へ掛け合う酔漢祖父。
「はやく動かしてけらいん!」
数名の士官達と一緒。横須賀線は臨時列車を一両運転するのでした。東京直通。貸切。レイテ沖海戦直後の事だったのでした。
私の高校時代、ものすごいことに、卒業生が日銀総裁(佐々木氏)と大蔵大臣のポストを占めていました。
そう、愛知揆一氏です。沖縄返還時の外務大臣も勤めました。
その高校の修学旅行の最終日。帰仙は夜行急行でした(まつしまかな?)。
上野駅のホームに着くと、団体貸切でもないのに自由席車両数両分の出入り口に「仙台二高貸切」の表示が出ており、一般客が乗車できないようになっていました。
愛知氏の心遣いとのことでした。
本来は職権乱用ではあるのですが、乗客が少ない列車でしたので、少々大目に見ていただけることではないでしょうか。
とにかく、高校の大先輩のありがたみにしみじみとなりつつ、悪ガキどもは朝まで酒盛りと・・・
それから1年経つか経たないか、愛知氏は亡くなられ、「校葬」が行われました。
後輩を想う暖かい気持ち、そんな心根の政治家は、その後身近に見かけたことはありません。
我々にとっては「大蔵省のおんちゃん」でした。
村の若者を守りましたか・・・・
この時期になれば戦地に出れば戻って来れないのは想像できたでしょう。
しかし、自らの身をその戦地に向けたのですね。
お偉い方です。
審査担当の郷里出身者に頼み込み、妹が6人もいて後継には困らないという無理やりな理由で合格にしてもらったそうです。
伯父が18の時というから昭和8年か9年ごろのことで、先年起きた満州事変から支那事変~日中戦争
と戦禍が続くことなど山形の片田舎の少年には想像もできなかったろうと思いますが…
その後、現地で応召し中満国境地帯を偵察中に狙撃されての戦死でした。
先輩の思いやりがあだになってしまった一例ですが…
堂々した体躯が議長席がお似合いだったっと思います。
「酔漢君。元気そうだなぁぁ」地元へ帰りますと会ったとたんに大きな声が聞こえてきます。
本人の葬儀。青山でした。
小泉首相(当時)が彼の出身地の呼び名を間違えておりました。
そんな事を思い出しました。
その「じぃちゃん」のことは、後に語ります。
(だいぶ後だと思いますが・・・)
ですから、半農半漁の村の事が解っていたのだと思います。
七ヶ浜中学校となりグラウンドの先に「七ヶ浜忠霊碑」がございます。昭和40年12月序幕。
日清・日露から日中・太平洋戦争までお亡くなりになられました「七ヶ浜ご出身者」の方々のお名前が刻まれております。
海軍では73名の名が。陸軍では233名ものお名前がございます。
この記録も現在整理しております。
記録の整理が終了しましたら記事にいたします。目立たないところにあります。
小さな村・町ながら戦死された方が大勢いたことを物語っております。
(ぐずら様すみません)
紙一重ですね。大和からの生還者の方々の証言を紐解きますと、そう感じずには居られません。どんな運命か。知る由もないままの戦死。
「どんな最期か、わかるだけいいではないか」と話される方がいらっしゃいます。本当にそうだと思います。本人の顛末が解るだけいいのかもしれません。南方の島々でなくなられた多くの方々の事を思いますれば、なんとも心が重くなります。
酔漢前の世代です。生まれた年は戦争終了から16年しか経っていなのですから。まだ戦争が身近にあったという思いがございます。