酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

祖父・海軍そして大和 息子の旅と謎の写真

2009-10-08 11:44:24 | 大和を語る
「親父、今度の連休で、『広島』に行って来る」
旅好きな息子です。(読者の方々は彼のネームはご存知だと思いますが、酔漢息子としておきましょう。彼からの要望でもございます)
「広島?なして、なんじょして行くのすか?」
「『宮島』がメインかな?それと『原爆資料館』も、そして、呉の『大和ミュージアム』さ」
「『大和ミュージアム』だって?おめぇがか?」
「『ひぃじぃ』の事も少しは知っておきたいんだ。それと・・・」
「それと・・・何っしゃ?」
「前に親父が『調べてもらいたいことがある』って言ってたでしょ。それが何か、気になってね」
「自分で行こうかって考えてたのっしゃ。学芸員に直接話しばぁ、したかったからっしゃ。あそこで聞きたいことは山程あっぺ」

酔漢息子には祖父の事を詳しく話したことはありませんでした。酔漢親父殿が、帰省した際、墓石の後ろに書かれている碑文の説明をした時に初めて祖父の事をしたのだと思います。高校に通う酔漢息子ですが、やはり「ミリタリー」に詳しい同級生がいたらしく、自身の曽祖父の話をしたところ「凄い」(何が凄いか、私達家族にはない感情なのですが)と言われたそうでございます。

「じゃぁ、親父がミュージアムに手紙を書いて、それを渡すってのはどう?」
「そうすっぺか」
酔漢は、彼の提案に賛成したのでした。
塩竈の実家から、写真のコピーを届けてもらいました。
これが、掲載いたしました写真です。酔漢祖父は「右端、下から三人目に写っております」
実は、この写真。仙台青葉神社にもございます。祖父の軍服の右上に掲示されておるものと同じです。昭和51年「遺族会」が開催されました折、父が偶然見つけたものでした。写真は生存された方から頂きました。
「昭和20年、正月。撮影」写真の詳細は今だ不明ですが「第二艦隊下士官集合写真」(一部上級士官もおります)ではないかと推察するところです。
他の書物にはよく「大和沖縄戦直前の写真」と紹介されることもございますが、それは違っております。「昭和20年、1月7日」と推察するのが妥当と考えます。
手紙の内容をかいつまんで紹介いたします。酔漢が尋ねたかったことは下記のようなものでした。
1)祖父の大和での役割。第二艦隊司令部と大和乗組員との関係。
 大和では通信隊は「第十三分隊」の属しております。十三分隊と司令部通信部と の役割分担はあったのか。
2)写真の詳細。真ん中に写っている民間人は誰なのか(知りたい酔漢です)
大きくはこの二点でございました。

「じゃぁ。行ってくるよ」
「お前もなぁ、新幹線使わねぇぐて、よく広島までいぐんだおんな」
「早く着いたらもったいないでしょ!親父、手紙は預かったから、これを学芸員さん見せればいいんだね。内容は俺が聞いたって解らないしさ」
「夕べ話した通りだっちゃ。気をつけて行ってくんだど」
彼は、夜中近くに藤沢を出たのでした。


「大和ミュージアム」とは略称です。正式には「呉海事歴史史料館」と言います。
呉市立のものです。正直「大和が博物館に」という思いはあったのです。「軍事的兵器が公の博物館の名称になる」抵抗感はありました。正直なところ、遺族であれなかれ、酔漢自身の思いとはかけ離れているような気もしたのでした。ですが、世の批判も特に耳にすることはなく、その内容をみますれば「大和を美化」したような展示等も見受けられません。呉海軍工廠での記録と大和の記録を淡々と展示している。そんな印象を資料から見る事が出来ました。
(ここからの写真は、全て息子からの提供です)

館内にある大和の模型です。現存する模型のなかで最大のものです。ひーさんのブログにございます「青葉神社内大和模型」は1/200ですが、これは1/100です。
酔漢息子は、ミュージアム内で一人の学芸員さん(女性)を尋ねました。

「あのぅ、神奈川から来ました」
「遠いところからですね」
「実は遺族なんです」
「では、お爺様が?」
「いえ、ひぃじぃなんですが・・ここに写真があります。名前は『酔漢祖父』と言います」
「えっ!ひ孫の方なんですか?」
「そうです」
「お一人で・・ここまで?」
「はい」
名前を知ったその学芸員さん(しんたにさん)は、展示ブース以外の資料も見せてくれたそうです。そして、「曾おじいさん」の写真はここに展示されていますよ」と、酔漢が持たせた写真のパネルのところへ案内してくれたのでした。
やはり、昭和二十年正月、大和艦上士官集合写真としてあったそうです。
「父から預かりました。手紙です」
「お借りしてよろしいかしら、後で返事をしますから」
彼は「大和ミュージアム」を出たのでした。

一週間後。自宅へ手紙が届きました。資料の返却と、お手紙が添えられておりました。
原文、ご紹介いたします。



平成21年1月9日

 
 先日は大和ミュージアムにご来館くださいましてありがとうございました。
 ご依頼のありました件について回答いたします。だいたいのことについては酔漢(息子)様にお話してありますので、ほぼ変わりはありません。

お手持ちの写真について
こちらは、投函にオリジナルがございます。今の写真でいうとL版くらいの
大きさです。当館から発行しております『海事歴史科学館図録 日本海軍艦艇
写真集別巻「戦艦大和・武蔵』の100ページに掲載されています。奥付を送付
しますので、お近くの書店、図書館などで探してみてください。
 なお、当館ではこの写真をパネルにして大和のコーナーに展示しております。

写真に写っている人物について
写真中の人物の特定はできませんでした。大和の事に関して詳しい人にも聞いて
みたのですが、わからないとのこと。所蔵のオリジナル写真も見てみましたが、何
も書いてありませんでした。
 なお、士官室士官とは、士官室を利用できる士官ということで、士官室士官には
個々に寝室が与えられていたそうです。
 一次士官の士官は海軍兵学校を出た士官、二次士官室の士官は叩き上げの士官が
いたということです。海軍兵学校出身者で、写真があれば一人ずつあたって探すこ
とは可能かもしれないとのことですが、容易ではないようです。

 誠に不本意な回答で申し訳ございません。以上、よろしくお願いいたします。
また、写真の中央にいるネクタイを締めた人物について、現在調査中です。何か
わかりましたらご連絡いたします。
 お預かりいたしました写真等同封いたしましたのでご確認下さい。
 また、お返事が大変遅くなりましたこと、お詫び致します。

           広島県呉市宝町5-20
           呉市海事歴史史料館学芸課(大和ミュージアム)
                          


酔漢祖父が海軍叩き上げの二次士官という事が解りました。そして、個室が与えられていたことも。(全く、『大和ホテル』だっちゃ)しかして、二次士官と一次士官とはこれほどまで待遇が違っていたのかとも思いました。やはり官僚の世界よろしく、「キャリア組」と「ノンキャリア組」では格が違っているのです。しかして、酔漢祖父は海軍ノンキャリア組では、最階級にいたことになります。逆を言えば、「これ以上の出世がない」事も事実なのですが。ですが、現場ではよく、叩き上げ士官が歴戦を経験した者として非常に幅を利かせていたとか。
「おめぇは学校出たって何も解んねぇんだべ!黙っておらいのやってる事さぁ見てたらいいのっしゃ」
これ本当の祖父の言葉です。ある埼玉在住の生存者の方から酔漢自身が聞いた言葉です。
それにしても、「じいちゃん。大和で『宮城語』はねぇべさ!」です。(これが、本人の誇りだとも信じておる酔漢でございます)

さて、「謎の民間人」写真中央にいることからして、相当の人物であることは間違いないのです。ですが、昭和20年の正月に、「戦艦大和へ年始の挨拶」なんて簡単にできることではないのです。ですから、その正体は「呉は把握しているに違い無い」と考えていた酔漢です。ですが、答えは「不明」でした。
この謎。解ることがあるのでしょうか。
「現在調査中」
「大和の何かを知る民間人であることは間違いないのです」
大変気になる酔漢です。

「大和ミュージアムは、俺も最初、平和を考えるというイメージはなかった」
「というと?」
「大和は凄いってばかりの館かと思ってたんだ」
「実際は違っていたのすか?」
「どんな形でも、戦争で亡くなった人がいるんだ。ひぃじぃもそうで・・」
「『父親のいない子は、やはり不幸なもんだっちゃ』・・じいちゃんがしみじみ言ってたのを思い出した」

大和第四世代。僕等とは違った感覚でこの史実を見ていくのでしょう。

「親父は呉に行かないのか?」
「そのうちにな」
なかなか足が運ばない酔漢でございました。

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11 コメント

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昨日(台風)の鉄道に地獄を見た! (クロンシュタット)
2009-10-09 05:56:07
私の父親は陸自で「たたき上げの士官」に何度かトライしましたが、英語がまったくできずに試験に合格できませんでした。
そりぁ、高等小学校しか出てませんですからね。昔の農家は皆高小どまりでした。
なんとか定年退職時の特進で「准尉」となり陸自を去りました。
下士官では極めて異例の連隊長による送別式典が催され、母親とともに壇上で総員の敬礼を受けたそうです。

そういえば、昔の陸自は、尉官以上は自宅と駐屯地の間を、朝晩ジープで送迎されていました。
とうとう乗れずじまいだった父親でしたが、そこは「たたき上げ」の強み、近くを通るジープに結構ちゃっかり同乗していました。
実は私も1度だけ、乗せてもらったことがあります。

あてずっぽうですが、私服の方は退役者の方かもしれませんね。
息子さんもだいぶ成長されたようで、眩しく感じます。
創立記念日と台風とで連休となった我が家の長男は、ごろ寝の日々でした。
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クロンシュタット様へ (酔漢です)
2009-10-09 08:44:00
昨日の台風で、息子2人とも休校でした。そして私目も休みでした。
交通機関の麻痺は、特に東海道線は二日続きでダイヤが乱れました。
さて、「退役軍人」とは考えてませんでした。
ですが、大和艦上です。それも、二艦隊が乗艦した後の昭和20年。何の記録もされていないのです。私服というのも気になります。最初は皇族関係の方とも考えましたが、そうではなさそうです。大和との関係。一体誰なのでしょう。
生存された方も全く記憶が無いと話されていたそうです。副砲長「清水」さんも、この写真については具体的なコメントを残しておりません。
返信する
謎の民間人 (トムくん )
2009-10-10 09:06:02
呉の大和ミュージアムには行きたいのですが、映画『男たちの大和/YAMATO』のイメージがこびりついて、なかなか足が向きません。
あの映画には、本当、ガックリきました。なぜ、あんなものを作ったのでしょうね?

写真の民間人、言われればとても気になります。江田島の海軍兵学校生徒館には、同じ写真はないのでしょうか? 
返信する
トム様へ (酔漢です)
2009-10-12 18:55:21
お久しぶりでございます。
「男たちの大和」は劇場で観ました。が、大和の臨場感は伝わったものの、脚本がもう一つだったかと思いました。プロローグとエピローグに無理があって、それをあの壮絶な海戦につなげているのかと。
昭和51年の遺族会では、御生存された方が大勢出席されております。会の世話役を一生懸命やられていたと父から聞きました。
こんな思いも映画からはもう一つ伝わって来ませんでした。
日活の方が軍医を中心とした話でした。これはピンポイントで秀作だったと思いました。
さて、江田島関連ですね。少し史料を探してみます。ありがとうございました。
返信する
時間 (ひー)
2009-10-12 20:03:06
時間が経てば経つほど、この解明が難しくなるのは必死ですね。
大和で個室を持てるのですから、その位の高さがわかりますね。
乗船名簿が存在していても潰していくのは容易ではありませんね。
解明されることを祈ります。
返信する
やはり大切にされていた (丹治)
2009-10-13 12:24:45
海軍のことを書いた本を読むと、兵学校出身者が特権意識を振り回す記述によく出会います。
しかし下士官兵、あるいは累進して特務士官になった人たちがいなければ海軍が回らなかったことも事実です。
戦後の米国から聞えてきた評価が、「日本海軍で優秀だったのは下士官。その次が若手士官・・・」というものだったと記憶しています。

戦艦や重巡洋艦の砲塔長、主砲方位盤の射手や旋回手は、長年鍛えこまれた技術と勘が物を言い、
兵学校出身の士官には絶対に任せられない配置でした。
戦艦の第一分隊は主砲分隊ですが、分隊長は伝統的に特務士官だったそうです。

酔漢さんのお爺様のマークは通信でしたね。
通信科でも、実際の送受信でレシーバーを被り電鍵を叩くのは下士官兵でした。
兵学校出身の士官の送信能力は、高等科練習生出身の下士官には遙かに及ばなかったと聞きますし、
達者な下士官兵の中には新聞電報を漢字で取る人もいたそうです。
砲術や通信意外の術科でも事情は同じだったのではないでしょうか。

三年間勤務すれば授与される善行章には手当がつきますが(准士官五分前の下士官の中には善行章五線などという例がありました。これを称して洗濯板と言うそうです)、
この善行章手当は、准士官に昇進してからも給料に加算されました。
また士官になると給料は月給ではなくて年俸になりますが、
特務少尉の俸給は学校出身の少尉よりも高かったということです。

特務大尉昇進した少佐は俗に兵隊元帥と称せられ、下士官兵出身者の到達する最高の階級でした(大和が沖縄に出撃する直前に大和から下りた二番砲塔長の奥田少佐がそうですね)。
さらには終戦前に、兵隊出身の少佐の中から三人の中佐が誕生しています。

「中佐になれたといっても、たったの三人」。
「少佐になれても、そのすぐ先に待っているのは体液」。
このようなことを言う、口の悪い人も世の中にはいます。

しかし日本海軍がお手本にした英国海軍では、下士官兵から士官に昇進する道はまず閉ざされていたと言ってもよいでしょう。
また日本が下士官兵を飛行機操縦者の配置につけたのも、非常に画期的なことだったと聞いたことがあります。

しかし何だかんだ言って、海軍は下士官兵や特務士官を大切にしていたのではないでしょうか。
彼らの技術に酬いる手段が現れていたのが、給与や階級に見られる待遇だったのだと思います。

ところで「謎の民間人」ですが、大和ミュージアム編集の写真集に収められた写真に何枚か写っていますね。
お爺様が写っているのは第二士官次室の集合写真だったでしょうか。
士官室や艦隊司令部はどうだったかはっきりしませんが、准士官室の写真にはこの「謎の民間人」が写っていたような気がするのです。

今回のお話の写真でははっきりしませんが・・・
この「謎の民間人」は海軍の軍帽jとは違いますが、一種の制帽らしきものを着用していますね。
また折襟の服(これも制服めかしく見えます)には、階級章らしきものがついています。
これは今回の写真でも分りますが、
この人物の左胸に一筋の白線が認められます。
周囲の士官たちの佩用するものよりは細いものの、同種のものと見て間違いはないでしょう。
あれは勲章の略綬ではありませんか。

だとすればこの「謎の民間人」はただの民間人とは思えません。
確かに軍人ではありませんが、
軍属という可能性もあるのではないでしょうか。



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昔も今も・・・ (ぐずら)
2009-10-14 00:33:56
士官学校や防衛大学校を出た士官とたたき上げの格差は変わらないようですね。
オイラの友人に横須賀の少年工科学校出でたたき上げの典型のような奴がいます。
今じゃあ佐官に出世して、防大の教授やどっかの駐屯地司令なんかを歴任していますが
こいつが曹官だったころ、防大出の下士官が小隊長で配属されてくるのをいびっては、
「あいつら学校出てても肝心なことは何んもできないから、俺が鍛えなおしてやるんだ!」と言ってましたよ。
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おっと!忘れた! (ぐずら)
2009-10-14 00:43:34
件の「民間人」のことです。
丹治さんも「ただの民間人とは思えません」と語っておられますが、
この人物、さほどの高齢とも見えず、黒々とした口髭を蓄えたかなり偉そうな風貌…
現代でも防衛省には制服組と私服組がありますが、
当時であれば、軍関係の高級文官と見ることもできるのでは…
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ひー様へ (酔漢です)
2009-10-15 09:53:01
祖父に個室があったとは、史料館からの手紙で初めて知りました。「大和ホテル」とは半分「ねたみ」から生まれた言葉ですが、やはりと思わざるを得ません。普通下士官でも相部屋なのでした。はてさて「謎の人物」公になったのは、このブログが最初ではなかろうかと思います。写真自体は多くの本になっておりますが。
これがきっかけで何かわかればいいかと思っております。でも、半永久的に「謎の人物」なのでしょうね。
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丹治様へ (酔漢です)
2009-10-15 09:59:29
祖父は技術を持っていたからできた昇進だったと思います。やはり特殊技能でした。
大高さんのお話を以前いたしましたが、「新聞記事の暗号化」は、「やはり出来た」と話されておりました。(本人もです)
「謎の人物」この写真の中で生存者された方が数名いらっしゃるとも聞きましたが、誰一人その人物について話された方はいらっしゃらないとのことです。清水さんもこの写真の経緯については知らないと話されておったそうです。
はたして一体・・・・。呉に行けば何かわかるかも知れません。
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