酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

小学校の頃  テロと名人とリボンの騎士と、さとうくん その4

2007-02-19 16:22:49 | 塩竈小学校の頃の話
現在、塩竃市立第二小学校の校舎は、北側と西側にあります。西側の古い校舎は酔漢が幼稚園(小学校に入る前年)の頃に完成したものです。ですから当時は今の古い校舎の事を新校舎と呼んでいました。で、今の校舎のあったあたりは、同じ位置に2階建ての木造校舎がありました。
酔漢は4年5組。木造校舎の2階、真ん中あたりの教室です。

宮崎ばっぱ(担任の先生)は、中原誠名人の講演会に出席できる4名を選びました。酔漢もその一人でした。講堂へは、椅子持参で移動です。5・6年生で11クラスそして4年生約25名が狭い講堂に入りました。当然PTAゲスト組と市の教育委員会のお歴々は数名おりました。
校長先生の紹介の後、中原名人が壇上にあがり話を始めました。
内容は将棋名人戦の事が中心だったように記憶しています。対戦相手の大山康晴棋士との心理戦が中心だったでしょうか。でも小学校の思い出の事をこう話しておりました。
「小学校は4年生までしかおりませんでした。最後の教室は、この木造校舎の2階一番端っこ。今もありますね。そのあとすぐ、東京の小学校に転向しました。あとは将棋の勉強ばかりしていました」
しんどう君は「けっこう昔から、校舎あったんだなや」
「塩竃でも、この前、一小が校舎立替えたべ。三小は一番早く鉄筋校舎だんな。おらほだけ木造だぉんなぁ」
「おまけにプールもビニールシートだっちゃ」(不思議に思うかもしれませんが、25mビニールシートプールだったのです)

その日、中原名人は将棋クラブの6年生と将棋をした後、学校を後にしました。
塩竃市出身の有名人は少なかったこともあり、新聞はだいぶ賑わったのでした。
「中原名人故郷に錦」(新聞を覚えているわけではありません。でもこんな一面はありきたりで  でもそんな感じでしょ。)

タイトルにある、名人はこれでお分かりかと思いますが、将棋の中原誠名人の事です。
つい最近も女性とのスキャンダルでマスコミを騒がせてはおりましたが。やはり名人のタイトルを勝ち取ったわけですから、ある意味天才だったと言えると思います。

さて、木造校舎2階の一番端っこの教室。ここから手塚アニメ初期のヒット作品のキーとなる人物が育っていった事は、塩竃市市民の間でもあまり知られておりません。

「わたしの見る夢 秘密だよ」この歌の字幕とともにスタッフの紹介がされますが、設定デザインを担当した人物がその人です。




コメント (7)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 小学校の頃  テロと名人と... | トップ | 小学校の頃  テロと名人と... »
最新の画像もっと見る

7 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
中原 誠 (クロンシュタット)
2008-05-31 03:59:28
名人になった直後、塩釜市内をパレードしてましたよ。
その後も全盛時代は毎年のように塩釜に来て、
「中原誠杯将棋大会」みたいなのを催してました。
そうそう、100人指しとかもやってましたね。

あの頃は、圧倒的に「塩釜最大の有名人」でした。

返信する
クロンシュタット様コメント御礼 (酔漢です)
2008-06-01 21:21:53
「くだまき」へのコメントありがとうございます。
また、ここ二・三日身辺が慌しく、返事遅れましたこと、ご容赦下さい。
大先輩でいらっしゃるのですね。ですが、何処となく、身近におられたような気がいたします。
ブログにも紹介いたしておりますが、酔漢の一つ上の従兄弟は、早稲田でサッカー部、副将を務めておりました。中学は玉川中、高校は塩釜高校でした。
加藤さんのお話、そして、現アルビレックスの監督、鈴木さんの話など、よく丁寧に解説?をしてくれます。
塩竈へは、お帰りになる機会などあるのでしょうか?
毎年、夏に帰塩いたしますが、あの頃のような賑わいがなく、街の様子も様変わりいたしました。
帰り際に思うことは「今も昔もこの酒呑めば味はよし」と言う事です。
ところで、「おいかわ君」ですが、小松崎のお家を越した後、三中の側に住んでおりました。
返信する
おいかわ君 (クロンシュタット)
2008-06-02 06:01:21
あ、やっぱりです。
おそらく、近所の及川さんの息子さんです。
私の実家は、三中から歩いて数分の「多賀城市笠神」です。

両親が高齢で弱ってきており、見舞いのための帰省を、年に数回しております。
「貨物駅」「海岸通商店街」あたりの寂れようは、言葉が出ません。
「ジャスコ」もなくなってしまいましたし。
「伊勢模型」は4月に息子たちを連れて行ってきました。
ちなみに息子2人とも親父の影響で「鉄」です(おーっ!)
それぞれの場所には思い出が山のように詰まっています。

浦霞のしぼりたて原酒は健在なのでしょうか。


返信する
コメント御礼です (酔漢です)
2008-06-03 05:43:19
「しぼりたて」は健在ですよ。毎年冬に、実家から届きます。最近、お米から作りました焼酎がありまして、これがなかなか美味しいです。時たま、現社長がこのブログに登場しております。
「伊勢模型」の前に「山田屋」さんがありまして、一昨年息子2人と花火を買いに行きました。(何せ、バラ販売の花火の種類の豊富さは塩竈一)当時からのおばちゃんがまだおりました。
「今もう、こどもすくなくなってっしゃ。あんだだちいだ頃は、だれ、自転車で歩道溢れてたおんなや」と話しておりました。
そうですか、みなさん「鉄」(失礼します)ですか、実は酔漢の長男(高一)は「鉄」です。そして、池袋にあります「それなりの」(学校より名前を出してはいけないとの通達が・・)高校に通っております。
2人して塩竈に帰省するとですね、16時間はかかります。酔漢は息子からいろいろ教わっております(笑)
返信する
丹治さん (クロンシュタット)
2008-06-03 06:09:15
「伊勢模型」の前の「山田屋」さん、よく覚えています。
4月の時点では、まだまだがんばっていましたよ。

えーっと、コメントしたい話題がたくさんあるので、これからは、それぞれの話題ごとにコメントしますね。

「丹治」という苗字にも、やたら引っかかるんですよね。
返信する
小生も・・・ (丹治)
2008-06-03 08:54:49
クロンシュタットさんへ

伊勢模型店と山田屋には小生も通いました。プラモデルを作らなくなって二十年以上経ちますが、あの近くに行った時は、今でも模型店のショーウィンドーを覗いてます。
値段に「・・・万円」をつける小母ちゃん、どうしてるでしょうか。今はお店をやっているのは息子さんなんでしょうね。
返信する
朝礼係り (クロンシュタット)
2008-06-04 06:06:16
丹治さんへ

はじめまして。...ではないでしょうね。たぶん。
三小の4年ほど後輩の方なのですね。うーむむむ。

私は4年から6年までは放送部に在籍していました。
それで6年生の時は、毎週の朝礼の「放送&日の丸掲揚」係りでした。
ですので、丹治さんが2年生の時は、毎週月曜日に私を見ていたことになります。
まあ、酔漢さんに対抗?した「三小ネタ」は、おいおいに。

伊勢模型は、毎日曜日には必ず「覗いて」いました。
買えるのは、月に1回ぐらい、それも「タミヤのリモコンではないタンク」とかでした。
にぎやかだった塩釜。
店頭で焼いた魚のにおいと、加工工場の生臭い魚のにおいにまみれていた塩釜。
パチンコの釘が甘すぎた塩釜。

なんか、話題は尽きないぞっ!


返信する

コメントを投稿

塩竈小学校の頃の話」カテゴリの最新記事