酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

小学校の頃  テロと名人とリボンの騎士と、さとうくん その5

2007-02-22 11:29:46 | 塩竈小学校の頃の話
晩ご飯の時、テレビは、「リボンの騎士」の再放送を放映していました。オープニングタイトルとテーマ曲が画面から流れてきました。(オーケストラを駆使したあの音楽は今でもスゴイ。トムジェリ並みの音響効果だったと思います)スタッフの紹介が字幕で流れていたとき、「おかあさんこの人のおかあさん知ってるよ」といきなり母親が話しはじめました。「えっだれ?」と言ったときには、字幕は当然流れておりました。
「『丸山正雄』っていう人」
「なんで知ってんのっしゃ?」
「この人のおかあさん東北ドックにいたから、よく話したのっしゃ」
母は、当時の東北ドック(現東北造船)のタイピストでした。
母から聞くと、丸山正雄さんのお母さんも東北ドックにいたらしく、よく「今日まさおちゃんの名前テレビに出てたね」と話をしたそうです。
次の日、テーマ曲と一緒に流れる字幕を目を凝らしてみておりましたら、「設定デザイン  丸山正雄」と確かにありました。
ぼくの好きだった手塚アニメ(当時はアニメとは言わなかったなぁ。マンガだよね)のスタッフに身近な人がいたことに子供心に感動いたしました。
翌日学校でその話をしんどう君とさとう君に話しました。
(相変わらず、時間は前後いたしますが、この話は小学校5年生の時、酔漢が塩竃二小、5年7組の時です。昭和48年の年です)
「昨日、リボンの騎士見てたら、丸山正雄って人いてや、塩竃の人だど」
「ほんとかや」
「んだって、その人のおかあさんって前に造船さいたんだと。ほして、家のお母さんも造船さぁいたからっしゃ」
「んで、おらほの学校かや」
「みてぇだど」
さとう君はことのほかうれしかったようでした。「手塚治の漫画は俺も真似して描いたりするんだけどっしゃ、上手くいかねど」
丸山さんは知る人ぞ知る「マッドハウス」を設立した人です。
日本アニメの創世記から現在にいたるまで、その歴史が、氏自身であったとしても過言ではないと思います。
さくら大戦」真行寺さくらは仙台の出身ですが、(アニメの話で)これも、丸山さんの意識したところでしょうか。
「走れ高速の帝国歌劇団」別にアニメお宅でもなんでもないですが、少しは、アニメがすきな中年でございます。
で、氏も塩竃市立第二小学校の木造校舎で学んだ人でした。2階の一番端の教室で

 これまで、登場した、漫画好きな少年さとう君と酔漢は5年6年と同じ学級で、担任はエツジでした(その1で登場した学級担任)。
 で、このさとうただし君とはよくいたずらをしでかしたものです。ここに出てきたしんどう君もね。彼は卒業文集にしっかり「将来はマンガ家になる」と書いておりました。

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