「ハーフタイムに入ります。おやあの ム という旗はなんでしょうか」
NHK、西田善夫アナウンンサーが、あれっ?といった感じで話しております。
第二回ワールドユース日本大会。場所は国立競技場。スタンドに大きく広がった赤
に白字に「ム」(本当は、カタカナの「ム」ではないのですが)の大きな旗。
テレビを見ていた酔漢は、「あいつらやったな!」と思わず叫びました。
「あれ、おめえらの高校の旗でねえのか」と父親が尋ねてきました。
「そう、あれうちの大団旗だっちゃ。団長と副団長が国立に行ってんだ。鈴木さんの応援っしゃ」旗は仙台向山高等学校の大団旗です。ユース日本代表はこれまでの3試合1点も取れないまま、後半を迎えようとしていました。そして、この試合、鈴木淳さんは、スタメンを外れておりました。代表は背番号10を欠いたまま試合に臨んでおりました。この時点で日本の決勝トーナメント進出はなくなっておりました。鈴木さんの活躍はこの試合の前第二戦のアルジェリアユースとの試合でした。
前半も終わろうとしていたところ、水沼さんの蹴ったボール金田さんがヘッド、ゴールキパーがはじいたところに飛び込んでのヘディングシュート、完璧にゴール枠を捉えていたにもかかわらず、アルジェリアゴールキーパーがナイスキャッチ。国立が歓声とどよめきと一瞬にして変わった瞬間でした。この試合、中盤後方から得意のドリブルで何度も、中央突破を狙いましたが、相手ディフェンダーの執拗マークもあり、チャンスらしいチャンスもないまま、1-0で日本は負けてしまいました。鈴木さんのワールドユース大会はこの試合で終わりました。でも国立のスタンドで観客のブーイング?歓声?にもめげず、仙台向山の大団旗を全国のお茶の間に紹介せしめた、当時の団長と副団長には敬意を払ってやみません。
大会終了後、鈴木さんが全校生徒の前で大会報告を行ないました。サッカー部長の挨拶と鈴木さんのエピソードの後、当時生徒会長であった酔漢自身(これを言うと正体が解るかもしれませんが)も壇上に立ち、特にアルジェリア戦を中心に話ました。そして、鈴木さんの話です。
「ハーフタイムが終了して、ピッチに出てウォーミングアップをするとき、高校の旗が目に入りました。仙台から、わざわざ、来てくれて本当にありがとうございました。で、チームの誰からも、あの旗何?と聞かれました。あらためて、対象にならない、家の旗は個性的だと思いました」と。(仙台向山高等学校ホームページをご覧下さい)合宿では監督が「日の丸、日の丸」と何かにつけて話していたこと、3人いた高校生が結構仲が良かったことなど(水沼さん、風間さん)話して下さいました。
その少し後、体育の授業に庄司先生(仙台向山高校サッカー部監督。宮城ユース代表監督。日体大OB)が、こんな話をしておりました。
「日本には1.2リターン(壁パスを使い、相手のディフェンダーを抜き去る戦術)が出来なかった。というか、知らなさ過ぎた。世界のサッカーがめまぐるしく変わって来ている。日本もアマチュアでは世界との試合が少なく、取り残されることもある」と。
放課後、鈴木さんは、パイロンの間をドリブルで抜き去る練習をよくしておりました。が、仙台向山は、高校総体では決勝で仙台三高にまけ、高校サッカー宮城大会でも準決勝で敗れてしまいました。仙台向山が全国大会に出場するのは、その後。初戦の島原商業に1回戦であたり見事にPKで勝ち、初戦を突破。テレビを見ていた酔漢も感動しました。が、延長とPKで放送時間がいっぱいとなり、あの美しい(手前味噌ですみません)校歌が聴けなかったのが残念でした。
鈴木さんは、卒業後、筑波大学に入学。大学選手権でも、国士舘(柱谷さんがおりました)早稲田(酔漢の従兄弟がおりましたし、仙台向山からは宍戸さんもおりました)といった強豪とともに、常に上位に食い込む成績を残しておりました。フジタ工業へ入社するも、J1で活躍することはなく、ベガルタの前身ブランメル仙台の一員としてチームを引ぱっておりました。今はみなさんご存知のようにアルビレックス新潟の監督やっておられます。それと、たけし軍団の助っ人でテレビに出てたりね。
酔漢が大学3年次、仙台市立中野中学校で教育実習をしましたが、こんな話を教室でいたしました。「神戸ユニバの日本代表キャプテンは宮城出身の鈴木淳さんです。で日本代表のキャプテンは加藤久さんです。宮城はサッカーのレベルは低いと言われますが、個人の力は、決して劣っているわけではありません。2人とも、日ごろの努力で世界に通用するプレイヤーになっていったのです」(自分の事を棚に上げて言っております。ご容赦を)
釣りの帰り、国道45号線で陸前浜田を過ぎたあたりに「加藤商店」がありました。加藤久さんのご実家です。そこを通るたびに、Jリーグが出来る前の宮城のサッカーのあれこれを思ってしまいます。
長くなってすみません。次回は、幻におわった仙台市立五橋中学校サッカー部の話を少ししたいと思います
このブログの次に「サッカー編4」をお話いたしておりました。が、再編集をいたしまして、2008年1月12日に再度更新しております。間はあくのですが、そちらをご覧ください。
NHK、西田善夫アナウンンサーが、あれっ?といった感じで話しております。
第二回ワールドユース日本大会。場所は国立競技場。スタンドに大きく広がった赤
に白字に「ム」(本当は、カタカナの「ム」ではないのですが)の大きな旗。
テレビを見ていた酔漢は、「あいつらやったな!」と思わず叫びました。
「あれ、おめえらの高校の旗でねえのか」と父親が尋ねてきました。
「そう、あれうちの大団旗だっちゃ。団長と副団長が国立に行ってんだ。鈴木さんの応援っしゃ」旗は仙台向山高等学校の大団旗です。ユース日本代表はこれまでの3試合1点も取れないまま、後半を迎えようとしていました。そして、この試合、鈴木淳さんは、スタメンを外れておりました。代表は背番号10を欠いたまま試合に臨んでおりました。この時点で日本の決勝トーナメント進出はなくなっておりました。鈴木さんの活躍はこの試合の前第二戦のアルジェリアユースとの試合でした。
前半も終わろうとしていたところ、水沼さんの蹴ったボール金田さんがヘッド、ゴールキパーがはじいたところに飛び込んでのヘディングシュート、完璧にゴール枠を捉えていたにもかかわらず、アルジェリアゴールキーパーがナイスキャッチ。国立が歓声とどよめきと一瞬にして変わった瞬間でした。この試合、中盤後方から得意のドリブルで何度も、中央突破を狙いましたが、相手ディフェンダーの執拗マークもあり、チャンスらしいチャンスもないまま、1-0で日本は負けてしまいました。鈴木さんのワールドユース大会はこの試合で終わりました。でも国立のスタンドで観客のブーイング?歓声?にもめげず、仙台向山の大団旗を全国のお茶の間に紹介せしめた、当時の団長と副団長には敬意を払ってやみません。
大会終了後、鈴木さんが全校生徒の前で大会報告を行ないました。サッカー部長の挨拶と鈴木さんのエピソードの後、当時生徒会長であった酔漢自身(これを言うと正体が解るかもしれませんが)も壇上に立ち、特にアルジェリア戦を中心に話ました。そして、鈴木さんの話です。
「ハーフタイムが終了して、ピッチに出てウォーミングアップをするとき、高校の旗が目に入りました。仙台から、わざわざ、来てくれて本当にありがとうございました。で、チームの誰からも、あの旗何?と聞かれました。あらためて、対象にならない、家の旗は個性的だと思いました」と。(仙台向山高等学校ホームページをご覧下さい)合宿では監督が「日の丸、日の丸」と何かにつけて話していたこと、3人いた高校生が結構仲が良かったことなど(水沼さん、風間さん)話して下さいました。
その少し後、体育の授業に庄司先生(仙台向山高校サッカー部監督。宮城ユース代表監督。日体大OB)が、こんな話をしておりました。
「日本には1.2リターン(壁パスを使い、相手のディフェンダーを抜き去る戦術)が出来なかった。というか、知らなさ過ぎた。世界のサッカーがめまぐるしく変わって来ている。日本もアマチュアでは世界との試合が少なく、取り残されることもある」と。
放課後、鈴木さんは、パイロンの間をドリブルで抜き去る練習をよくしておりました。が、仙台向山は、高校総体では決勝で仙台三高にまけ、高校サッカー宮城大会でも準決勝で敗れてしまいました。仙台向山が全国大会に出場するのは、その後。初戦の島原商業に1回戦であたり見事にPKで勝ち、初戦を突破。テレビを見ていた酔漢も感動しました。が、延長とPKで放送時間がいっぱいとなり、あの美しい(手前味噌ですみません)校歌が聴けなかったのが残念でした。
鈴木さんは、卒業後、筑波大学に入学。大学選手権でも、国士舘(柱谷さんがおりました)早稲田(酔漢の従兄弟がおりましたし、仙台向山からは宍戸さんもおりました)といった強豪とともに、常に上位に食い込む成績を残しておりました。フジタ工業へ入社するも、J1で活躍することはなく、ベガルタの前身ブランメル仙台の一員としてチームを引ぱっておりました。今はみなさんご存知のようにアルビレックス新潟の監督やっておられます。それと、たけし軍団の助っ人でテレビに出てたりね。
酔漢が大学3年次、仙台市立中野中学校で教育実習をしましたが、こんな話を教室でいたしました。「神戸ユニバの日本代表キャプテンは宮城出身の鈴木淳さんです。で日本代表のキャプテンは加藤久さんです。宮城はサッカーのレベルは低いと言われますが、個人の力は、決して劣っているわけではありません。2人とも、日ごろの努力で世界に通用するプレイヤーになっていったのです」(自分の事を棚に上げて言っております。ご容赦を)
釣りの帰り、国道45号線で陸前浜田を過ぎたあたりに「加藤商店」がありました。加藤久さんのご実家です。そこを通るたびに、Jリーグが出来る前の宮城のサッカーのあれこれを思ってしまいます。
長くなってすみません。次回は、幻におわった仙台市立五橋中学校サッカー部の話を少ししたいと思います
このブログの次に「サッカー編4」をお話いたしておりました。が、再編集をいたしまして、2008年1月12日に再度更新しております。間はあくのですが、そちらをご覧ください。
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