鉄道好きな長男です。(これは以前書きましたが)その長男が、「とうちゃんのいた頃の仙石線って緑色だったんだよね」と聞いてきました。
「通学してたときは緑だった。今青でしょ。でその昔は赤白だったような気もしてるんだけど」
ここまで来ると、記憶がありません。
幼稚園に通う(実際は無認可の幼児園というところに通っていました。こまっつぁきの山の上)頃、松島に動物園がございまして(水族館の隣)よく連れて行ってもらいました。3~4才の頃の写真にはありますが、動物園の帰り、パークホテルでアイスクリームを食べるのが好きだったようです(パークホテルは確か酔漢小学校1年生位の頃に火災で焼失しております)その当時、電車での移動ですが、白、赤の電車だったような気がするわけです。
当然、このブログで書いております頃の仙石線は緑色の木造電車でした。
ここから後の話は息子から教えられました。
「たぶんそれ72系、73系じゃあないのかな。いろいろ、改良されているみたいだけどね」
車両の写真集とか見ても、全部同じに見えますものですから、「自分の乗る電車くらい覚えておいてよ」と再度息子に言われます。
「そうは言っても、別に電車に興味ないし、来れば乗る!って感じだったし。。」
今さらながら、「鉄」でもない酔漢の息子がどうして「鉄」になっているのか不思議ではありますが。
「Wikipedia」で「仙石線」を検索いたしました。なるほど流石に詳しく記載されておりました。でも読んでみても、何々系が何々系で何番台の車両がどうしてとか寒冷地用のどこそこを改良して云々。
「電車ってこんなに複雑だったのか?」
「だからおもしろいんでしょ!」
そうであったか。そこがおもしろいんであったか。だが、息子よ父にはどうしても興味がわかない。
「自転車の歯車の写真みてどこおもしろいの?」
「お前に自転車の美学がわからんのか。ちなみにこれは『シマノ デュラエース』と言ってその昔一斉を風靡したディレイラーなんだぞ。しかも俺の持っているGTタイプは生産量も少なく、希少価値が・・・」
「ハイハイ。それで終わり!自分の趣味は自分でおもしろければそれでいいの!私にはどっちもどっちだけどね」と家内の一言でおしまい。
元に戻します。
その「Wikipedia」に仙石線の歴史が年表で記載されております。いろいろ眺めておりましたらこんな記事が目に留まりました。
「1972年(昭和47年)塩竈市越ノ浦の仙石線の無人踏切で、仙台発石巻行き下り電車にダンプカーが衝突、1両目が脱線して松島湾に突っ込んだ(死者2名、重軽傷46名)」
ああ、あの日だ。思い出しました。
夏休みも終わりに近づいてきました。酔漢は、宿題の絵を描いておりました。酔漢の実家は塩竈市小松崎という高台にございます。酔漢の部屋は2階で、東側に窓があり、塩釜港がその窓から見えましたし、窓からは当時の東塩釜駅も見えました。
家庭教師の先生(「家庭教師が来た」参紹)が来る日でした。午後まだ昼過ぎたばかりだったと思います。市内中のサイレンが一斉になったようなけたたましい音が響き渡りました。(これ以来のサイレンの音はジャスコの事故までなかったわけですから「ジャスコな話2」参紹)
「酔漢、大変だっちゃ」母が部屋に入って来ました。
「何したのっしゃ?」
「電車とダンプ衝突したんだとっしゃ。今ニュースでやってるおん」
ベランダへ出て身を乗り出すと、救急車が何台も連ねて、45号線を走っていくのが見えました。もうサイレンはなりっぱなしです。
しばらくすると、テレビの現場中継が始まりました。
電車がくの字に折れ曲がり、僕らがハゼ釣りをしていたあたりの沼にトラック事突っ込んでいるのです。(Wikipediaの記載が誤っているのだと思います。後程詳細を)で、すぐさま電話がなりました。家庭教師のこがわ先生です(当時東北大学理学部化学科2年生)
「電車不通ですので、今日は休みます」
これはこれで当然な事情ですが。また電話が鳴りました。
しんどう君です(たびたび登場した悪がき一派?の一人)
「今から見さぁいがねぇか」と野次馬のお誘いでした
「あんたまさか見に行くってんじゃないんでしょうね」
母の一言で止めました。
夏休みの宿題どころではなくなり、もう何時間もベランダで眺めておりました。
事故現場は山の向こうでしたので、見えませんが。
夕方6時頃父が市場から戻りました。
「今から行ってみっぺ」となりました。
藤倉から裏を通り、丁度東北本線のトンネルの前で車を降り、大勢の野次馬の間を抜けながら現場近くまで行きました。
眼前の光景はすさまじいものでした。
おもちゃの車を踏み潰したようにダンプがペシャンコになり、電車も全面が大破。そしてその沼に突き刺さっているのでした。
電車を釣り上げる大型クレーンが準備をしている所でした。
この事故の事を同級生のちかこが、作文にしました。「恐ろしかった事故」という題です。「作文宮城」に掲載されました。
仙石線の事故は、これが最大ではないのかと思います。これより以前、本塩釜駅構内、宮町の踏み切りで観光バスが電車と接触、目黒歯科の前まで飛ばされた(死者はなし)事故があっただけだと記憶しております。(酔漢2年生の時だったと思います)
先ほど、Wikipediaの記載に「松島湾に突っ込んだ」とあった事を記載いたしましたが、事故の踏み切りから松島湾へは45号線を越えなくてはならず、湾の中とは言えないのではないかと推察いたします。ですがその沼は半海水の沼で、沼から直接松島湾へ流れている小さな川がありましたので、松島湾と閉鎖されている沼でありません。そういう意味では「松島湾」という表現が使われたのかも知れません。ただしイメージ的には、「海に突っ込んだ」と捕われかねない表現ではありますので、訂正した方がよいのではないかとこの場に於いて、私見を言わさせていただきます
映画「青葉繁れる」で仙石線が映ります。「チョロ松と多香子(この字だったよね)姉さん」が仙石線に乗っているシーンがあります。それを覗いている、稔等4人。当時走っていた一番古い車両。ボックスシートの車両なんだよね。
「通学してたときは緑だった。今青でしょ。でその昔は赤白だったような気もしてるんだけど」
ここまで来ると、記憶がありません。
幼稚園に通う(実際は無認可の幼児園というところに通っていました。こまっつぁきの山の上)頃、松島に動物園がございまして(水族館の隣)よく連れて行ってもらいました。3~4才の頃の写真にはありますが、動物園の帰り、パークホテルでアイスクリームを食べるのが好きだったようです(パークホテルは確か酔漢小学校1年生位の頃に火災で焼失しております)その当時、電車での移動ですが、白、赤の電車だったような気がするわけです。
当然、このブログで書いております頃の仙石線は緑色の木造電車でした。
ここから後の話は息子から教えられました。
「たぶんそれ72系、73系じゃあないのかな。いろいろ、改良されているみたいだけどね」
車両の写真集とか見ても、全部同じに見えますものですから、「自分の乗る電車くらい覚えておいてよ」と再度息子に言われます。
「そうは言っても、別に電車に興味ないし、来れば乗る!って感じだったし。。」
今さらながら、「鉄」でもない酔漢の息子がどうして「鉄」になっているのか不思議ではありますが。
「Wikipedia」で「仙石線」を検索いたしました。なるほど流石に詳しく記載されておりました。でも読んでみても、何々系が何々系で何番台の車両がどうしてとか寒冷地用のどこそこを改良して云々。
「電車ってこんなに複雑だったのか?」
「だからおもしろいんでしょ!」
そうであったか。そこがおもしろいんであったか。だが、息子よ父にはどうしても興味がわかない。
「自転車の歯車の写真みてどこおもしろいの?」
「お前に自転車の美学がわからんのか。ちなみにこれは『シマノ デュラエース』と言ってその昔一斉を風靡したディレイラーなんだぞ。しかも俺の持っているGTタイプは生産量も少なく、希少価値が・・・」
「ハイハイ。それで終わり!自分の趣味は自分でおもしろければそれでいいの!私にはどっちもどっちだけどね」と家内の一言でおしまい。
元に戻します。
その「Wikipedia」に仙石線の歴史が年表で記載されております。いろいろ眺めておりましたらこんな記事が目に留まりました。
「1972年(昭和47年)塩竈市越ノ浦の仙石線の無人踏切で、仙台発石巻行き下り電車にダンプカーが衝突、1両目が脱線して松島湾に突っ込んだ(死者2名、重軽傷46名)」
ああ、あの日だ。思い出しました。
夏休みも終わりに近づいてきました。酔漢は、宿題の絵を描いておりました。酔漢の実家は塩竈市小松崎という高台にございます。酔漢の部屋は2階で、東側に窓があり、塩釜港がその窓から見えましたし、窓からは当時の東塩釜駅も見えました。
家庭教師の先生(「家庭教師が来た」参紹)が来る日でした。午後まだ昼過ぎたばかりだったと思います。市内中のサイレンが一斉になったようなけたたましい音が響き渡りました。(これ以来のサイレンの音はジャスコの事故までなかったわけですから「ジャスコな話2」参紹)
「酔漢、大変だっちゃ」母が部屋に入って来ました。
「何したのっしゃ?」
「電車とダンプ衝突したんだとっしゃ。今ニュースでやってるおん」
ベランダへ出て身を乗り出すと、救急車が何台も連ねて、45号線を走っていくのが見えました。もうサイレンはなりっぱなしです。
しばらくすると、テレビの現場中継が始まりました。
電車がくの字に折れ曲がり、僕らがハゼ釣りをしていたあたりの沼にトラック事突っ込んでいるのです。(Wikipediaの記載が誤っているのだと思います。後程詳細を)で、すぐさま電話がなりました。家庭教師のこがわ先生です(当時東北大学理学部化学科2年生)
「電車不通ですので、今日は休みます」
これはこれで当然な事情ですが。また電話が鳴りました。
しんどう君です(たびたび登場した悪がき一派?の一人)
「今から見さぁいがねぇか」と野次馬のお誘いでした
「あんたまさか見に行くってんじゃないんでしょうね」
母の一言で止めました。
夏休みの宿題どころではなくなり、もう何時間もベランダで眺めておりました。
事故現場は山の向こうでしたので、見えませんが。
夕方6時頃父が市場から戻りました。
「今から行ってみっぺ」となりました。
藤倉から裏を通り、丁度東北本線のトンネルの前で車を降り、大勢の野次馬の間を抜けながら現場近くまで行きました。
眼前の光景はすさまじいものでした。
おもちゃの車を踏み潰したようにダンプがペシャンコになり、電車も全面が大破。そしてその沼に突き刺さっているのでした。
電車を釣り上げる大型クレーンが準備をしている所でした。
この事故の事を同級生のちかこが、作文にしました。「恐ろしかった事故」という題です。「作文宮城」に掲載されました。
仙石線の事故は、これが最大ではないのかと思います。これより以前、本塩釜駅構内、宮町の踏み切りで観光バスが電車と接触、目黒歯科の前まで飛ばされた(死者はなし)事故があっただけだと記憶しております。(酔漢2年生の時だったと思います)
先ほど、Wikipediaの記載に「松島湾に突っ込んだ」とあった事を記載いたしましたが、事故の踏み切りから松島湾へは45号線を越えなくてはならず、湾の中とは言えないのではないかと推察いたします。ですがその沼は半海水の沼で、沼から直接松島湾へ流れている小さな川がありましたので、松島湾と閉鎖されている沼でありません。そういう意味では「松島湾」という表現が使われたのかも知れません。ただしイメージ的には、「海に突っ込んだ」と捕われかねない表現ではありますので、訂正した方がよいのではないかとこの場に於いて、私見を言わさせていただきます
映画「青葉繁れる」で仙石線が映ります。「チョロ松と多香子(この字だったよね)姉さん」が仙石線に乗っているシーンがあります。それを覗いている、稔等4人。当時走っていた一番古い車両。ボックスシートの車両なんだよね。
脱出できずに溺死されたように記憶しております。