「14時56分仙台駅発石巻行 下り特別快速電車がまもなく発車いたします。途中停車駅は本塩釜・松島海岸・矢本・終点石巻の順に停車いたします。途中の駅には停車いたしませんのでご注意下さい」
小学校の頃、5時間で終了の水曜日は、少し早歩きをいたしますとこの特別快速に乗れるのでした。なんと言っても、本塩釜駅まで直通ですから、(当たり前ですが仙台の次が本塩釜駅)途中の駅を通過する快感はたまりません。4時前には家に着くわけですから、冬の日の短い間でも明るい時間でした。本当になんとなく得した気分になれました。
ある日の水曜、「日立ファミリーセンター」脇の時計を見ました。「このぶんだと特別快速に乗れる」酔漢は急ぎました。
その日、仙石線1番線に止まっていたのは「新型電車」でした。
仙石線初の鉄製電車です。
運転台が高いところにあり、ヘッドライトは丸目で2個。酔漢はボディーを叩いてみました、「やっぱり鉄は硬い」(あたりまえだっちゃ)ドアは両開きでした。
座れる余裕はあったものの、ドア側に立ちました。
モーター音が違います。静かだなと思いました。床が茶色でないせいか、車両の中が非常に明るいのです。何よりも新車のにおいが中に立ちこめていたのでした。
あっという間の本塩釜着。ところが「ドアが開かない!」両開きのドアですが、取っ手がなく(指を掛けるくぼんだ溝がありました)両手をかけて一気に体重をかけてようやくドアが開きました。考えてみれば、どこか都会の路線を自動ドアで走っていたわけですから、手であける事を想定して設計していないわけです。今はボタンですから楽ですよね。
次の日、さっそくクラスでその事を話しました。
「それじゃ、次の5時間授業の時に見に行こう」となりましたが。特別快速電車はいつもの通り、木製のゲタ電でした。
僕らは、その車両は、だいたい同じ時刻で運行されているものだと思っておりましたので、面喰らいました。
「Wikipedia」で出力いたしました仙石線の年表を眺めております。
上記に紹介いたしました新型電車の紹介はこうされておりました。
「1975年(昭和50年)2月1日『新型電車導入』記念乗車権発行」
記念乗車券が発行されていたならば、「買っておくべきだった」と今更ながら思うのでした。
酔漢この昭和50年から大学を卒業する時まで仙石線を使っておりました。その間には、電車も様変わりいたしました。今では電車内エアコンがあるのは当たり前ですが、酔漢高校時までエアコンの車両はありませんでした。
夏の朝、電車がエアコンのついた車両だと(屋根が盛り上がっているから分かるんだよね)ホームから拍手がおこりました。(酔漢も参加した)
ドブ臭かった本塩釜駅も移設し、新しい駅舎に変わりましたし、大学1年時(昭和58年)には休日ダイヤがはじめて導入されました。(これには参った。慣れるまで多少時間がかかりました)
前回のブログで岡本喜八監督「青葉繁れる」の話をいたしました。映画の最後の方に主人公一味が、仙台一高を去った、元校長「チョロ松」(ハナ肇 役)を尋ねるシーンがあります。田んぼの真ん中の駅舎は「陸前福田町」です。田植えが済んだばかりの田んぼの中でのおっかけっこで映画の幕が閉じます。映っていた電車は下駄電でした。
今では多くの住宅が立っておりますし、小鶴新田という駅も出来ております。風景はこの10年位(酔漢が仙台を離れてからも)で大分様変わりいたしました。
エアコンのない車両、当然窓を開けて走っております。特に陸前福田町で停車いたしますと、窓から虫が入ってくるわけです。酔漢ものすごくでかい蛾が車両に入って来た経験がございます。
朝の電車、陸前高砂駅で停車いたしますと、ちょうど駅の向えが「ひらつかパン」の工場ですので、なんともいえない焼きたてパンのにおいがいたしました。
これも、エアコンのない電車ならではの経験ですね。
仙石線が青に変わったのは、「田んぼの景色と一緒になるから、電車が遠くから見えにくいにくいから」というのを聞いた事があります。でも今では、周りの田んぼが消えて行っているわけですから、あまり関係ないのかもしれません。
東塩釜駅より先は単線に変わります。と同時に仙石線はローカル電車の様相に変わります。海の見える電車としては、風光明媚な線ではないでしょうか。
「今度一人で仙石線を各駅停車で石巻まで行ってみる」
長男が言いました。
「陸前大塚での写真も撮りたいし」
「いいよね、出来れば海から駅を撮ってみたいな」
船が必要ですが。酔漢も見て見たい気がするのでした。
12年使った仙石線ですので、いろんな事と出会いました。これから先、いろんなネタとして登場いたします。
小学校の頃、5時間で終了の水曜日は、少し早歩きをいたしますとこの特別快速に乗れるのでした。なんと言っても、本塩釜駅まで直通ですから、(当たり前ですが仙台の次が本塩釜駅)途中の駅を通過する快感はたまりません。4時前には家に着くわけですから、冬の日の短い間でも明るい時間でした。本当になんとなく得した気分になれました。
ある日の水曜、「日立ファミリーセンター」脇の時計を見ました。「このぶんだと特別快速に乗れる」酔漢は急ぎました。
その日、仙石線1番線に止まっていたのは「新型電車」でした。
仙石線初の鉄製電車です。
運転台が高いところにあり、ヘッドライトは丸目で2個。酔漢はボディーを叩いてみました、「やっぱり鉄は硬い」(あたりまえだっちゃ)ドアは両開きでした。
座れる余裕はあったものの、ドア側に立ちました。
モーター音が違います。静かだなと思いました。床が茶色でないせいか、車両の中が非常に明るいのです。何よりも新車のにおいが中に立ちこめていたのでした。
あっという間の本塩釜着。ところが「ドアが開かない!」両開きのドアですが、取っ手がなく(指を掛けるくぼんだ溝がありました)両手をかけて一気に体重をかけてようやくドアが開きました。考えてみれば、どこか都会の路線を自動ドアで走っていたわけですから、手であける事を想定して設計していないわけです。今はボタンですから楽ですよね。
次の日、さっそくクラスでその事を話しました。
「それじゃ、次の5時間授業の時に見に行こう」となりましたが。特別快速電車はいつもの通り、木製のゲタ電でした。
僕らは、その車両は、だいたい同じ時刻で運行されているものだと思っておりましたので、面喰らいました。
「Wikipedia」で出力いたしました仙石線の年表を眺めております。
上記に紹介いたしました新型電車の紹介はこうされておりました。
「1975年(昭和50年)2月1日『新型電車導入』記念乗車権発行」
記念乗車券が発行されていたならば、「買っておくべきだった」と今更ながら思うのでした。
酔漢この昭和50年から大学を卒業する時まで仙石線を使っておりました。その間には、電車も様変わりいたしました。今では電車内エアコンがあるのは当たり前ですが、酔漢高校時までエアコンの車両はありませんでした。
夏の朝、電車がエアコンのついた車両だと(屋根が盛り上がっているから分かるんだよね)ホームから拍手がおこりました。(酔漢も参加した)
ドブ臭かった本塩釜駅も移設し、新しい駅舎に変わりましたし、大学1年時(昭和58年)には休日ダイヤがはじめて導入されました。(これには参った。慣れるまで多少時間がかかりました)
前回のブログで岡本喜八監督「青葉繁れる」の話をいたしました。映画の最後の方に主人公一味が、仙台一高を去った、元校長「チョロ松」(ハナ肇 役)を尋ねるシーンがあります。田んぼの真ん中の駅舎は「陸前福田町」です。田植えが済んだばかりの田んぼの中でのおっかけっこで映画の幕が閉じます。映っていた電車は下駄電でした。
今では多くの住宅が立っておりますし、小鶴新田という駅も出来ております。風景はこの10年位(酔漢が仙台を離れてからも)で大分様変わりいたしました。
エアコンのない車両、当然窓を開けて走っております。特に陸前福田町で停車いたしますと、窓から虫が入ってくるわけです。酔漢ものすごくでかい蛾が車両に入って来た経験がございます。
朝の電車、陸前高砂駅で停車いたしますと、ちょうど駅の向えが「ひらつかパン」の工場ですので、なんともいえない焼きたてパンのにおいがいたしました。
これも、エアコンのない電車ならではの経験ですね。
仙石線が青に変わったのは、「田んぼの景色と一緒になるから、電車が遠くから見えにくいにくいから」というのを聞いた事があります。でも今では、周りの田んぼが消えて行っているわけですから、あまり関係ないのかもしれません。
東塩釜駅より先は単線に変わります。と同時に仙石線はローカル電車の様相に変わります。海の見える電車としては、風光明媚な線ではないでしょうか。
「今度一人で仙石線を各駅停車で石巻まで行ってみる」
長男が言いました。
「陸前大塚での写真も撮りたいし」
「いいよね、出来れば海から駅を撮ってみたいな」
船が必要ですが。酔漢も見て見たい気がするのでした。
12年使った仙石線ですので、いろんな事と出会いました。これから先、いろんなネタとして登場いたします。
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