昭和二十年七月 小澤治三郎連合艦隊司令長官の布告です。
ここに改めてご紹介いたします。
機密聯合艦隊艦隊告示第一一四號
布告
第一遊撃舞台ノ大部
昭和二十年四月初旬海上特攻隊トシテ沖縄島周辺ノ敵艦隊ニ對シ
壮烈無比ノ突入作戦ヲ決行シ帝国海軍ノ傳統ト我水上部隊ノ精筆ヲ
遺憾ナク発揚シ艦隊司令長官ヲ先頭ニ幾多忠勇ノ士皇國護持ノ大義
ニ殉ズ報國ノ至誠心肝ヲ貫キ忠烈万世ニ燦タリ
仍テ茲ニ其ノ殊勲ヲ認メ全軍ニ布告ス
昭和二十年七月三十日
聯合艦隊司令長官
小澤治三郎
GF司令長官小澤治三郎の名で、全軍に布告されました上記の文です。
ここに二つのキーワードを見る事が出来ます。
一つは「海上特攻隊トシテ・・」
もう一つは「突入作戦ヲ決行シ・・・」
です。
GFは「海上特攻」と認識し、そしてこれは「突入作戦」であったとしております。
作戦後の後付の感もするのですが、これは戦中においても、「坊ノ岬沖海戦は海上特攻作戦であった」と共通認識している事を表しているものだと考えられます。
しかし、この「特攻」という言葉にかき消されがちな史実も浮かんでまいります。
今一度、作戦の詳細をみておく必要があります。
GF電令作第六〇三号(GF機密電第〇五一三五九番電)
第一遊撃部隊〔大和、二水戦(矢矧及駆逐艦×六)〕ハ海上特攻トシテ八日黎明沖縄ニ突入ヲ目途トシ 急速出撃準備ヲ完成スベシ
GF電令作第六〇七号(GF機密電第〇五一五〇〇番電)
一、 帝国海軍部隊及六航軍ハX日(六日以降)全力ヲ挙ゲテ沖縄周辺艦船ヲ攻撃撃滅セントス
二、 陸軍第八飛行師団ハ右ニ協力攻撃ヲ実施ス
第三十二軍ハ七日ヨリ総攻撃ヲ開始 敵陸上部隊ノ掃滅ヲ企図ス
三、 海上特攻隊ハY-1日黎明時豊後水道出撃 Y日黎明時沖縄西方海面ニ突入 敵水上艦艇並ニ輸送船団ヲ攻撃撃滅スベシ
Y日ヲ八日トス
「海上特攻隊」とは「1YB」(第一遊撃部隊)を指すことは上記電令からも解ります。
この作戦文が戦後そして現在にいたっても、大きな「こだわり」となって尾を引いております。
そして、四月六日GF司令長官豊田副武は2Fへ以下の電文を発します。
(略)海上特攻隊ヲ編成 壮烈無比ノ突入作戦ヲ命ジタルハ帝国海軍力ヲ此ノ一戦ニ結集シ光輝アル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揚スルト共ニ其ノ栄光ヲ後昆ニ伝ヘントスルニ外ナラズ(略)
ここでも、「海上特攻隊」という言葉が使われております。
上記の視点から、「戦艦大和 生還者たちの証言から」(岩波新書1088 栗原俊夫氏著)では以下のように結論されております。
第二艦隊の出撃は、命令する方も「特攻」と認識していた。しかしそれは、二つの意味で「普通の特攻」ではなかった。(同書 194ページより抜粋)
では、「普通の特攻」と「そうでない特攻」と一体どこに違いがあるのか。そうした疑問が出てまいります。
以下を読み進めてみます。
特攻、すなわち「特別攻撃」とは飛行機や小型潜水艦などで敵に突っ込む、生還を期さない攻撃のことだ。(中略)特攻が志願か強制だったかは、今も議論が分かれている。形だけ意志を聞くものの、到底断ることができない雰囲気だったという指摘が多い。
(同書 194ページより抜粋)
筆者はこの後、特攻を拒否した実例として「芙蓉部隊」「美濃部正少佐」の例を挙げておられます。
この本文から少しそれますが、「伊藤司令長官はこの作戦に難色を示したものの、結果この作戦を受領し実行した」と論じておられます。
そして結果、この沖縄突入作戦は「特攻であった」と結論付ておられます。
そうです。本日、ここまで語りました史実を考えますれば、「大和以下沖縄突入作戦」は「水上部隊による特攻作戦」に間違いないのです。
ですが、酔漢が考えるのは「ここまでは」なのです。
「ここから先」は「特攻作戦」と言うにはあまりにも、「特攻的ではなかった」と見るのが妥当ではないか。そう私見を述べさせていただきたく存じます。
「特攻」とは。その最初を語ります。
組織的な特攻は昭和19年10月、海軍航空隊がフィリピンで開始したというのが通説です。
最近はその定説も定かでは無くなってまいりましたが「大西瀧次郎中将」が創始とされております。中将自ら「統率の外道」と語っておりました。
時の及川総長が「搭乗員の崇高な精神に基づかれ、決してこれを命令したり、強要することはならない」と話したとされております。
一機の飛行機で一隻の小型艇で、たった一人で敵に突っ込む。
酔漢には想像できずにおります。
前回もお話しましたが、その崇高な精神によって散っていかれた多くの方達と、やはり一線を引く必要があるのではないか。酔漢はそう考えます。
結果、第二艦隊戦死者は「特攻戦没者平和祈念協会」戦死者名簿において「準特攻」としてあります。
この「準特攻」には「回天」戦死者名簿も記載されております。
同協会は「事実上の特攻」と認めているものの「歴史の混乱を避ける」という意味で「準」という表現をしております。
「回天は特攻ではない」これにはいささか驚いた酔漢です。
初期型は中から脱出できたからかと推察しておりますが、どんな理由なのか。
しかし、「特攻に正規も『準』もあるか!」
こう思わざるを得ない酔漢です。
次回もこの話題を続けます。
「なんだや?準って。特攻に準なんてつけてもや死んだことには変わりねぇんだ」
父の一言です。
ここに改めてご紹介いたします。
機密聯合艦隊艦隊告示第一一四號
布告
第一遊撃舞台ノ大部
昭和二十年四月初旬海上特攻隊トシテ沖縄島周辺ノ敵艦隊ニ對シ
壮烈無比ノ突入作戦ヲ決行シ帝国海軍ノ傳統ト我水上部隊ノ精筆ヲ
遺憾ナク発揚シ艦隊司令長官ヲ先頭ニ幾多忠勇ノ士皇國護持ノ大義
ニ殉ズ報國ノ至誠心肝ヲ貫キ忠烈万世ニ燦タリ
仍テ茲ニ其ノ殊勲ヲ認メ全軍ニ布告ス
昭和二十年七月三十日
聯合艦隊司令長官
小澤治三郎
GF司令長官小澤治三郎の名で、全軍に布告されました上記の文です。
ここに二つのキーワードを見る事が出来ます。
一つは「海上特攻隊トシテ・・」
もう一つは「突入作戦ヲ決行シ・・・」
です。
GFは「海上特攻」と認識し、そしてこれは「突入作戦」であったとしております。
作戦後の後付の感もするのですが、これは戦中においても、「坊ノ岬沖海戦は海上特攻作戦であった」と共通認識している事を表しているものだと考えられます。
しかし、この「特攻」という言葉にかき消されがちな史実も浮かんでまいります。
今一度、作戦の詳細をみておく必要があります。
GF電令作第六〇三号(GF機密電第〇五一三五九番電)
第一遊撃部隊〔大和、二水戦(矢矧及駆逐艦×六)〕ハ海上特攻トシテ八日黎明沖縄ニ突入ヲ目途トシ 急速出撃準備ヲ完成スベシ
GF電令作第六〇七号(GF機密電第〇五一五〇〇番電)
一、 帝国海軍部隊及六航軍ハX日(六日以降)全力ヲ挙ゲテ沖縄周辺艦船ヲ攻撃撃滅セントス
二、 陸軍第八飛行師団ハ右ニ協力攻撃ヲ実施ス
第三十二軍ハ七日ヨリ総攻撃ヲ開始 敵陸上部隊ノ掃滅ヲ企図ス
三、 海上特攻隊ハY-1日黎明時豊後水道出撃 Y日黎明時沖縄西方海面ニ突入 敵水上艦艇並ニ輸送船団ヲ攻撃撃滅スベシ
Y日ヲ八日トス
「海上特攻隊」とは「1YB」(第一遊撃部隊)を指すことは上記電令からも解ります。
この作戦文が戦後そして現在にいたっても、大きな「こだわり」となって尾を引いております。
そして、四月六日GF司令長官豊田副武は2Fへ以下の電文を発します。
(略)海上特攻隊ヲ編成 壮烈無比ノ突入作戦ヲ命ジタルハ帝国海軍力ヲ此ノ一戦ニ結集シ光輝アル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揚スルト共ニ其ノ栄光ヲ後昆ニ伝ヘントスルニ外ナラズ(略)
ここでも、「海上特攻隊」という言葉が使われております。
上記の視点から、「戦艦大和 生還者たちの証言から」(岩波新書1088 栗原俊夫氏著)では以下のように結論されております。
第二艦隊の出撃は、命令する方も「特攻」と認識していた。しかしそれは、二つの意味で「普通の特攻」ではなかった。(同書 194ページより抜粋)
では、「普通の特攻」と「そうでない特攻」と一体どこに違いがあるのか。そうした疑問が出てまいります。
以下を読み進めてみます。
特攻、すなわち「特別攻撃」とは飛行機や小型潜水艦などで敵に突っ込む、生還を期さない攻撃のことだ。(中略)特攻が志願か強制だったかは、今も議論が分かれている。形だけ意志を聞くものの、到底断ることができない雰囲気だったという指摘が多い。
(同書 194ページより抜粋)
筆者はこの後、特攻を拒否した実例として「芙蓉部隊」「美濃部正少佐」の例を挙げておられます。
この本文から少しそれますが、「伊藤司令長官はこの作戦に難色を示したものの、結果この作戦を受領し実行した」と論じておられます。
そして結果、この沖縄突入作戦は「特攻であった」と結論付ておられます。
そうです。本日、ここまで語りました史実を考えますれば、「大和以下沖縄突入作戦」は「水上部隊による特攻作戦」に間違いないのです。
ですが、酔漢が考えるのは「ここまでは」なのです。
「ここから先」は「特攻作戦」と言うにはあまりにも、「特攻的ではなかった」と見るのが妥当ではないか。そう私見を述べさせていただきたく存じます。
「特攻」とは。その最初を語ります。
組織的な特攻は昭和19年10月、海軍航空隊がフィリピンで開始したというのが通説です。
最近はその定説も定かでは無くなってまいりましたが「大西瀧次郎中将」が創始とされております。中将自ら「統率の外道」と語っておりました。
時の及川総長が「搭乗員の崇高な精神に基づかれ、決してこれを命令したり、強要することはならない」と話したとされております。
一機の飛行機で一隻の小型艇で、たった一人で敵に突っ込む。
酔漢には想像できずにおります。
前回もお話しましたが、その崇高な精神によって散っていかれた多くの方達と、やはり一線を引く必要があるのではないか。酔漢はそう考えます。
結果、第二艦隊戦死者は「特攻戦没者平和祈念協会」戦死者名簿において「準特攻」としてあります。
この「準特攻」には「回天」戦死者名簿も記載されております。
同協会は「事実上の特攻」と認めているものの「歴史の混乱を避ける」という意味で「準」という表現をしております。
「回天は特攻ではない」これにはいささか驚いた酔漢です。
初期型は中から脱出できたからかと推察しておりますが、どんな理由なのか。
しかし、「特攻に正規も『準』もあるか!」
こう思わざるを得ない酔漢です。
次回もこの話題を続けます。
「なんだや?準って。特攻に準なんてつけてもや死んだことには変わりねぇんだ」
父の一言です。
敵はバカな行動だと言いながら恐れていたのでしょう。
私は、自分の息子が神風で特攻などになったら、国を許せませんね。
軍事国家とは恐ろしいものです。
それが当たり前で立派な行動だとマインドコントロールされるわけですから。
今はそうでは無いとも言えないようです。
自衛隊の中でもやはり教育している中で、命を掛けて国家を守るという。意識が働いてくるそうです。
他国を嘗めてかかると、日本はどこかの国に占領されてしまうのでは?と思うこの頃です。
最近のことでも、言った、言わない、でもめるので何十年も前のことですら何が本当か、神のみぞ知る、でしょうね。
岩波は左で、著者も社会党なので、その立場から書かれているのでしょう。
生き残って、偉くなって、当時の軍部を批判する人たちって、戦時中は逃げたりして、虐げられてた人が多かったのでしょう。もう実戦経験者がほとんどいなくなったから、読売の渡辺会長みたいな、戦時中は学生で、のちに共産党に入って、それから転向して、という人たちが軍部の批判をする。こういう構図でしょう。しかし今では右翼新聞の会長ですからね。
生き残った人たちが史実を正確に伝えないと勇敢に戦って死んだ人がバカを見る。みんな自分がかわいいから、当時の自分の立場、考えを正直に言う人はいないと思いますけど。
大和を戦艦ではなく、沖縄の陸の要塞にするつもりだったという話も聞いたことがありますが、どうなんでしょう?
飛行機の援護のない丸裸状態では、沖縄にたどり着くのは極めて困難だとは認識していても、当時の状況から、飛行機が飛べない天候であれば、運よく沖縄まで到達できる、という期待もあったのではないかと思います。
お詫び申し上げます。
特攻という意識は戦後おおきくなったことはあると思います。
私達遺族でもそうだと思います。
しかしながら、多くのご生還された方のお話を整理いたしますと、戦闘中は自身の仕事に全うすることしか頭になかったと、こう申しております。
一人一人の考えはあるのですが、祖父はどうだったろうと、ふと考えてしまいます。
申し訳ございません。
大和を砲台。そして陸戦。
これはGFのシナリオにはあったのです。
ですが、途中の空襲、敵潜水艦の雷撃は激しいものが予測され、「沖縄までは行きつけない」のは、GFの戦術研究からも明らかでございました。豊田GF司令長官は「確立的に五分であった」と戦後証言されておられますが、本音はどうであったでしょう。
自身の結論、史観を述べてからコメントをしようと考えましたので、遅れました。
但し傾斜が一定の値を超すと(十度未満だったと思います)、戦艦は主砲を撃てなくなります。
GF司令部で大和の沖縄突入を立案したのは神先任参謀でしたね。
サイパンに米軍が来襲した時も、この人は
「自分を戦艦の艦長にして欲しい。それを指揮してサイパンに突っ込む」
と言っています。
神さん、確か鉄砲屋でしたね。
艦が陸にのし上げたら主砲が撃てなくなるということを、
知らないはずはないと思うのです。
但し水上艦艇の砲で陸上の目標を撃つすることはあります。
昭和十七年に第三戦隊の金剛と榛名が
ガダルカナル島のヘンダーソン飛行場を砲撃しました。
ガダルカナル島への艦砲射撃はその後も何度か実施されており、
米軍が島伝いに侵攻する段階で
何層倍も強力に繰返しております。
大和の沖縄突入が後世「特攻」と称せられるように、
「陸上の米軍を砲撃⇒陸にのし上げて砲台となる」と、
話が独り歩きしてしまったのではないでしょうか。
飽くまでも想像の域を出ませんが。
美濃部少佐の話は私も読みました。
朝日ソノラマ文庫で『彗星夜戦隊』の題名で入っていたような気がします。
松山の三四三航空隊でも似たような話があったと聞きます。
司令の源田大佐から特攻編成を打診された飛行長の志賀少佐が
「その時は司令が真っ先に突っ込んで下さい。
私がその後に続きます・・・」と
言ったそうです。
海軍航空隊が練習機すら繰出して特攻を実施し、
暗に特攻編成を求める周りの雰囲気の中で特攻を拒否する勇気は
並大抵のことではありません。
それならば生きたまま目標に突入するのは、たやすいことだったでしょうか。
決してそんなことはありません。
航空特攻の場合は突入地点までの数時間、
一人で飛行機を操縦しなくてはならないのです。
これは回天でも震洋でも大差ありません。
米軍には理解の及ばぬ所で、
「死の恐怖を紛わすために酒や麻薬に頼ったのだ(いわゆるトランス状態で突入したのだ)」
などという説も唱えられました。
しかし考えてみましょう。
トランス状態でまともに飛行機や潜水艇の操縦ができるでしょうか。
孤独に耐え、
敵の防禦砲火の中で確実に目標に命中する沈着さと技術が要求されるのです。
尋常一様の精神力では務まりません。
いずれにせよ戦後生れの私には想像もつきません。
9・11の事件がありました。
いかなる事件かは申し上げるまでもないでしょう。
特攻は自爆攻撃であり、
「神風」という言葉がその代名詞になりました。
あの9・11の無差別テロを一部マスコミが「カミカゼ」と表現したのも、
犯人が乗っ取った旅客機で高層ビルに自爆したからだと思います。
とはいえ両者には重大な違いがあります。
特攻隊の攻撃目標は飽くまでも戦闘艦艇と輸送船でした。
民間人を巻き込んで民間施設を目標にした無差別テロを
「カミカゼ」のなで呼ぶことだけはやめて欲しいです。