酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

祖父・海軍そして大和 遺族として、家族として 準特攻 弐

2011-02-08 09:58:04 | 大和を語る
戦艦大和を旗艦とする特攻艦隊
戦没戦士第三十三回忌合同慰霊祭

祭主 戦艦大和会会長 古村啓蔵
協賛 徳之島伊仙町長 樺山信忠

昭和五十二年二月

上記写真は父宛に届きました「合同慰霊祭案内状」でございます。
父はこの春、徳之島へ出かけております。
三十三回忌ということもあり多くの方がご出席されておられます。
以前、原為一さんと古村啓蔵さんのお写真を公開いたしました。これはそのときのものでございます。
ご生還された方の名簿を紐解きます。
嘗て、この「くだまき」でご登場された方を中心にご紹介いたします。

(旧所属に於きまして「元」は省略いたしました)

呉海軍工廠 造船部長 庭田尚三さん
2F副官 石田恒夫さん(奥様とご出席されておられます)
大和測距手 坂本一郎さん
大和副砲員 三笠逸男さん
涼月操舵長 松岡洋仁さん

同会懇親会の名簿からは

2F通信 渡辺光男さん
大和電測士 吉田満さん
大和機銃分隊 小林昌信さん
大和通信士 都竹卓郎さん
二水戦司令 板谷隆一さん
二水戦司令 大迫吉二さん
矢矧航海長 川添亮一さん
雪風艦長 寺内正道さん
冬月艦長 山名寛雄さん

同会役員の名簿からは

矢矧艦長 原為一さん
大和副砲長 清水芳人さん
初霜艦長 酒匂雅三さん
涼月砲術長(先任将校)倉橋友二郎さん

ご遺族の中には、日系二世でアメリカ軍通信を傍受しておられました「中谷邦夫中尉」ご家族もロスアンゼルスよりご参加されておいででした。

他、多数のご参列者をもちまして開催されました合同慰霊祭なのです。
酔漢はその翌年の会に参加いたしました。(靖国神社)

この名簿を拝読いたしますと、ご生還された方が積極的にご参加されておられるのが解ります。
酔漢に今の経験と知識がありますれば、皆様と事細かにお話がいたしたかった。
そう思わざるを得ません。

そうです。本日の話題から少しそれました。
お気づきでしょうか。会の名称が「戦艦大和を旗艦とする特攻艦隊戦没戦士・・」となっているのです。
会はその第一回から終始その名称を変えてはおりません。
「特攻艦隊・・」という認識でございます。

三笠さんはこう申しておりました。
「特攻といえば特攻のつもり、GFの命令書もそうだし、副長(大和副長 能村次郎さん)もそう話されておられた。それは総員の意識としてそういう気持ちだった」と。
ですが二階級特進ではないことにもふれ。
「特攻というには特攻ではないのでしょう。総員上甲板が命令され、残った艦が多くの生還者(「多くの」というのは意見が分かれるところではございますが、そのまま掲載いたします)を残している。生還者がこれだけいるというのは作戦を中止したからであり、作戦の中止である以上『特攻』ではないのでしょう」と。
三笠さんのお話からですと「特攻作戦に中止はありえない。ありえないから特攻」であり、「中止であったから特攻ではない」という図式に行きつきます。
ですが、遺族の間、また「大和会」でも冒頭え使われております「海上特攻作戦」の言葉の意味はどこにあるのでしょうか。
再び三笠さんのお言葉をおかりいたします。
「特攻という言葉が簡単に使われたそんな時代だったから・・」
「一億総特攻」という張り紙が電信柱に張り付けられている。そんな街中の風景を写真でみたことがあります。
「国の末期症状」を象徴するような風景として語られる事が多いこの写真です。
昭和二十年では「特攻」という言葉の重みが無くなり薄れている。そんな状況ではなかったのかと。後に生まれ育った酔漢ではそう思うしか材料がございません。

再び、「岩波新書 戦艦大和生還者たちの証言から」を見てみます。

しかしほとんどの兵士たちには、「特攻」に参加するかどうか決める機会はなかった。彼らにとって「特攻」は初めから強制だったのだ。
この見方については反論もある。当時「一億総特攻」という表現が、軍人、市民の間でも使われた。一億人が実際に特攻するわけではなく、気分を表した表現だろう。大和以下の「水上特攻」も、同じ意味で使われた、という指摘だ。
だが、実際に命令書に明記され、また出撃したという点で、「水上特攻」が単なる比喩だったと見るのは妥当ではない。
(同書、195頁~196頁 より抜粋)

これは、妥当だと見るべきだと酔漢もそう考えております。が、比喩ではないが「使わらずを得なかった」事実であり、これは、GFとも2Fともそうであろうと、斯様に推察するわけです。
命令を作成し下令しそれを実行する、のは、軍である以上当然のことであり、部隊が命令を拒否する権利は存在しません。
全ての作戦においては、戦争である以上、損害はあるのです。
ここで使われている「特攻」という言葉は、これまで使われてはこなかった「特攻」または「特攻的」という表現を、航空機が実際に行っている「特攻」に対して使われたのではないかと、そう考えます。
結論です。GFの命令書は「航空機特攻」に対する「水上部隊の作戦」でも「そうした表現を使わざるを得なかった」事実からこの言葉が使われたのだと。

伊藤整一第二艦隊司令長官、古村啓蔵第二水雷戦隊司令官とも、「特攻という言葉が使われた無謀な作戦」に対して、多くの反抗を見せております。
細かい点を検証してまいりましたが、今一度その詳細を語ります。

「作戦は中止」だったのです。そしてこれを下令した最高責任者は「伊藤整一司令長官」なのです。
GFも最終的にはそれを容認し、帰還を命じております。
その布石となるところから次回を語ります。

航空機の特攻には「途中中止」はありえないのです。天候により「作戦中止」はあっても、たとえ途中で何かがあっても、海上にただそのまま突っ込むしかないのです。

再度の私見です。
「彼ら、とこの大和以下の特攻には、大きな隔たりがあるのです」
一緒に論じてはならない。
これは酔漢の持論です。


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