履歴書の一部を公開いたします。これは海軍から発行される公式なものです。おそらく、祖母が写し取ったものと推察いたしております。
まずは、祖父の履歴書をご紹介いたします。
第二十三号書式(ロ)
履歴書
(退職当時の官職名氏名印)
海軍中尉
酔漢祖父
明治三十八年二月十日 生
大正14年6月1日 横須賀海兵団 入団
同日 海軍四等水兵ヲ命ズ
同年 10月29日 海軍三等水兵ヲ命ズ
昭和2年 5月1日 海軍二等水兵ヲ命ズ
昭和3年 5月1日 海軍一等水兵ヲ命ズ
昭和6年 5月1日 任海軍三等兵曹
昭和8年 5月1日 任海軍二等兵曹
昭和10年 11月1日 任海軍一等兵曹
上記分が、写真掲載以前の祖父の履歴書です。
海軍通信学校に入学後、即海兵団勤務。この間、比叡、長門へも乗艦しておりますいつか、その水兵時代の「戦艦比叡」艦上写真を掲載しようと思っておりますが、その大勢(本当に大勢過ぎて誰がなんだかわからない写真。全部主砲だけが覗いている感じの集合写真です)の中で、写っております。
技術的な部におりましたから、出世は早いほうではなかったかと考えます。
祖父は「海兵団」入隊ではありましたが、「水雷屋」とも「陸戦隊」とも言われます。その時々で通信に携わる部隊編入が違っておった為であって、海軍の中での通信の重要性が伺われます。
「通信室と言えば、艦艇の中では『艦長室』に次いで豪華なことと相場が決まっていた。だがこの駆逐艦『菊』ではどうか。通信機はおいてあるもののボロボロのレシーバーとメモ紙に使う紙がそこらじゅうに散乱し机も木製の足がしっかりしていないしろものであった」大高勇治氏証言(「海の狼 第七駆逐隊」著者。酔漢祖父の戦友)
案外、のんびりしていた「酔漢祖父」ではなかったかと想像しております。
昭和16年 10月25日 横須賀海兵団勤務を命ズ
同年 10月31日 任海軍兵曹長
同日 服役延期解止
同日 充員召集ヲ発セラル
同日 横須賀鎮守府ヲ命ズ
昭和19年 11月1日 任海軍少尉
同年 11月20日 補第二艦隊司令部附
昭和20年 4月7日 任海軍中尉
同日 戦死 西部太平洋方面
開戦前後です。写真の文面を整理いたしました。
ここで、1つ注目しなければならない人事がございます。
祖父が第二艦隊司令部附きとなりますのが昭和19年(1944年11月20日)です。伊藤整一(略称させていただきます。ご容赦下さい)が第二艦隊司令長官を拝命するのが昭和19年12月23日附ですから、約一ヶ月程のズレがあります。
酔漢は当初、伊藤整一司令長官と同じタイミングでの発令かと考えておりましたが、実際はこのように違っておりました。
この時期には、連合艦隊はほぼ解体しており、唯一残された戦闘可能な水上部隊が「第二艦隊」だったのでした。
そして、第二艦隊所属となる艦が大和の他にもう一隻。空母「信濃」でした。
信濃が横須賀から呉へ回航する際、アメリカの潜水艦「アーチャーフィッシュ」のより撃沈これが11月29日。
祖父の二艦隊司令部附は丁度この日と微妙に一致いたします。
私見ではございますが、祖父の「信濃乗艦」はあり得た話だと考えます。
前回、祖父の「大和艦上での集合写真」を掲載いたしました。これが昭和20年正月です。伊藤司令長官が大和へ乗艦したのはその三日後として、第二艦隊司令部が大和へ移乗したのはその前ですから、祖父の大和乗艦は昭和19年11月末となります。
レイテ沖海戦時の艦長「森下参謀長」が伊藤司令長官を大和艦上で出迎える事実がございます。もうすでに祖父は呉におるのでした。
ところで付け加えさせて頂きますが、海軍当時「第二艦隊司令部」は後の歴史によって明らかになったことでございます。ですから公には「第二艦隊」とは呼ばれておりません。当時の公式記録には部隊名として「ウ556司令部」となります。
祖父は大和内から複数の葉書を七ヶ浜村花渕へ送付しております。この検閲には
「呉局 ウ556 検閲」との印がされております。これも1つの暗号の部類かと考えます。
祖父が呉へ行く直前、父と叔父(父の兄。昭和32年 事故で亡くなっております)
は、祖父の東京へ呼び出されます。七ヶ浜から東京へ。
そこで三人は「明治神宮」そして「靖国神社」へと参拝いたします。
父はまだ祖父がどの部隊に所属しているのか知らされておりません。時々来る手紙から「呉にいるんだ」とは思っていたらしいのです。
祖父はその際こう話したと聞きました。
「今度いるの艦なんだけんどっしゃ。ぜってぇい沈まねぇ艦だからしんぺぇすっこたぁねぇど」と。
父はこの時「もしかしたら『大和』にいるのでは」と思ったそうです。
祖父が息子達と会った最後の日でした。
祖母は呉まで行っているかもしれませんが、定かではありません。
開戦時から暗号特務の中で仕事をしていた祖父でございますから、戦闘状況については全て知っておったと考えるのは普通だと思うのです。暗号通信そして兵曹長、少尉でしたからGFからの通信は全て見る事が出来た立場でした。
丹治様から個人メールで「『海軍さぁ来んな』的な発言をしたのはミッドウェーの前か後か」と質問を受けました。おそらく、祖父の事ですから作戦の前後でその考えが変わっていたとは思いません。父からは幼少の頃から「海軍さぁ来んでねぇど」と言われていたらしいのです。そうは申しましても、七ヶ浜からの入隊希望者へ「なしてここさぁ来たのすか?」と聞く祖父です。当時の戦況が頭に入っていなかったとも思えません。
そして、司令長官「伊藤整一」も同じです。
「ウ556司令部 司令長官」となったその瞬間。
「かたわの(表現上使用いたしました。他意はございません)水上部隊。大和をはじめどう使っていくのか。これは難しい・・」
岩国へと向う飛行機の中。何度も自問自答を繰り返していたのでした。
「長官、まもなく岩国です」
「そうか・・・」
「お父さん、勝たなくては帰れませんよ」
妻の言葉を思い出しました。
「勝っても負けても・・帰れんがな・・・」伊藤は独り言を繰り返しておりました
「長官、何か?」
「いや・・なんでもない・・」
「岩国航空基地では『有賀幸作』(あるがこうさく)艦長がお待ちです」
「有賀君か・・初めてだな・・中澤君が何かと彼を可愛がっていたな」
軍令部作戦部長中澤の諏訪での後輩であったと思い出したのでした。
伊藤整一。岩国航空基地に降り立ちました。
まずは、祖父の履歴書をご紹介いたします。
第二十三号書式(ロ)
履歴書
(退職当時の官職名氏名印)
海軍中尉
酔漢祖父
明治三十八年二月十日 生
大正14年6月1日 横須賀海兵団 入団
同日 海軍四等水兵ヲ命ズ
同年 10月29日 海軍三等水兵ヲ命ズ
昭和2年 5月1日 海軍二等水兵ヲ命ズ
昭和3年 5月1日 海軍一等水兵ヲ命ズ
昭和6年 5月1日 任海軍三等兵曹
昭和8年 5月1日 任海軍二等兵曹
昭和10年 11月1日 任海軍一等兵曹
上記分が、写真掲載以前の祖父の履歴書です。
海軍通信学校に入学後、即海兵団勤務。この間、比叡、長門へも乗艦しておりますいつか、その水兵時代の「戦艦比叡」艦上写真を掲載しようと思っておりますが、その大勢(本当に大勢過ぎて誰がなんだかわからない写真。全部主砲だけが覗いている感じの集合写真です)の中で、写っております。
技術的な部におりましたから、出世は早いほうではなかったかと考えます。
祖父は「海兵団」入隊ではありましたが、「水雷屋」とも「陸戦隊」とも言われます。その時々で通信に携わる部隊編入が違っておった為であって、海軍の中での通信の重要性が伺われます。
「通信室と言えば、艦艇の中では『艦長室』に次いで豪華なことと相場が決まっていた。だがこの駆逐艦『菊』ではどうか。通信機はおいてあるもののボロボロのレシーバーとメモ紙に使う紙がそこらじゅうに散乱し机も木製の足がしっかりしていないしろものであった」大高勇治氏証言(「海の狼 第七駆逐隊」著者。酔漢祖父の戦友)
案外、のんびりしていた「酔漢祖父」ではなかったかと想像しております。
昭和16年 10月25日 横須賀海兵団勤務を命ズ
同年 10月31日 任海軍兵曹長
同日 服役延期解止
同日 充員召集ヲ発セラル
同日 横須賀鎮守府ヲ命ズ
昭和19年 11月1日 任海軍少尉
同年 11月20日 補第二艦隊司令部附
昭和20年 4月7日 任海軍中尉
同日 戦死 西部太平洋方面
開戦前後です。写真の文面を整理いたしました。
ここで、1つ注目しなければならない人事がございます。
祖父が第二艦隊司令部附きとなりますのが昭和19年(1944年11月20日)です。伊藤整一(略称させていただきます。ご容赦下さい)が第二艦隊司令長官を拝命するのが昭和19年12月23日附ですから、約一ヶ月程のズレがあります。
酔漢は当初、伊藤整一司令長官と同じタイミングでの発令かと考えておりましたが、実際はこのように違っておりました。
この時期には、連合艦隊はほぼ解体しており、唯一残された戦闘可能な水上部隊が「第二艦隊」だったのでした。
そして、第二艦隊所属となる艦が大和の他にもう一隻。空母「信濃」でした。
信濃が横須賀から呉へ回航する際、アメリカの潜水艦「アーチャーフィッシュ」のより撃沈これが11月29日。
祖父の二艦隊司令部附は丁度この日と微妙に一致いたします。
私見ではございますが、祖父の「信濃乗艦」はあり得た話だと考えます。
前回、祖父の「大和艦上での集合写真」を掲載いたしました。これが昭和20年正月です。伊藤司令長官が大和へ乗艦したのはその三日後として、第二艦隊司令部が大和へ移乗したのはその前ですから、祖父の大和乗艦は昭和19年11月末となります。
レイテ沖海戦時の艦長「森下参謀長」が伊藤司令長官を大和艦上で出迎える事実がございます。もうすでに祖父は呉におるのでした。
ところで付け加えさせて頂きますが、海軍当時「第二艦隊司令部」は後の歴史によって明らかになったことでございます。ですから公には「第二艦隊」とは呼ばれておりません。当時の公式記録には部隊名として「ウ556司令部」となります。
祖父は大和内から複数の葉書を七ヶ浜村花渕へ送付しております。この検閲には
「呉局 ウ556 検閲」との印がされております。これも1つの暗号の部類かと考えます。
祖父が呉へ行く直前、父と叔父(父の兄。昭和32年 事故で亡くなっております)
は、祖父の東京へ呼び出されます。七ヶ浜から東京へ。
そこで三人は「明治神宮」そして「靖国神社」へと参拝いたします。
父はまだ祖父がどの部隊に所属しているのか知らされておりません。時々来る手紙から「呉にいるんだ」とは思っていたらしいのです。
祖父はその際こう話したと聞きました。
「今度いるの艦なんだけんどっしゃ。ぜってぇい沈まねぇ艦だからしんぺぇすっこたぁねぇど」と。
父はこの時「もしかしたら『大和』にいるのでは」と思ったそうです。
祖父が息子達と会った最後の日でした。
祖母は呉まで行っているかもしれませんが、定かではありません。
開戦時から暗号特務の中で仕事をしていた祖父でございますから、戦闘状況については全て知っておったと考えるのは普通だと思うのです。暗号通信そして兵曹長、少尉でしたからGFからの通信は全て見る事が出来た立場でした。
丹治様から個人メールで「『海軍さぁ来んな』的な発言をしたのはミッドウェーの前か後か」と質問を受けました。おそらく、祖父の事ですから作戦の前後でその考えが変わっていたとは思いません。父からは幼少の頃から「海軍さぁ来んでねぇど」と言われていたらしいのです。そうは申しましても、七ヶ浜からの入隊希望者へ「なしてここさぁ来たのすか?」と聞く祖父です。当時の戦況が頭に入っていなかったとも思えません。
そして、司令長官「伊藤整一」も同じです。
「ウ556司令部 司令長官」となったその瞬間。
「かたわの(表現上使用いたしました。他意はございません)水上部隊。大和をはじめどう使っていくのか。これは難しい・・」
岩国へと向う飛行機の中。何度も自問自答を繰り返していたのでした。
「長官、まもなく岩国です」
「そうか・・・」
「お父さん、勝たなくては帰れませんよ」
妻の言葉を思い出しました。
「勝っても負けても・・帰れんがな・・・」伊藤は独り言を繰り返しておりました
「長官、何か?」
「いや・・なんでもない・・」
「岩国航空基地では『有賀幸作』(あるがこうさく)艦長がお待ちです」
「有賀君か・・初めてだな・・中澤君が何かと彼を可愛がっていたな」
軍令部作戦部長中澤の諏訪での後輩であったと思い出したのでした。
伊藤整一。岩国航空基地に降り立ちました。
まさか、孫が使うとは思ってもみなかったことでしょう。
通信の中で暗号がどんな形だったのか興味があります。
モールス通信は、英文なら1分間に60文字から80文字は読み打ちできます。ちょっと衰えているとは思いますが。
英文は4つの長短の組合わせですが、和文は4~5つの組合せになり難しくなります。そんな訳で覚えようとは思いませんでした。昔の覚え方は「イ」=いとう=・ー
「ロ」=路上歩行=・ー・ー
「ハ」=ハーモニカ=ー・・・
しかしこの方法では、一旦頭の中で変換しなくてはいけないので、効率が悪いですね。
当時の暗号は大方米国に解読されていたのでしょうか?言葉は解読されても暗号としての意味までは無理だったかなとも思います。
興味津々です。
それが残っているのがすごいですね。
うちにも、祖父の軍服や勲章等があるようですが、詳しく見てないので何があるかわかりません。
生前、アメリカが日本に石油をくれなくなったので、日本は仕方なく戦争をした、という話を聞かされたのを覚えています。アメリカが悪いとも言ってました。
小学生の頃で、何となくそうなのかな、と思ってました。
それでも日本側は、暗号の基本パターンは踏襲したままでしたね(間違っていたらすみません)。
日系人や日本語を学んだ学識人を総動員しての暗号解読です。
敵性語を一切禁じた日本側とは雲泥の差です。
それでもミッドウェイ直前の呉あたりの花街の方々が、皆「○○大尉はん。次はミッドウェイどすなー」。これじゃあね。
レイテの囮艦隊といい、菊水作戦といい、語る言葉もありません。
実家には「ウ556司令部」からの郵便物が多数ございます。
そうですか「大和」を指すのですね。
「呉局」でした。
私は「二艦隊」だと思っておりました。
訂正させていただきます。
遺族会に参りますと、皆様「呉局 ウ556司令部」からのお葉書、お手紙を持参してまいりました。
本当にありがとうございました。
遺族とは言え、知識にうとい部分もございます。今後ともご指導下さいませ。
少々誤解を与えてしまったかもしれません。
ウ556は大和の暗号であり、第2艦隊も秘匿上、部隊名を書けないので、大和司令部もしくはウ556司令部といった住所を使っていたのです。
したがって、有賀大和艦長も「ウ556司令部」、伊藤第2艦隊長官も「ウ556司令部」、所属は違いますが、艦が同じなので同じ住所表記をしたのです。
戦死されたご祖父はもちろん第2艦隊の所属です。
ついでに言えば、ウ556という表記があれば、それはレイテ海戦後に書かれたものと判断できます。
祖父2F着任は昭和19年11月と聞いております。(父証言。慰霊祭の時に確認)ですから、我が家に残されております葉書は全て「呉局ウ556司令部」となっております。
父他家族は宮城七ヶ浜村で郵便物を受け取っております。大和は秘匿ですから、どこで何をしているのか分からないのでした。
祖父も近況を認める訳では無く、家族の事を心配している内容となっております。
整理して、公開できるものは公開しようと思っております。
いつもながら、御礼申し上げます。