酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

祖父・海軍そして大和 大和を生みし者達 進水前夜

2009-09-15 08:54:50 | 大和を語る
西島は船殻の工事が残工事のみになっていた頃、本格的に「艦橋の工事」に取り掛かります。
艦橋の工事は「平賀へのアンチテーゼ」そのものでした。
平賀は「電気熔接」の禁止。(鋼材と構造により例外はありました)また、「ブロック建造への疑問」という、海外の先行していた技術を取り入れることを否定しております。
西島は逆でした。
もともと「東大造船科」卒業ではない西島です。(九州大学造船科卒業)平賀への遠慮など考えもしないのです。
ただ、海軍艦政部第四部ないには東大卒が多く、その影響は彼も受けることとはなるのでした。
若手の技術者「辻影雄」です。
本来の専門は熔接でしたが、西島の側近、右腕として「船殻工事」に携わった人物です。
話を思い出してくだされば、嘗て西島がドイツへ留学していた祭、「ドイツ製熔接棒」を海軍工廠へ送っております。辻はその研究を行っているのでした。
同僚にはやはり東大卒、「楠 修策」がおりました。
昭和15年(1940年)一號艦工事が艤装中心になっております。
「辻君、『艦橋工事では、ブロック建設として、別な場所で作るんだ』って、西島主任が話していた」
「電気熔接もだろ。じゃなきゃ、あの複雑極まりない艦橋の工事であるから、重量も馬鹿にならない。しかも艦橋だから電気熔接の制限もない・・・ウシシシ」
「楠、おい、何笑ってるんだ?気持ち悪い・・・」
「だって、ようやくだぜ!あの研究が日の目を見るんだ!そして世界一の軍艦に採用される。たまらなく・・・ウレシィィ」
艦橋の構造、コンセプト。その機能については一号館完成後詳しく語ります。
辻、楠二人の知られざる研究開発の足跡を話しておかなければなりません。

「おい、これが、現物か?」辻が目を輝かせながら熔接棒を眺めております。
「たった今ドイツから届いたばかりだがな」
日本には熔接棒の規格を統一したものがありませんでした。横須賀工廠には横須賀の、呉工廠には呉だけの溶接棒が存在し、その工廠内だけで使われていたのでした
「こいつの分析から始めよう」辻がドイツ製溶接棒の構造研究を始めます。
「なんじゃ?この芯の周りの黒い奴」
「辻さん、独逸語読めます?」
「高校時代『おにたん』という先生に睨まれてからというものの独逸語だけは・・・ダメだ。楠。お前は?」
「期待しないで下さい・・・」
「フラックス?と読めないこともない」
「なんだ、ちゃんとそう書いてあるじゃないですか!」
ドイツの溶接棒は鉄製の芯線の周りにフラックスという溶剤が塗られていたのでした。そして、彼らはその作り方が「高圧でしかも、機械により均等に塗られたもの。という事が判明します。ここで「文献を取り寄せて、丹治さんに翻訳してもらえばいいんでねぇかい?」と思う御仁もいるかも知れません。(尤も、丹治さんと言えど当時は生まれておりません。えっつ?それにしては、当時の事をよく存じていらっしゃる?それは・・・・もしかしたら生きていたのかも・・・と酔漢も思うこともあるのです。時たまですが・・・)ですが、熔接技術も軍事技術になります故、同盟国であってもその開示はされていなかったのでした。
辻は試作品を何度も作り、その年の末に納得のいく物が完成します。
「これを応用して『半自動熔接機』がつくれないかなぁ」
「作りましょう」

西島の手記です。
「本機については、昭和15年に一般公開され、その後海軍の造機方面でスケッチされ、民間メーカーへもそれを渡しました。これが日本の電気熔接棒フラックス機械塗装の第一号き、かかる経緯で海軍の造船の手で開発されたものだったのでした」
とございます。

「第三船台頭部に取り付けが決まった!」
西島は辻にこう話しました。
「これで、造船部が使う電気熔接棒の全てがまかなえますね」
熔接おたく?「楠」は、自身の研究の成果が、現物の物となったことをことのほか喜んでいるのでした。
返す返す、海軍では、嫌、日本造船界では「電気熔接まかりならん!」との平賀の弁を受けて、熔接技術の向上、開発には逆風の時代だったのです。
これは、西島の発想と(と言いますか、平賀に対して何とも思っていない)辻、そして楠の新しい技術を知っておる者が存在したこと。そして忘れてはならないのが福田烈(ただし)の横須賀での基礎研究があったからこそだったのです。
(今一度。福田は平賀に「冷たい熔接ができたら、僕は溶接を認めます」と言われました・・)
これで、一號艦、艦橋建設のブロック建設が軌道に乗ります。

昭和15年6月。最上甲板が張り終えられます。これにより一號艦の船体部分が姿を現しております。全長256m。最上甲板までの高さが約19.2m。その大きさが想像できます。完成時にはそれに艦橋が付きます。
設計図では最上甲板から高さ31m。十階建てのビルに相当するものです。これを船の上取り付ける格好になります。

呉海軍工廠造船部長、庭田尚三は、
「余りにも大きいので上下左右の観念がわかり難く、全体としてどんな形となるのか、まるで見当がつかなかったので、縮尺1/50大模型をを造って艦全体に対する全容を詳細にして前後五回に亘り研究会を催した結果、ようやく各所の張り出しの位置、大きさ、計器類、兵器の位置が決定した」と述べています。

西島はかねてより、機密保持の観点、重量軽減の観点から、工場内でブロックとして建設し、それを艦上で組み上げる方法を採用しておりました。
艦橋は、ブロック建設の際たるものなのです。
そして、もう一つ、普通は船殻工事が終わった段階の進水式です。が、一號艦は、
平行艤装であるため、艦橋工事を一部行った後の進水式でした。
進水後、これらブロックを中心筒を立てた後、クレーンで積み上げる方式を採用しております。
辻、楠らが開発した「熔接技術」が作業を可能にしたのでした。

「この日を外したら、もはや一號艦の進水式が行えない」西島が話しております。
「8月8日ですよね」
「だれもがそう知っている・・日・・だな」
後二ヶ月もありません。
呉での最大満潮時。しかも日中にぶつかる日は、昭和15年ではこの日しかありませんでした。
「喫水は6m50cm。それ以上あったら、船は浮かばない。鑑底が海底に着いてしまう」
「重量はどうでしょう」
「計算上は上手く行っているが・・だが図面上のものも少なくない」
「排水量は進水式のときには4万トンでなければならないんだ」
一號艦建造に携わった者、大和を生みし者達全てが、その不安が次第に大きくなってくることを感じているのでした。

「牧野主任、お茶が入りました」
呉海軍工廠、設計部室内です。
工事が終了したばかりの図面を机の上に広げて眺めている牧野です。
「はたして、重量統制が・・実際には・・・」
「部品はまだしも、中に積み込んだ各種機材の重量、そして鋲やボルトの超過は見積をだしても・・」
「その通りなんだ中谷君」
進水式、後二ヶ月を切っております。
呉、初夏を迎えます。

戦後です。
中原敬介(一號艦建造とは関係のない人物ですが・・・)は、呉海軍工廠内で生み出された「辻、楠らの熔接技術」を更に改良いたします。
「グラビティ熔接」です。
酔漢、技術には疎くて、ここで語っておるのも恥ずかしい限りではございますが、
「この新技術によって熔接の効率が数十倍改善されたと」と文献にはございます。
そして九州八幡製鉄所とその子会社がそれを進化させて特許を取得しました。
これは、「造船日本」を象徴する技術であり世界各国で利用されております。
外貨を稼ぐいい材料になっております。

呉工廠OB会の席。
辻が言っております。
「戦中に、あれを特許取ってたらなぁ。俺は大金持ちだった・・・って」
「あれ、辻さん一人?僕も参加しているんだからぁ」楠でした。

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7 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ひー様へ (酔漢です)
2009-09-17 17:31:55
進水式は時間を掛けて一気に語ろうと思っています。
異常なほどまで緊張が文献でも伝わってきます。これを表現するのに少し時間を下さい。

一號艦、いよいよ大和になります。
返信する
丹治様へ (酔漢です)
2009-09-17 17:29:29
すみません。「おにたん」まで登場していただきました。
中学時代の家庭教師が東北大工学部出身の方でした。
「今、酔漢。丹治って言ってたよな」
「んだっちゃ。中学の先輩だっちゃ」
「その人のお父さんは?」
「ドイツ語の先生だべ」
「もしかして・・・」
「んだよ」
「・・・・・・・」
その後の授業がいつもに増して厳しいものとなりました。

副砲は全て電動でした。仰角もです。水圧ではありませんでした。
後程語ります。
返信する
クロンシュタット様へ (酔漢です)
2009-09-17 17:25:19
タンカーとか5万トンの豪華客船は酔漢も間近で見た事はありますが、やはり大和の大きさを想像する事は出来ませんでした。横須賀勤務のとき、DDを見て、これはこれで、1万tしないのですが、あの重厚さに圧倒されました。そしてアメリカの空母を遠めに見たとき、鉄の塊の圧力に自らが圧倒されたのを覚えています。
戦闘艦のオーラは単に排水量だけでは測れないものがあったのでした。
おっしゃる通りですね。
返信する
ドンドン (ひー)
2009-09-16 13:20:39
出来ていきますね~
その裏腹に心配する関係者の気持ちもわかりますね。
図面が正しかったのか・・・
自分を試される感じですね。
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吾輩はゾンビか? (丹治j)
2009-09-16 09:58:16
こりゃ、酔漢!吾輩はゾンビか。
「三十六年」なる我が生年を何と心得をる!!
「明治」にもあらざれば「千九百」にもあらず!!!
紛れもなく「昭和」三十六年なるぞ!!!!

それとも吾輩、転生するのかナ?

戦前の高校にも「おにたん」とかいふ先生がいたのか。
ふーん、さうだったか。
初めて知ったよ。呵呵呵・・・

冗談はさておき、旧制高校は文科理科とも第一外国語で甲(英語)乙(ドイツ語)丙(フランス語)とクラス分けされてをりました。
乙と丙の第二外国語は英語、甲はドイツ語かフランス語の選択だったと聞いてゐます。

文科理科とも甲乙のクラスはどの学校にもありましたが、丙類のある学校となると多くはありません。
文科で一高、三高、東京、浦和、静岡、福岡、
理科で東京、大阪
でした(私立のことは残念ながら分りません)。
文理とも甲乙丙と揃ってゐたのは、七年制の東京のみ。
大阪は理科にしか丙類がありませんでした(理系のみの大阪帝大があったからでしょうか、理系主体の東北帝大を控へる仙台の二高も理科の定員が多かったです)。

旧制高校でフランス語・・・
戦前、外交上の公用語はフランス語でした(某元内閣総理大臣は静岡文丙の出身で寮の炊事委員、寮歌の作詞もしています)。
理科で丙類というのは、航空工学の分野でフランスが先進国だったからですね。

理科で工学部に進むのは、理甲の人が多かったやうです。
「ドイツ語は苦手だョ」なる言葉をしばしば耳にするのもそのためでせう。
でも、よーーーーーーーーーーーーーっく考へて欲しいのです。
旧制高校の第二外国語は、五十分一コマで週三時間。
これが三年間続きました。
落第すればそれ以上です。
旧制高校は単位制ではないので、落第すれば全科目を繰返さねばなりません(嗚呼、新制でよかったなぁ)。

海軍の造兵中佐(最終の階級ではないかもしれません)だった伊藤庸ニさんは東北の工学部で電波を専攻しましたが(戦前に電波の研究をやってたのは東北だけだったそうです)、ドレスデン工科大学に留学してバルクハウゼン教授の下で学位を取りました(従って日独両方の博士号を持ってゐます)。
伊藤さんの出身高校(学科)はつまびらかにしません。
しかしドイツ語の「苦手」な人が、ドイツの大学で博士号を取れるでせうか。

太宰治は弘前文甲の出身です。
自身の証言によれば、やはりドイツ語は「苦手」でした。
大学時代の回想で、こんなのがあります。
「ケエベル先生のシルレル論を読み、否、読まされ・・・」
とか何とか言ひながら、ケーベル博士のシラー論を読んでいるのです。
『走れメロス』の原作、シラーの『人質』だって原書で読んだはずですよ。
しかも大学は東大の仏文。
旧制の弘前に文丙はなかったから、太宰のフランス語は独学。
さらには高校時代、英語の外国人教師が太宰の英作文を絶賛してゐます。

「第二外国語」とはいへ、新制の僕らなどとは年季の入れ方が違ふのです。
旧制出身の方の「ドイツ語は苦手」に騙されてはいけません。
「騙されて」が穏当でないなら
「真に受けてはいけません」。
あるいは
「額面通りに受取っては」いけません。
「何割がけかで考へませう」。

大和型の艦橋は塔檣式でしたね。
日本の戦艦のマストと艦橋は、一本マスト(たとえば三笠)⇒三脚檣(就役時の扶桑型、伊勢型、金剛型)⇒櫓檣式(長門型の艦橋の支柱は六本だか七本と記憶しています)⇒塔檣式と変化します。
近代化工事を終えて巡洋戦艦から戦艦になった金剛型で、比叡の艦橋だけ違った形をしています(細かく見れば全部違うけど)。
あれは大和型の艦橋を塔檣式にするための試験工事の意味があったそうですね。

大和型は副砲に弱点があったとのこと。防禦の話ですよね。
大和型の副砲は十五センチの三連装。
最上型の主砲を連装二十センチに換装した際に下した砲塔を流用しています。
副砲の砲塔の装甲を急降下爆撃(二百五十キロだったでしょうか、五百キロだったでしょうか)に耐えられるような厚さにすると、艦(フネ)としての復元性に問題が生じる。
それで軽巡時代の最上型の砲塔を流用したと物の本で読んだことがあります。

返信する
進水式は大津波発生? (クロンシュタット)
2009-09-16 06:05:53
大型艦の全体像を目視する。
塩竈では私も1万トン岸壁を何度か(徒歩で)訪れましたが、1万トン級の貨物船でもその大きさに圧倒されたものです。

横浜の大桟橋では大型客船を目撃しました。
さらに晴海だか日の出では、一般公開日に護衛艦や海外の駆逐艦に乗船しました。
要は大型客船の持つ重量感と、護衛艦の武器としての姿とを重ね合わせてと・・・

だめだ想像できん!


ひーさんへ。そっか隣りだったか!
返信する
今日は (ひー)
2009-09-15 23:29:37
遅くなりましたので、明日きます。

映画、中央の駅員役ですよ。
秘密です。ww
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