酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

祖父・海軍そして大和 遺族として、家族として 清水芳人副砲長

2011-03-08 11:19:02 | 大和を語る
この写真の下に「昭和52年52年4月第二艦隊海上特攻戦没者慰霊祭」との記述がございます。しかし、この記述が誤りであることに気づきます。
執り行われましたのは「昭和53年」であり「昭和52年」は三十三回忌として徳之島で行われております。単純な記述の誤りかと考えます。
と申しますのも、この写真に酔漢が写っているからです。
私ども家族(母は留守番、父そして妹)叔父家族、叔母家族ともに参加いたしました。
酔漢は、(ブログで初の顔公開ですが)正直隠れてます。
この写真の他、もう一枚の集合写真がありまして、そちらの方には原さん、古村さん、山名さんなどの二水戦の方々が写っております。
この写真は第二艦隊、大和関係者の写真です。
酔漢中学三年生です。それにしましても、「親父殿は若いなぁ」そりゃ、今の酔漢より若い時代のものですので、当たり前なのですが。
この慰霊祭が最も参加者の多かった祭ではなかったかと思います。
前年三十三回忌は徳之島でしたので、その翌年の東京開催です。節目を迎えた「慰霊祭」でもありました。
この慰霊祭で酔漢が「玉串奉奠」を行いました。
お話はここからです。

面長の少し白髪のおじいちゃんが、三笠さんのところで受付をしている酔漢家族に近寄ってまいりました。
「酔漢中尉の御遺族の方、玉串奉奠ですね」
「そうです」父が答えます。
「じゃぁ、君もやるんだね」(聞いてねぇっちゃ→前回からの台詞)
「しっかりやってね。大事な仕事だから」
そう言って、このおじいちゃんは酔漢の頭を撫でてくれたのでした。
清水芳人元少佐。大和副砲長だった方でした。
少し、ご紹介いたします。
大和の主砲はこれは何度も語りましたが「46サンチ45口径3連装三基9門」です。
砲術長は黒田吉郎中佐でした。
副砲は、レイテ海戦前の改装で前後(一番、二番)の二基になっております。
「15.5サンチ60口径三連装二基6門」でした。
大和の全景を写された写真がよく目にいたしますが、公試運転中のものです。その当時は三番、4番副砲がそれぞれ左舷、右舷に二基づつ搭載されます。
航空機の発達により高角砲を増設する必要性から取り外されております。
この砲は最上型軽巡の主砲をそのまま搭載されました。
ですから、防御と言う面からすれば、鋼板の厚さも薄く、大和の「アキレス腱」だったと考えております。
副砲に爆撃されますと、火薬庫に直撃し、艦内で爆発ということは、設計段階から指摘されております。しかし、途中の補強によっていわゆる「見切り発車」となったわけです。
話が少し、それておりますが、少しだけ副砲を見てみます。

大和型戦艦の副砲塔の対爆防禦には、致命的な弱点があった、それは最上型巡洋艦の陸揚品をそのまま流用したことにあった。
解くに後部副砲の露出した円筒支筒下部は火薬庫に隣接しているので最も危険とされた。
(原 勝一氏著「真相・戦艦大和ノ最期」174ページより抜粋)

しかして、第一波最初の直撃がここに命中。(臼淵大尉以下戦士)大和は火薬庫の火災を起こし、それが消えずに誘爆したのです。
(上記節が酔漢の結論ですが、庭田さんは「絶対にありえない」と最後まで否定されておいででした)
その副砲の長が清水芳人さんでした。
補足としてですが、先にご紹介しました原勝一氏の「真相・戦艦大和ノ最期」ですが、清水さんを「副砲術長」とご紹介されておられます。しかし、これは誤りで「副砲長」が正しいのです。PHP文庫の某書もそのように記述されおったと記憶しておりますが(書名失念)、よく、間違った記述の部分です。
(原氏はその後の著書では全て「清水副砲長」とされておられますので、この書のみの間違いかと存じます)

私は前檣楼の上部に区画された副砲指揮所にいて、副砲を指揮していた。副砲は十五・五センチ三連装二基で、建造当時は四基あったのだが、航空機の発達とともに二基は撤去せられ、そのあとに高角砲機銃が増設された。
副砲指揮所は、やや厚い(この証言集では「熱い」と記載されてますが誤記と判断しました)鋼板の塔の中にあって、潜望鏡のように対物鏡だけが頂点に出ている。対空射撃擦るためには視界はせまく、そのうえ避雷爆運動をするために目標補足むずかしく、指揮は困難であった。それでも一五キロから一○キロ付近まで近接する雷爆撃には有効で、そうとう被害を与えることができた。
(清水芳人副砲長 証言手記より抜粋)

大和副砲発射の写真が米軍記録にございます。激しく火を噴いて高仰角にてのそれは、主砲とはちがった激しさがあるのです。
一番副砲三連装一斉射撃の様子です。

清水さんは、漂流二時間後「冬月」に救助されました。戦後、生還者として、また数少ない上級将校として、「軍艦大和戦闘詳報」記録へご尽力されました。
また「大和会」では「東海地区世話人」として多くの遺族の為に尽くされた方でもありました。副砲員三笠さんは「広島世話人」だったのですが、この清水さんと三笠さんお二人も名コンビで会を取り仕切っておいでの様子でした。大和の九一式徹甲弾の実物は清水さんのご努力でもって数点展示されているとも聞いております。

「清水元少佐は『戦争だからなんでもありなんだ』と言ってたっちゃ。向こう(アメリカ)も必死になって大和ば沈めに来たんだべ。あそこまでしねぐてもって思ってもっしゃ、やっぱしこれが戦争の現実なんだべ」
父の言葉でした。
「栗原俊雄氏の『戦艦大和 生還者たちの証言から』」に清水さんの取材の件が著されております。

「沈んでよかった」
清水芳人は元少佐。私が取材した生還者の中ではもっとも階級が高い。艦長ら幹部との接触も多かっただけに、ほかの生還者は知り得ない貴重な証言をしてくれた。記憶も言葉も鮮明で、私は取材するうえで多くのヒントをもらった。
しかし、ある話を聞いて私は困惑した。
「大和はあそこで沈んで、よかったんですよ」
「無謀な作戦だった。」私が取材した生還者の大半は、そう振り返る。そして彼らの多くが、清水のように「しかし、大和はあそこで沈んでよかった」とも言う。
(中略)
「大和がもし敗戦まで存在していたら、長門と同じように使われていたのかもしれない。アメリカで見世物にされていたのかもしれない。そうだったら、今ほど人々の関心を集めたでしょうか、その悲劇的な最期によって、大和は戦争と平和を永遠に語り継ぐ墓標になったんです」
(同著 136ページ~137ページより抜粋)

清水さんは、多くの証言をのこされておいでです。時として「淡々と語りすぎる」ことから多くの誤解を招きますが、清水さんの思いはこうです。
「亡くなった戦友たちにその意味を見出したい」

この言葉の意味、清水さんの思いを察するにあたり父もこう話しておりました。
「水爆実験に使われようが、撤収されて丸裸にされようが、正直、大和という艦がどうなろうと知ったこってはねぇべ。親父が生きてさえいたらそんなもんどうでもいい話だべさ。んだとも、大和が沈んで、親父は死んだ。この事実さぁ、やっぱし犬死だとは思いたくねぇべ。なぁ。帰ぇって来た人、みんなそうした俺たちの思いば気遣っているのっしゃ」

「あたまを撫でてくれたおじいちゃん」
の記憶は鮮明で、お顔も覚えております。
清水さんと出会えた事は忘れもいたしません。

ところで、気づいた事です。
副長手記とされる「慟哭の海」巻末に「生還者名簿」が記載されております。
この中に「三笠逸男上曹」のお名前がございません。
やはり名簿の作成には多くの混乱が生じた事を物語る事実だと思いました。

いまはただ、南海に眠る大和戦没者の冥福を祈り、真に平和を願うだけである。
(清水芳人 大和副砲長 証言手記より抜粋)

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1 コメント

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つぶやき (宇宙人)
2011-06-22 00:10:00
俺の同級生のおじいちゃんが芳人さんらしい
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