酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

祖父・海軍そして大和 海の狼 伝説

2009-07-02 10:41:04 | 大和を語る
幼稚園帰り。朝母からは「今日は大事なお客様が来る日だから、友達との約束はしねぇでけさいん」と話されました。祖母からも同じことを聞かされました。
「あたりめだべ。だれ俺だってはやぐあいてぇおん」
遠くからいらっしゃるお客様。子供心にわくわくしているものの、「粗相があってはいけない」とか「じいちゃんが世話になった海軍でも相当偉かった人」とさんざん話されもしておりましたので、緊張もしていたのでした。
幼稚園帰り。玄関を開けると談笑が聞こえてまいりました。この時ばかりは父も早く帰っておりました。
僕はおそるおそる茶の間の戸を開け、教えられた通り(練習しました)両手を着いて挨拶をしました。
「酔漢(祖父)孫の酔漢です。遠くからようこそいらっしゃいました」
途中、緊張から言葉がでなくなり、しかも慣れない標準語でしたので、上手く挨拶できませんでした。
遠くからいらしたお客様は一瞬きょとんとした顔をしてましたが、その後爆笑!
「なんだ、なんだそんなに緊張しなくてもいいんだ。どれこっちに来て・・俺の膝さぁ座れ」
安心しました。僕は遠慮せず、その人の膝の上に。
「酔漢さんもこうやって孫さぁ膝の上に乗せたかったんだろうなぁ」
お客様は僕の頭を何度も何度も撫でてくれました。
ふと、その傍に目をやりますと、そのお客様の帽子が置かれておりました。
ベレー帽でした。
「なんだや、俺と同じ帽子かぶってんのすか?」
酔漢の通っていた幼稚園はベレー帽が制服だったのです。
「そうか、ぼんと同じ帽子か。おそろいでよかったな」
ここでも笑い。
すっかり緊張がほぐれた酔漢です。

お客様をご紹介いたします。
「大高勇治」さんです。海軍通信学校卒。祖父の戦友。祖父は先輩でした。
祖父との出会いは一冊の本に書かれております。
光人社出版「海の狼 第七駆逐隊太平洋海戦記」です。
その著者でもある大高さんです。
大柄な体をしております。今回は奥様もご一緒。
戦後初めて宮城を訪れたのでした。
先の書の43ページには、こう祖父を書かれておいでです。
「朝潮通信隊所属となる・・・班長は『酔漢』二等兵曹である。東北訛りで話すが、でんとした偉丈夫である」と。(二ヶ所訂正いたしました。当時酔漢(祖父)は二等兵曹でございました。また同著では当時この話を駆逐艦「菊」としております。2009年7月9日ヒトゴウゴウマル)
祖父も大高さんも通信上がり。ですが、もともと両名とも水雷屋には変わりはございません。
祖父はこの大高さんを大変可愛がったそうです。奥様とご結婚される際には仲人も勤めたのでした。
「酔漢さんからは『いつか宮城のおらほさ来』と誘われていたのですが、それも叶わず、今頃になりました」

父を交えての晩酌が始まります。
「私がテニアンに前線送りになったことは、酔漢は海軍省にいたから知っていたと思うし、まして玉砕したとの報は受け取っていたはず。海軍省きっての暗号使いだったから。情報は誰よりも早く知っていたはず」
本来、艦船乗りだった大高さんですが、乗る船がなくなり、海軍陸戦隊通信に所属となっていたのでした。(この事は自身の著書には書かれておりません)
テニアンは死闘につぐ死闘として有名です。日本人街が大きかった島でした。
民間人は全員離島。「民間人を銃弾に合わせるな」というのが時の命令だと聞きました。(返す返す、沖縄ではこう行かなかったのか。自身で思います)
陸戦隊とはいえ、もともと船乗り達で作った急造部隊。本当の前線からは離れたところでの作戦だったそうです。ですが、玉砕を決意。大高さんの部隊もその半数を失いながら、島の奥地、奥地へと転戦したそうです。小高い丘の上。ふと沖を見ると数えられない位の艦船が島を取り囲んでいたのが見えます。
「日本の船全部集めても、これより少ない」と皆で話たそうです。
この瞬間「日本は負ける」と誰しもが思ったそうです。
自決を決めて、島の奥へと進んだはずなのに、いつしか全員が「生きて日本に帰ろう」となって。
大高さんは「日本に帰れば酔漢が迎えてくれる」と考えていたそうです。
幸い、島から本土へ向う輸送船も敵潜水艦の餌食になる事も無く日本へ無事帰ってまいりました。
ですが。
「酔漢がまさか大和に乗艦していたなんて信じられなかった」
愕然としたそうです。
「あいつの立場なら前線に行かなくても良かったはずだ」とも。
そして
「もしかしたら、俺がテニアンで玉砕したと思い込んでいたのか。生きていることを酔漢が知っていたら、大和に乗ることはなかったのかもしれない」
と話していたそうです。

晩酌も終わり。大高さんが「ぼん風呂に一緒に入ろう」と誘ってくれました。
風呂にはお気に入りの戦艦のプラスチック模型(水に浮くやつ)がありました。この時点で酔漢はその船の名前を知らなかったのです。
それを見た大高さんが大きな声をあげました。
「大和じゃないか!」
「大和って?何っしゃ?」
「おじいさんが乗っていた世界最大の軍艦だ。ぼん知らなくて遊んでいたのか?」
「この前、三越さぁいった時に買ってもらったのっしゃ。んでも、名前はしゃねかったおん」
「そうか、知らなかったのか。そして誰も教えてないんだ・・・」
「いいか、ぼん。ぼんのおじいちゃんは、丁度この辺りにいたんだ」
今ならわかるのですが、大高さんが指指したところは、丁度大和の第二艦橋の少し下あたりでした。
「じいちゃんはここさぁ、いたのすか?」
「ここは大和で一番大事なところだったんだ。通信室があったところだ」
「つううしんしつ?何っしゃ?」
「船の連絡を取り合うとこで、これがないと、船は進むことも、戦う事も出来ない」
大高さんから初めて祖父が「大和」に乗っていたという事を教えてもらったのでした。
「戦艦大和」
この時から酔漢の頭の中に、大きく入り込んで来たのでした。

戦時中、まだ海軍に艦艇が大きく残っていた頃。潮内です。
「演習開始五分前」
いきなりの号令がかかったそうです。
「爆雷投下よーうぃ」
二発の爆雷が落とされます。
これ艦長には事前通告がありません。酔漢(祖父)一味が寡作した臨時の演習だったのです。
爆雷が落とされますと、その水圧で、海中の魚が浮いてきます。
爆雷投下のその直後。
「短艇だせ」の命令が・・・。
短艇乗組員は、網を持って出動です。
浮いた魚をすくう為です。捕った魚はすぐさま主計へ。
晩のおかずです。
腕を振るうのは「酔漢」(祖父)。
魚が食いたくなると、決まって演習開始となるわけでした。
当然艦長は黙認。一緒に食べてます。
「凄い人だった」とは大高さんの弁。
こういう意味で凄いって言われても・・・・。

この話をいつぞや丹治さんにしましたところ
「信じらんねぇっちゃ」と一笑されましたが。
大高勇治さんの著書にこの事が書かれておりまして・・
「うそだと思ったら。本当だったんだ」と納得されました。
ですが、これもこの本に書かれているのですが
「戦艦陸奥謎の爆沈」
実はこの時の爆雷が一個か二個不発だったに触れたのかと・・・
これが事実だとしたら。どうしよう!!!です。

遅れました。写真は仙台青葉神社に展示されております祖父の夏服です。
祖父はこの服に二度と袖を通すことはありませんでした。

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10 コメント

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ひー様へ (酔漢です)
2009-07-09 12:02:00
御生存された方もお亡くなりになられました方も、それぞれの思いと共に、数多いドラマがあります。「大和ブーム」でしょうか。青葉神社に参りますと、そういう思いも確かに時代なのかと感じました。ですが、だからこそ、淡々と語る事が今一度必要ではなかろうかと、そしてそれが出来るのが、宮城では自分だけではなかろうかと・・思った次第です。
宮城には縁のない「有賀艦長のお手紙」が掲示されております。「なしてここさぁあんのすか?」そう感じました。
あるのが悪いのではないのです。
その思いを後世に伝えることは必要です。が、何か釈然としない自分がいることは確かなのです。
そんな思いも含めて、今後語っていこうと決心いたしました。
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Unknown (ひー)
2009-07-06 20:18:48
大和の映像は、確かあったと思いますが、不思議な思いですね。
あの中に祖父が居たと思うと感無量では・・・

勿論あの映画も見ました。
大和の中には、乗組員の数だけドラマがあったのではないでしょうか。



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トム様へ (酔漢です)
2009-07-06 19:13:33
スラバヤの朝雲ですね。
激戦の記録です。大和と縁の強かった船ですね。
第9駆逐隊所属でした。途中二艦隊所属(第四水雷戦隊)となり、おそらく祖父の所属艦(当時、祖父は二艦隊司令部として海軍省勤務の時代)でした。
レイテ沖開戦時、西村艦隊で撃沈。二百名の命が失われております。
素晴しい戦歴の艦という印象が強いのですが、生存者が殆どおらず、最期の記録が少ない艦です。祖父と縁があったかもしれませんね
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クロンシュタット様へ (酔漢です)
2009-07-06 19:00:49
シティラピッド君が、「大和ミュージアム」を訪ねております。
遺族であることを学芸員に話、実家からの写真と私からの手紙を差し出したのでした。
孫の世代に驚かれたようです。
第三世代から語られる事が少ないの事実ですが、昨今「男たちの大和」に代表されますように、美化されたベクトルの方を強く感じます。
「そうではない」淡々とした史実を、自らの史観を持って整理し、語りたいと考えました。
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ぐずら様へ (酔漢です)
2009-07-06 18:56:39
次回の件で、「七ヶ浜村」を語ります。
ご近所と申しましたのは、あの家を(花渕の)語る事が、どうしても避けられない話題だったわけです。
急に話を振りました事、申し訳ございませんでした。
おっしゃる通りでございます。
戦争と何ら関わりのない家はないのでしょう。
それぞれの想いを背負って今の日本があるのでしょう。
重いテーマとなり、今までの雰囲気とは違ったブログになってしまうかもしれませんが、これも語らなければと、いう思いもあったのでした。
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丹治様へ (酔漢です)
2009-07-06 18:51:44
東海大学鳥飼先生と連絡が取れました。
HPをご覧になられたようですね。
今、毎日新聞大阪支社の資料を閲覧しております。ここから先のテーマには結構「温度差」があるように感じております。
その温度差をそのまま語ろうと決心いたしました。
ご助言、お願いいたします。
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陸行かば (クロンシュタット)
2009-07-06 05:34:58
玉砕の島々が、日本人の観光地と化し始めた頃、少年クロンシュタットはどうしても納得できませんでした。
先年、サイパン慰霊の旅において、バンザイクリフに向かい黙祷をささげた両陛下。
不覚にもあの映像を見て、泣いてしまいました。
天皇制への評価云々は別にして、慰霊の思いを表現できる日本人は、もう滅びつつあるのでしょうか。

戦無派ではあるが、かろうじて肉親が参戦した経験を持つ我々の世代が、思いを繋げていくしかないのですね。
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遅くなりました・・・ (ぐずら)
2009-07-03 00:18:11
その1の頭書きにご指名もあり、なにかコメントしようと逡巡しているうちにその2がアップされてしまいましたね・・・
ぐずら家はかつて旧塩竈駅前の船着場で貨物船業を営んでおり、祖父さんも親父も船乗りでした。
親父は昭和14年頃に海軍に徴用され、19歳で少尉に任官したそうですが、戦闘部隊ではなく、おもに民間からの徴用船で組織した輸送艦隊に所属していたようです。
それでも乗艦を2度撃沈されたり、南方方面での作戦行動中にマラリアに罹ったり、健康診断の結果が悪く乗船を見送った船が台湾沖で撃沈され、乗組員の一人が昭和30年代半ばになって無人島から救出されたなんてこともあったようです。
ちなみに、お袋の長兄は陸軍で満州事変に出征して戦死しております。
いずれにしても明治以降、日清・日露、昭和の15年戦争と総力戦が続いたので、戦争と係りのない家はないのでは・・・?
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軍服 (トムくん)
2009-07-02 22:27:15
こんばんは。
うちにも祖父の軍服、勲章などあります。
スラバヤ沖海戦で、駆逐艦朝雲に乗っていたとか聞きました。違っているかもしれませんが。
昭和の初めには大連にいたとか。
「海の狼」に兵曹長のおじいさんが登場しているのですか。ぜひ読んでみたいですね。
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多少のコメント (丹治)
2009-07-02 13:43:49
読者の皆さんのために、多少のコメントを加えたいと思います。

小生が「爆雷投下用意!」の話に「すんずらんねぇ」と言ったのは、まだあどけなさの残る中学二年生の頃(小生にもそんな頃があったのですゾ)。
酔漢さんも、いまだに「酔漢さん」ではありませんでした(もっとも「大人になったら酔漢になろうな」って、約束はしてたネ)。
酔漢さんに教えてもらって大高さんの御著書を読んだのがつい二~三年前。
酔漢さんの話を聞いてから「ホントだったんだ」と納得するまでに、約三十年の歳月を要しております。

海軍の艦(ふね)は艦種が大きければ大きいほど軍紀がやかましかったと、ものの本で読んだことがあります。
曰く、地獄山城、蛇の金剛。
曰く、長門行こうか、首吊ろか。
曰く、佐鎮の飛龍は鬼よりコワイ・・・

逆に駆逐艦や潜水艦は「一艦一家」のような所があり、或る意味で和気藹々としていたとも。
艦が小さければ乗組員も少なく、各人が各人を知っていたからなのでしょうか。
「艦長も黙認」というのがいいですね。
酔漢さんのお爺様と大高さんの擬似演習を認めた艦長も、なかなかの人格者です。
「演習はまだか!」なんて、実は腹の中で思ってたりして・・・
(人によって賛否は分れるかもしれませんが)軍隊生活の大らかな部分だったのでしょうね。


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