酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

祖父・海軍そして大和 奮戦スレド徒死スルナカレ 水雷屋

2010-02-01 11:42:12 | 大和を語る
大和の戦没者は「出身県別」で整理されることが多いのですが、宮城県出身者は18名となっております。
しかしながら、能村次郎 大和副長 手記「慟哭の海」をみておりますと「宮城県17名」です。
宮城県仙台市にございます「青葉神社」です。以前ここに祖父の遺影が展示されておりますことを語りました。(「ひーさんの散歩道」でもご紹介されております。→ひー様。ありがとうございました)ここでも18名とされております。
この一名の方のお名前は後程ご報告いたしますが、二水戦(第二水雷戦隊)の戦没者に宮城県出身の方がおりますかどうか、定かではございません。
「戦艦大和を旗艦とする特攻艦隊戦没戦士第三十三回忌合同慰霊祭」が昭和五十二年四月七日に靖国神社で行われました。
多くの出席者の中で宮城県からの出席者は私共だけでございます。
駆逐艦隊は鎮守府事の編成ですので、宮城県であれば、これは大和でもそうなのですが、2F(第二艦隊)関係者が殆どでございます。宮城県で海軍であれば横須賀鎮守府所属となるのが普通ですので、駆逐艦そのものに乗艦されておった宮城県出身者はいなかったかもしれません。ですが、資料もなく、今後調査したいところです。
さて、この「水雷屋」という言葉です。
祖父の戦友(たびたび御登場お願いいたしておりますが)「大高勇治」さんです。その著書「海の狼 第七駆逐艦隊 戦闘記録」を拝読いたしますと「酔漢祖父は水雷屋」と書かれております。
通信畑一筋の祖父ではございますが(大高さんもそうなのですが)「水雷屋」とこう表現されております。
この言葉に案外「そそられている?」酔漢でございます。
さて、この合同慰霊祭。どうして「合同」なのかと申しますと。
「第二艦隊司令部」「第二水雷戦隊司令部」「戦艦大和」「巡洋艦矢矧」「駆逐艦磯風」
「駆逐艦雪風」「駆逐艦浜風」「駆逐艦朝霜」「駆逐艦初霜」「駆逐艦霞」「駆逐艦冬月」
「駆逐艦涼月」それぞれの艦、組織としての合同です。
お世話役は「坊ノ岬沖海戦」でご生還された人達でした。
この慰霊祭委員長を務めておられましたのが
「古村啓蔵さん」(元第二水雷戦隊司令官)です。そして、やはりコンビを組みましたのが「原為一さん」(元巡洋艦 矢矧 艦長)でした。
慰霊祭最中もお二人は殆ど一緒でした。
「仲がいいおじいちゃん達だなぁ」と酔漢は遠めで見ておりました。

昭和20年4月3日。海軍兵学校を卒業した新少尉候補生六十七名が、第二艦隊に着任いたしました。大和に53名。矢矧に14名。大和には海軍経理学校を卒業した主計科候補生4名も乗艦いたしました。
「おめぇらは何もまだしゃねぇんだべ。黙って見てればいいのっしゃ」と酔漢祖父少尉。
通信室を案内されました「吉田さん」(父の記憶です名は忘れたそうです。酔漢は靖国でお会いいたしました)です。
「大和に・・・東北弁だぁぁ」が彼らの第一印象でした。何せ関西系の言葉中心の大和ですから、おおいに珍しかったでしょうね。

さて、その日の午後。矢矧から一隻のランチが大和へ向っております。
乗艦しているのは「古村啓蔵少将」第二水雷戦隊司令官でございます。
この少し前、矢矧艦内、原為一艦長との会話です。
「艦長、では大和へ行って来る。2F伊藤整一司令長官と話してくるが・・」
「古村長官。では、やはりあの話をする為に?」
「そうだ!GFは一体何を考えているのか解らん!俺としては、『何をどうすべきか』俺なりに熟慮した結果だ。これを話してくる」
「長官、お気をつけて」
「ところで少尉候補生だが、艦長に任せる・・・が。彼らは基本的に即退艦も考えておる。明日、明後日の戦闘には連れていけんだろう」
「同感です」
「森下、有賀も同じだろうが」(普段、古村司令長官は会話ではそう話しておられます)
「あの話もでしょうか?」
「そうだ、先だっての第二水雷戦隊司令部としての結論はそのまま第二艦隊司令部に意見具申をしても差し支えないと考えるところだ」

古村啓蔵司令官の出した結論とはこうです。
所謂「大和の使い道」です。
古村少将は三案を持ってまいります。
1・「航空作戦、地上作戦の成否如何にかかわらず、突入作戦を強行、水上部隊最後の作戦を実施する」
2・「好機到来まで極力、日本海朝鮮南部方面へ退避、艦隊を温存」
3・「陸揚げ可能の兵器と弾薬、人員を陸揚げして防衛兵力とし、残りを砲台とする」
上記、三案が今後「第二艦隊」「第二水雷戦隊」が取るべくシュミレーションでありました。
大和艦内、司令長官室内。三案が検討されております。
伊藤整一司令長官は黙って古村の話を聞いておりました。
「やはり、1案だが・・・」
先任参謀山本祐二大佐が口を開きました。
「敵のまっただ中へ突っ込むというのは、航空兵力が特攻へ向いている今となっては、敵の餌食になる事は必死であろう」
と、この発言には皆首を縦に振って頷くのでした。
「矢矧の電探の件でもそうでありますが、GFは我々の事よりも航空作戦が主力と考えている事が明白であります」古村司令長官が溜まったものを吐き出すように話始めました。
「電探?矢矧の?」
「そうです。今や、航空戦闘には電探が欠かせません。何度も、矢矧の電探については、改修、新装備を依頼しておるのですが、特攻機製造が先になって、一巡洋艦の電探にはお金を掛けられないのが本音のようです」
「呉の工廠は何と言っているのか?」
「相手にされませんでした・・・」
「そうであれば」森下参謀長です。
「なおさら、1案は無いであろう・・・か」
「作戦的には失敗は必至です。無駄に兵力を失うだけです」
「では2案はどうであろう」山本先任参謀です。
「これは、最早朝鮮半島まで行き来する、また停泊する為の燃料がありません。仮に長期に渡り停泊するとすると、どうやって各艦へ燃料を供給するのでしょうか」
「供給したくても、燃料が無い・・な」
「だと致しますと、やはり3案が妥当かと考えます」古村司令官が声を強く話し始めました。
「2Fは・・・・どうなるのか。やはり『解散』となるのか」
この森下参謀長の言葉で全員が黙ってしまいました。
「これは『二水戦』各艦長の全員一致した意見であります。」
伊藤整一司令長官は黙って聞いておりましたが、やがて笑みを浮かべると、こう発言いたしました。
「この際2Fの解散、解体はやむをえんであろう。自分もそれが得策であろうと考えておった」
「それでは、長官は・・」
「半年の司令長官・・か?海軍最短の司令長官だろうな」
全員の顔が少し和らぎました。
「山本先任参謀。呉へ行って来てくれないか?」
「私が?」
「一度呉へ赴き、豊田GF司令長官へ今の件を意見具申を申し上げるのだ」
(解説です。山本先任参謀へ電話でGFへ連絡を取る算段をしております。呉からというのは、何か直接大和から連絡できなかった事情があったのかと推察いたしております。単にに「GFへ直接電話連絡」と指示されているような文献もありますが、「一度呉へ」というのが史実であろうと考えました)
「では、明日呉へ参ります。GFは聞いてくれるでしょうか」
「まずは我々の考えている事を伝えることが先決だ」伊藤はきっぱりとそう言ったのでした。

古村さんは戦後、この件をあまりお話しておりませんが、懇親会の席では、よく質問を受けておられたようです。どのようにお答えされておいででしたか、定かではありませんでしたが、「これが2Fと二水戦の総意であった」とは述べておられます。

帰りのランチの中。おだやかな海を渡ります。
古村は「これで多くの無駄死がなくなる」と思うのでした。
「艦長、戻った」
矢矧艦橋です。
「どうでしたか?」
「伊藤司令長官、そして、森下も同じ意見だった。明日山本先任参謀が呉へ行き、GF豊田司令長官へ意見具申を申し上げる」
「突入作戦だけは、避けたいものです。成功の見込みは全く立ちません」
原矢矧艦長が古村司令官の目を見てしっかり話ております。
「我々は命がおしいのではない。だが成功の見込みのない作戦には納得しかねる。だがな、作戦をしようにも、燃料がなければ話にならんがな」

若い少尉候補生達が最新式の巡洋艦を案内されております。
この新しい軽巡。そのスペックは、世界的にも評価されるべき、バランスのとれた艦でありました。各装備に目をまるくしている少尉候補生達です。
この光景を笑みを浮かべながら眺めていた原為一艦長でした。

実際の原さんは豪快豪傑というイメージは全くありませんでした。目鼻立ちが整った丹精な顔立ちのおじいちゃんでした。慰霊祭での集合写真では古村啓蔵さんと共に写られております。
実際にお会いした方を登場させました「くだまき」でございました。

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8 コメント

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おせっかい焼き様へ (酔漢です)
2010-02-08 19:09:37
貴重なお知らせありがとうございます。
渡辺光男少尉は確か埼玉ではなかったかと父が申しておりました。(確証はございません)
さて、本日、大和進水式時の呉海軍工廠長、砂川中将の曾孫様と連絡が取れました。
今は山形在住だそうです。
彼との会話は後程お知らせいたします。
このブログが縁となりました。
不思議なものでございます。
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東北訛りが標準語? (おせっかい焼き)
2010-02-05 11:23:02
>高橋仁子少尉は岩手県。鈴木藤二郎少尉は福島県のご出身。2F横須賀鎮守府戦死者で通信は、東北だったと気付きます。
「2F通信室は東北訛りが標準語?」だったかもしれません・・・勝手な想像です。

ご存知でしょうが、山形安吉大尉も宮城県出身ですね。山形大尉は高等科電信術出身であり、暗号部とは直接関係ありませんが、職場が接近していますので、同郷かつ年齢も近いということで、親しく話す間柄だったのではないでしょうか。
なお暗号部には、特務士官のほか、若い大学出身の予備士官2名(竹内秀彦少尉〔東京〕、渡辺光男少尉〔不明-生存〕-第3期兵科予備学生通信班出身)がいました。
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クロンシュタット様へ (酔漢です )
2010-02-04 14:09:48
中学3年生でした。
わずかではありましたが、興味もありましたので、話は聞いて解りました。
ですが、古村さんや清水さん原さんがどんな仕事をしておられましたか具体的には解らないでおりました。もう少し知識があれば他に聞きたいこともあったのでした。
そちらは雪が凄かったのですね。
湘南も降りましたが、すぐ消えました。
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おせっかい焼き様へ (酔漢です)
2010-02-04 13:37:09
祖父の名がございます。
「手元に資料がなく不明」その御仁です。
姓名知れますが、お知らせいたします。
また高橋仁子少尉は岩手県。鈴木藤二郎少尉は福島県のご出身。2F横須賀鎮守府戦死者で通信は、東北だったと気付きます。
「2F通信室は東北訛りが標準語?」だったかもしれません・・・勝手な想像です。

公報に関しては、その後語ります。

度々のお知らせありがとうございます。
今後のよろしくお願い申し上げます。
返信する
ひー様へ (酔漢です)
2010-02-04 13:30:55
燃料の事につきましては、本日(2月4日)更新分で少しばかり語りました。
これにも、歴史の絢がございます。
歴史を紐解きますとたった数日で大和の運命が決定されていった過程です。
7日が近づくにつれ、改めて「重い課題」と感じるようになりました。
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昨日の雪掻きで腰が・・・ (クロンシュタット)
2010-02-03 06:09:41
靖国神社の合同慰霊祭に参加された頃は、かなりお若い時分だったのでしたね。
私がその年代で参加しても、わけもわからず、ぼんやりしてしまっていたかもしれません。
考えてみれば、当日前後はまさに私の大学入学式の頃です。
同じ空の下、それもごく近距離にいらっしゃったのですね。

矢矧や大淀など、大戦末期であっても一流の巡洋艦を建造した事実には頭が下がります。
通商破壊とシーレーン防衛用に水雷戦隊を大増備すべきだったとの論もありますが、本来の海軍思想からはなかなか踏み出せなかったのでしょうね。

父親は陸自退官直前に1階級(半階級?)特進しました。

返信する
戦没者名簿 (おせっかい焼き)
2010-02-02 10:29:54
私が持っている「特別攻撃隊全史」(特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会、H20年発行)所載の「第二艦隊沖縄出撃時戦没者名簿」によれば、宮城県関係として、第二艦隊司令部関係者16名、「朝霜」関係者20名が記載されています。同書には「本書が収録した第二艦隊沖縄出撃時の戦没者の人数と氏名は、遺憾ながら不完全であることを認めざるを得ない」と記述されていますので、第二艦隊司令部関係者16名には、2名の脱漏があることになります。
 
古いノートを見ましたら、沖縄海上特攻で戦死した士官の進級辞令をメモしたものがありました(兵曹長から少尉に任用された人はメモしませんでした)。
進級辞令はいっぺんに出るのではなく、何回かに分けて載ります。本辞令は内容から横須賀鎮守府在籍者のみを対象にしたことが分かります。所属は1名だけ除いて全員2F司令部です。

海軍辞令公報甲第1990号 昭和20年11月24日
〇昭和20年4月7日
海軍大尉中村太門(ホ166)
同   村野金三(ホ705)
同   山形安吉(ホ717) 
任海軍少佐

海軍中尉猪股慶蔵(ホ1761) 
任海軍主計大尉

海軍少尉高橋仁子(ホ1923) 
同   鈴木藤二郎(ホ2052) 
同   三嶋正造(ホ2398ノ3)
同   山居善介(コ1286) *冬月で戦死
任海軍中尉

海軍主計少尉毎沢信寿(ホ4863)
任海軍主計中尉

(ホ166)などは各個人毎に割り当てられた電報符で、ホは現役者に、コは予備役編入後召集された者に付きます。
山形大尉は海軍乙事件(古賀GF長官らの遭難事件)で助かったGF司令部職員3名のうちの1名です(あとの2名は福留参謀長、山本作戦参謀)。山形大尉は乙事件当時GF司令部附(中尉)で、掌通信長でした。山本作戦参謀は2F首席参謀になった人です。
高橋少尉、鈴木少尉は高等科暗号術の出身、三嶋少尉の専修術科は手元に資料なく不明。
この中に御祖父がいらっしゃるのですね。
上記のとおり昭和20年11月24日の辞令公報に登載されたわけですが、戦死の認定が昭和20年11月までずれ込んだのか、単に公報への登載事務が遅れ、11月になってしまったのかは分かりません。
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やはり燃料 (ひー)
2010-02-01 21:00:43
そうそう、冒頭の「出身件別」県が誤って変換されたようです。
自分の紹介ありがとうございます。
燃料の問題は本当に深刻だったようですね。
3案であれば御祖父も戦死せずに済んだのでは・・・と思ってしまいますね。
結果出撃までの経緯を次は語られますかね?
燃料は片道だけの給油と聞きます。
それは自殺行為、やはり特攻と言われても仕方が無いのでしょうか?・・・
結末を知りながらの出港は複雑な思いです。
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