酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

祖父・海軍そして大和 奮戦スレド徒死スルナカレ 酔漢的史観 二

2010-03-18 12:31:29 | 大和を語る
やはり、これはどうしても「解けないわだかまり・疑問」なのでした。
今一度ご紹介いたしましょう。
「出撃兵力及び出撃時間は貴要望通りとするが、燃料については戦争指導の要求に基き聨合艦隊機密電通り二千トン以内にすること」(GF電令作6○6号 5日 1446)

これは、先に重油タンクの両側に溜まる帳簿外重油を積み込んで出撃することとなります。
整理します。
重油は水より浸透性が高く、重油タンクはその区分においては水密を十分にする必要がございます。「大和を生みし者達」でも語りましたが、大和の防水区画は完璧に仕上がっております。タンクには計測用の管(計測用測艙管)に測尺を差込み、油量と温度の測定を行います。その重油の搭載には、大和には六箇所ありましたが、最上甲板の取り入れ口から主管を通して重油タンクへ積み込みとなります。ポンプ圧力が直接タンクに加わらないように注意しなければなりません。また、油温度上昇による重油容積増大を考慮し約5%の余裕を見ておく必要もあるのでした。

上記は通常の状態です。
大和関連の書物を読んでおりますと「帳簿外燃料の補給に手押しポンプ使用」と記載されているものを多数拝いたします。ですが、これは「不自然な事だ」と気付きます。
(酔漢も記載いたしましたが・・・やはり疑問のままでした)
軍艦一隻の燃料を手押しポンプを使用ということは「どれだけの人力が必要か」と考えるわけでございます。
石油ストーブに灯油を入れるようには行かないのではないかと・・かように考えます。
これは、GF参謀小林儀作大佐の手記とされるところが大きい証言なのでした。
この事実をもう少し検証する必要があろうかと、本編といたします。

「日本海軍燃料史 燃料懇話会編 1972年 989頁より 抜粋」

巷聞風聞として伝えられる処によれば、沖縄へ向け突っ込んだ戦艦大和(重巡矢矧他、駆逐艦八隻)→間違いをそのまま掲載します。矢矧は「軽巡」です→以下の特攻艦隊は当時の国内燃料の欠乏状態から片道燃料しか持たずに出撃したと云われるが真相は次に記す様に燃料は満載で出撃したのである。以下は当時の聨合艦隊機関参謀であった機33期 小林儀作大佐の思い出である。

湾内に停泊し徒らに敵機の襲撃を待つより日本海軍の名誉にかけその最後を飾らしむる為、軍艦大和を沖縄に突入せしむる作戦がGF首脳部にて立案され軍令部と協議せらる。軍令部は現在国内の燃料貯油極度に減少し物資輸送の船舶の護衛艦の燃料も充分と云い難き状況にある。又敵の制空圏下の艦隊行動はたとえ沖縄に突入し得たりとするもその生還は期し難い、強いて本作戦を行う場合に於いても燃料は片道分しか渡せないとの強行意見である。早速GFに於いては作戦会議を開かれ本作戦実施の可否につき真剣なる討議が行われる。若手参謀の多くは「本作戦の成果等に関する論議は暫く措くとしても、たとえ生還の算少なしとは伝え燃料を片道しか与えないとは武人の情けに非ず」として反対意見を述べたるもGF首脳部は本作戦決行に決す。筆者は昭和20年3月20日大海司令作戦命令伝達の為、派遣せられる草鹿竜之介参謀長に強いて随行を願い、4月2日桂島碇泊中の軍艦大和に至る。機関参謀松岡茂少佐に「今回の出撃の為の燃料補給は自分が行う」との了承を取り付け直ちに呉鎮守府に行く。機関参謀今井和夫中佐に会い天号作戦決定迄の経緯を述べ、往復燃料搭載の事を懇請せる処、往復燃料を補給する。
(注→「草鹿竜之介参謀長」とございますが「草鹿龍之介参謀長」が正しいのです。そのまま掲載いたしました。誤字であろうと思います)

上記、読みますと、疑問に思う点がいくつか出てまいります。

「4月2日桂島碇泊中の軍艦大和に至る」以下の証言では、小林儀作機関参謀は「大和沖縄突入作戦」がこの時点で決定されていたかのような表現をいたしております。
そして、同日、草鹿参謀長、作戦甲参謀三上作夫中佐、航空甲参謀淵田美津夫大佐らと徳山まで同行していると記述しております。
この段階では草鹿龍之介参謀長、三上作夫中佐とも「まだ本作戦を知らされていない」としております。
草鹿龍之介参謀長が「大和沖縄行き」を知った経緯については、以前語っておりますが、今一度その証言を見てみます。

4月5日九州鹿屋基地内電話です。
・・・ところが、私の留守の間に、これを斬り込ます(大和以下2F)ことになって、
「このことはもう既に豊田長官も決裁をされたが、参謀長のご意見は如何ですか」(神重徳大佐)
「決まってから参謀長の意見は如何ですかもないもんだ。決まったものなら仕様がないじゃないか」と憤慨したが、さらに悪いことには私は九州にいるので、これが引導わたしをさそうとする。

小林大佐が草鹿参謀長より先に本作戦を知っていたとすることは「ない」と考えるのが普通です。組織上ありえないことです。これをどう捉えたらよいのでしょうか。GF参謀長と参謀達が知らない事実を機関参謀が知っているということはありえないと考えます。
また2日の段階では大和は徳山沖停泊中であり桂島ではない事実があります。
当時、特に3月28~4月3日にはB-29による空襲が激化し、徳山から呉周辺は投下された機雷により完全封鎖状態だったわけです。
佐世保行きがなくなったのもこの機雷封鎖が原因だったわけです。
米軍は「大和以下水上部隊を釘付けにしよう」と着々と機雷封鎖を行っておりました。
「呉空襲」記録によりますと合計281個の機雷が投下されております。
特に、2日は広島にB-29が十機飛来、78個ものの機雷が投下されている事実がございます。この昼間。小林儀作機関参謀は大和を訪問その日に三田尻沖から呉まで往復しております。これは安全にたどり着ける保障はどこにもないことは明らかでございます。
例えば3日。少尉候補生達が呉から大和へ向います(矢矧へも)最初の注意(宮島駅で)は「機雷の接触には充分注意せよ」でした。このような海域を本当に航行できたの」でしょうか。酔漢疑問を持たざるを得ません。
この海域が安全に航行できるのは三月以内であるわけです。
もし、話が事実として内容から先に検証すれば、燃料問題での大和訪問は3月中ではなかったかと私見するわけでございます。
ですが、これらは三上作戦参謀の手記を正しい史実としている仮定です。
逆の見方をすれば(→小林機関参謀を正しいとするならば)三上作戦参謀の証言が違っているとなります。(草鹿参謀長証言もしかりです)
これが先の更新分で酔漢が申し上げました最初の仮説でございます。
更に、小林機関参謀の手記を見てみます。

一 片道分は帳簿外重油をす(タンク底の重油在庫は報告し非ず。之を集めれば約五万竏(キロリットル)の在庫あり)
二 補給命令では片道分の重油搭載を発令したが緊急搭載で積み過ぎた余分を油パージに吸い取ろうとしたが出撃に間に合わずその儘(まま)にしたとする事に快諾を得、呉鎮守府先任参謀井上憲一大佐、参謀副長小山敏明大佐、参謀長橋本象造少将の承認を得る。直ち大和に帰艦し松岡参謀・先任参謀山本硲二大佐にその旨報告非常に喜ばれる。
燃料搭載量は合計約10500竏で大和4000竏、2sd(二水戦)矢矧1300竏駆逐艦(冬月、涼月、磯風、浜風、雪風、朝霜、初霜、霞)は各艦共満載である。
本件は正式に残った文書は全然なく戦後刊行された幾多の戦記書にも「片道航海」「無情の海軍」との謗を受けているが事実は以上の通りである。生き残る唯一の証人として以上の事実を銘記する次第である。

ここでGF電令作 第6○6号を再び見てみます「1YBは6日朝燃料を2千トン補給スベシ」
5日夜半から6日未明での燃料搭載につきましては前回語りました。
再度の命令です。GFは二度燃料について銘記した電令を送っております。
要約すれば下記の通りです。
4月6日 GF電令作 611 改定 
出撃兵力及び出撃時期は貴要望通りとする
燃料はGF機密○五一四四六番電通り二○○○屯以下。

この時点で大和は余分な燃料をおろしておりません。「貴要望」とは「駆逐艦の増強(二隻)」のほか「出撃時刻の決定は2F」そして「燃料の扱い」の3セットとなっていることが見えます。
はたして「能村副長手記」をみますと。

大和の保有燃料は、呉出港前にタンクの底をはたいて搭載した約6千トン、聨合艦隊からの命令は、沖縄までの片道分すなわち三千トン余。巡洋艦「矢矧」はすでに満載だったので、「大和」が無事沖縄に到着、敵泊地へ突入できるよう、途中護衛の任に当たる駆逐艦八隻全部に満載させた。
(能村次郎 大和副長 手記より抜粋)

この時点で副長は燃料搭載量を把握しております。これは当然知りうる情報ではあるのですが、GFの命令とは異なる燃料搭載量なのです。
この量は命令違反にはならなかったのでしょうか。
言い訳を用意したいところです。

 緊急を要したため積み過ぎた。降ろそうとしたが間に合わなかった。(GFが問題にしたら)「帳簿外燃料は搭載しておりません」と言うしかないのだと考えます。
さらに、上記であればGF2Fとも顔が立ちますそして呉鎮守府も。(変な言い方で申し訳ございません)
出撃時刻とのかかわりは次回以降に語りますが、早めることによってGFからの雑音を封じたような行動を2Fはいたします。
この裏を手回ししたのが小林儀作機関参謀だったと考えます。

これが二つ目の仮説です。

それにしてもです。
全体を見ますと、こうではないのでしょうか。
酔漢は
「日本海軍の名誉」だの「燃料を片道しか与えないとは武人の情けに非ず」とか。
戦争指導者たる者がこうした動機で作戦立案されていた事実に驚愕するのです。
戦後の指導者が生き残りその証言を見てまいりましたが、小林大佐も三上中佐も史実を照らし合わせますと「くいちがい」が出てくるのでした。
検証が必要な記述もあるのですが難しいですね。当時の出張記録なんかがありますれば。
しかしながら、こと燃料問題についてもこれだけの問題になります。
整理の難しさを痛感いたします。


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11 コメント

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ご無事でなにより (クロンシュタット)
2018-06-14 04:36:39

返信する
mago様。コメントありがとうございます (酔漢)
2018-06-13 10:01:54
コメントありがとうございます。
自身のブログでありながら、コメントを記するのも約2年半ぶりです。
(クロさん、ひーさん。冬眠から少し覚めました酔漢でございます)
果たして、また、ご遺族の方と繋がりを持てました。このブログは現在滞っておりますが、(自身としては一区切りの意味がございます)知っておることはお応えしたく、コメントにてお返事いたしたく思いました。
mago様。ご実家は兵庫県でしょうか?
だと致しましたら、おじい様、松岡 茂少佐は、第二艦隊所属、機関参謀でいらっしゃいました。
昭和20年4月7日。大和と共に運命を共にされておられます。
文字通り、機関の最高責任者。機関に精通した一流の機関士であったと聞いております。
坊ノ沖海戦中、艦橋にはいらっしゃらなかったと見ております。野村副長と共に、第二艦橋にいらしたか、機関部の現場にいらしたのか。今のところ私も分かりかねます。
しかしながら、大和は最期までスクリューが稼働していたとの証言が多数であり、戦闘中の機関員の奮闘、いかばかりか想像にかたくありません。おじい様ご自身も、最後の最期まで責任をまっとうされていたのだと考えております。
世界一の軍艦大和の機関の最高責任者である松岡中佐。記録が少ないのが不思議ではありますが。機関と通信、暗号は、最後まで部署を離れることが出来ないのが運命でありますから(私の祖父も同様でございます)、生還者がおりません。ですから、その最期がどのようであるのか、証言する人がいないのが現状です。
それと、コメントにございますお葉書ですが、「沖縄」では、不自然で、「呉」ではないかと推察する次第です。第二艦隊司令部が大和にそれを移し、その葉書には「呉局ウ556F」となっていると思います。
大和ミュージアムにはおそらく御遺影があると思います。
また、厚生労働省援護局に手続きをお取りになれば、おじい様の経歴が開示され、コピーを送ってくれると思います。
このブログにも掲載しておりますので、ご参考下されば幸いです。
mago様。おじい様は、先にももうしあげました通り、海軍随一の機関のプロフェッショナルであるのです。大和の心臓を預かっておられた優秀な方であったと私は考えております。
返信する
随分昔の記事にすみません (mago)
2018-06-08 01:51:50
突然申し訳ありません。

松岡茂少佐の出身や年齢など分かる資料があればお教え頂きたく存じ上げます。

私の祖父は海軍の人間であり、松岡茂と申します。祖母が10年以上前に亡くなりましたが、祖父に関しては偉いさんやった、としか教えて貰えず、当時祖母に届いていた葉書は沖縄駐屯場だった様な記憶があります。
何せ形見になるものがなく、話を聞く相手もおらず仕舞いです。
非常にお手数をおかけしますが何卒よろしくお願い申し上げます。
返信する
過去の戦訓 (丹治)
2010-03-30 16:08:26
クロンシュタットさんがお書きの通り、
終戦後しばらくの間は旧海軍が掃海活動を続けていましたね。
ですから海上自衛隊の掃海能力は世界的にも水準が高いと聞きました。
ペルシャ湾の機雷除去に海自の掃海隊がはけんされたのもむべなるかなです。

現在の海上自衛隊は、全体が一つの対潜部隊のようになっていますね。
これも艦船を片っ端から潜水艦にやられた太平洋戦争の苦い経験に基くものでしょう。

日露戦争において、日本は旅順とウラジヴォストークを根拠地とするロシア太平洋艦隊に海上輸送路を侵されていました。
そして旅順港を封鎖しようともしています。
また第一次世界大戦では第二特務艦隊を地中海に派遣して、
船団護衛と対潜掃討に従事しています。
ドイツの無制限潜水艦戦は、イギリスをあと一歩の所まで追い詰めました。

これだけの敬虔を積みながら太平洋戦争において通商破壊と海上輸送路の確保にあまり注意が働かなかったのは、
やはり日本海海戦が一方的な完全勝利に終ったことによるものが大きいと思います。
日本側には撃沈された艦艇なし(水雷艇三隻の沈没は、波浪による転覆です)。
バルチック艦隊はほぼ全滅。
しかも日本海の制海権獲得という戦略目的も達成しているのですから。

第一次大戦でも確かに艦隊決戦は生起しました。
スカゲラック海戦(済みません、ドイツ贔屓なもんで)ですね。
この海戦はとんでもない遠距離での主砲の撃ちあいだったようで、
砲弾はほとんど垂直に落下したそうです。
この海戦から日本海軍が引出した戦訓は、
主砲の口径を大きくすることと仰角を上げること。

なおこの海戦では双方が勝ちを主張しています。
ドイツ人にとっては
シェーア提督率いる大海艦隊が英国本国艦隊を撃破した海戦です。
しかし戦略的に見れば、どうしてもドイツの負けですね。
英国海軍の封鎖を突破できず、
大海艦隊は本国の軍港に逼塞したままだったのですから。
しかもこの海戦は、第一次大戦の帰趨に影響を与えませんでした。

日本海軍がこの点に気づかなかったことが、
返す返すも惜しまれます。
戦略レベルで物を考えられぬ傾向は、
この頃からあったのですね。


返信する
Unknown (ひー)
2010-03-26 17:34:18
日本海軍燃料史なるものがあるとは驚きでした。
正しい記録や史実を検証するのは、大変なことですね。
記録の裏付けもさることながら、記憶の中の情報はいろんな角度からの推察も必要ですね。
返信する
謀略 (トムくん)
2010-03-26 05:50:16
憶測でものを言うのも気が引けますが、
片道燃料だったというのは、「日本軍=悪」
を、日本国民に植え付けるための
GHQの謀略(デマ)
だったのではないかと推測しています。

徳山には、小学校の頃、2年間住んでおりました。徳山湾沖から大和が出撃したことを知って
いる人は極めて少ないです。60代の人でも
全然知りません。

返信する
トム様へ (酔漢です )
2010-03-25 18:34:16
駆逐艦を満載にしているのですよね。
これも、後程語りますが、理由があると考えました。以前徳山にいらしたのでしたでしょうか。トム様のブログには戦闘中の「大和」の写真がございました。
「片道」であったことの方が、後のインパクトが強かったという意思があったのでしょうか。
返信する
クロンシュタット様へ (酔漢です)
2010-03-25 18:28:41
鶴岡八幡宮の大銀杏が倒木となったと父に話ました。父の頃はもちろん健在。
そして、「横須賀さいか屋」の五月十八日での閉店も。
「なんだや、横須賀の伝統がねくなっぺや」
とは、本人の言葉でした。

四月七日が近づいております。
正直、どのようなブログになるのか、書いている本人にも予定だけなのでした。
返信する
燃料 (トムくん)
2010-03-22 18:41:24
こんばんは。
児島襄の「戦艦大和」によれば、満載(6300トン)の63%の4000トンの燃料を積んでいたとか。4000トンされば、27ノットでは4000キロ航海できるとのことです。19ノットでは7800キロ。
徳山沖から沖縄までが750キロで、数往復できる燃料を積んでいたと書いてあります。
満載せずに、半分入れたのが片道になったのか、実際のところは分かりませんね。
返信する
東北人は情の世界で育ちました (クロンシュタット)
2010-03-19 05:58:54
機雷の除去には危険と手間のため、戦後しばらくの間続けられていましたね。
戦略爆撃に続く港湾航路の機雷封鎖。戦い方が理詰めで徹底しています。
大型艦同士の砲術戦という一見華々しい戦闘に固執していた帝国海軍とは大人と子供の違いがあります。
そのあたり、バトルオブブリテン当時の独空軍の無定見な戦い方に共通するイメージがあります。

井上成美や大井篤が東北の城下町出身という共通項に興味をおぼえます。
弘前や盛岡、(会津)若松といった地がはぐくんできた素朴な反骨精神を強く感じます。

話は飛びますが・・・鶴岡八幡宮の大ケヤキが再生されることを願っております。
その存在感とともに、「歴史の証人」「教科書に載っている」という価値が、私にとっては圧倒的な意味を持っています。
昔、新聞の死亡欄で井上成美や淵田美津夫の記事を読んだときの感覚に共通するものがあります。
まあ、木と人間とでは意味合いが異なるのではありますが・・・
返信する
確かに・・・ (丹治)
2010-03-18 16:21:26
太平洋戦争当時の指導部の発言を見ると、
そういった言葉が多く出てきますね。

台湾沖航空戦の大戦果ですが、
たとえば当時のパイロットの練度では
撃墜された味方機の炎に浮びあがった艦影を見て
「敵艦轟沈」
と判断した例が相当数あったのではないかと言われています。

GF航空参謀の淵田大佐などは、さすがに
「おかしい、いくら何でも出来すぎだ」
と思い、
我が方の戦果を四割掛けぐらいと見積ったそうです。

しかし
「戦火をくぐって生還した隊員の報告を割り引くことはできない」
ということで、生還者の報告そのままの戦禍発表になりました。

その発表がその後の戦争指導にどのような影響を与えたかは、
申すまでもありません。

どうも日本の戦争指導を見ていると
「・・・するに忍びない」
「敵ハ・・・セルモノノ如シ」
という情と希望的観測に流されているような気がしてなりません。

一切の情と希望的観測を排した冷静なな情勢分析があってこその国家の舵取りのはずです。
井上成美大将や大井篤大佐のように理詰めでものを考え冷静な情勢分析のできる人がとかく疎外されがちなのは、
日本型組織の体質でしょうか。
この体質、今に到るもほとんど変っていないように思われます。

ちなみに井上大将も大井大佐も東北出身ですね。
大井大佐など、井上大将以上に身も蓋もない物言いをする人だったという話も耳にしたことがあります。

念のため申し上げておきます。
はっきり言って小生、自分は情の男と思っています。

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