酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

ノグチⅥ

2014-04-21 09:50:32 | もっとくだまきな話
STAP細胞論文に関する一連の報道に触れます。
実は、ノグチの話が滞った理由の一つでもあるのです。
この研究論文がニュースになったときから、注視しておりました。
あまりにもセンセーショナルな科学のニュース。
世紀の大発見が、日本人であるばかりでなく女性であった事も。
その所属が理化学研究所であったという事も。

先だっての理研の記者会見は、科学者の目では「ああいった世界」なのでしょうが、一般人の常識とはやはり一線を引かなくてはならない。
こんな感想を持ちました。
「くだまき」では理研の創設メンバー「鈴木梅太郎」「寺田寅彦」「中谷宇吉郎」「仁科芳雄」・・を語ってきた経緯があります。
戦後解体されたとはいえ、その研究環境、ポリシーは現代でも受け継がれている。そう考えておりました。
仁科芳雄は「科学者達の自由な楽園」と評しておりました。

話が理研になってしまいました。本論に戻りましょう。
酔漢が「ノグチ」を語ったその結論をここで申し上げます。
本来ならば最終章でお話しをするつもりでおりましたが、STAP細胞の騒動で、ここでお話しする事といたします。

「ノグチ」最大の功績は何か?
細菌学の限界を証明せしめたこと。
こうです。

ノグチの論文は、死後ことごとく否定されます。
それは、黄熱病でもそうですが、光学顕微鏡では発見することが出来ず、ろ紙さえも通過してしまう「ウィルス」の発見によるものです。
再三、ノグチの技術、神業的な実験技術について触れて来ました。
だれもまねできない高度な技術です。
もし、ノグチの存在がなければ、さらに、細菌学的手法でもって、ウィルスが原因である病気の追及に人類は時間を費やしていたのではないか。
これが、「くだまき的結論」なのです。
彼の論文を検証することは当然世界の研究所で行われます。
しかしながら、どれも成功を見ません。
この部分は先のSTAP細胞発見の論文と似ております。
しかし、大きな違いは「あのノグチだから出来たことで我々には技術がないから」と世界がそれだけで納得したことにあります。
孤高の科学者となってノグチの悲劇と言えます。
証明、検証が出来なければ、その存在は危うい。「科学的手法のいろは」を無視した状況です。
STAP細胞の論文はしかし、ねつ造問題を伴い、別な方向へ向かっております。
ノグチの論文にはそれは全くありません。
同じ土俵で語ることは、失礼ではあるのですが、どうにも(と言いますか、素人目の考察であって、ここはご容赦いただきたいところではあるのですが)共通している部分があるように思えて来ます。
そんな事を考えておりました。

ロックフェラー財団。会議室。それにしても、この組織の巨大さは何だ!一国の政治力、統治力、財産をも上回る組織ではないか。
調べて居る間に酔漢が感じた事・・・

「であるから、スエズ運河を航行すらう際には短時間、できるだけ短い時間で通過することが肝要なのです。何せ、一隻の貨物船で5名もの感染者を出して4名が死亡したわけでして・・・」
「そんな、話しはもう何度も聴いた!聴いたぞ!先週の会議でも同じではないか?何名発症して、何名死んだか!そればかりだ。何の対策も立てていない。証拠ではないか!」
「ですから、蚊の駆除を中心とした対策を立てている最中でして・・・蚊さえいなくなれば人類を『西半球の恐怖』『赤道の悪魔』から解放出来るかと・・」
「そんな事で解決できたら黄熱病はとっくに無くなっているはずじゃないか!どうして無くならないのだ!」
会議の主催は、「ロックフェラー保健局」参加者には「ロックフェラージュニア」自身もおります。
「ゴーガス君。君は以前から撲滅可能と報告をくれているが?どうだね?」
「黄熱病委員会委員長ゴーガス」へ質問を振ったロックフェラーでした。
「実は我々の手では、どうしようもない問題が一つあります」
「何だね?」
「どうしても、医学的見地、研究が必要という事で・・・そこでフレクスナー医学研究所所長に今回は来て頂いたわけです」
「ほーーーそういう事だったのか?で、フレクスナー君。ゴーガス君は、彼を貸してほしい・・こう言っているようだけど・・」
フレクスナーは、にやりとします。
「実は、彼をすでに呼んでおります」
会場が騒がしくなります「おい!彼って・・?」「ノグチに決まっているじゃないか!」「大病していたと聞いていたが」「復帰したらしいぞ」
「と、言うことだが・・・どうする?ノ・グ・チ!」
ドアを開けて、ノグチが会議室へ入って来ました。

コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« たまには・・・・良いのでは... | トップ | 「ごちそうさん」に、ごちそ... »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
奇跡は起こるもんじゃなく起こすもんだと 手当次第ボタンがあれば連打した  (ある友人)
2014-04-29 12:16:10
科学実験の要諦は同一条件下ならば他の研究者にも再現が可能な事です。町工場の他には真似できない優れた技術とか芸術家の作品とか、それらワンアンドオンリーのものの根本は造形力であって、自分で作りだす能力です。科学に想像力は必要ですが、そのような造形力は不要です。
野口の研究は再現性がないから評価されなかったのであって、結果として間違っていたからではありません。科学はトライアンドエラーの繰り返しであり、だからこそ後に誤っていたとされる研究でノーベル賞を受賞しても栄誉を剥奪される事はないのです。
ちなみにウイルスは理論的には野口が十代の頃から提示されています。単に発見は電子顕微鏡の開発を待つ必要があっただけで、理論的予測はされていました。ですがフレクスナーは基礎医学研究を先行するドイツから米国に引き寄せる思惑があり、それが生み出す利益からロックフェラー財閥も話に乗った。そして野口にもコッホを上回る野心があった。ゆえに彼らは細菌にこだわったんです。彼らはいわば新興勢力でした。それは世界史の流れにも乗っていた。日本は日露戦争以降、アメリカは第一次大戦以降に勢力を増した国ですからね。特に日本では国内の勇ましい空気と野口の勢いにのった姿が重なり、更には理解されない新興国とその才能という図式は、彼を国内で過大に評価する流れとなったのだろうと考えます。新興国では今もありがちですね。そういった歴史的観点も重要だと思います。科学史としてみれば確かにウイルスは細菌の研究から見つかりました。しかしそれは似て否なるものであって、細菌学からウイルス学に発展したのではなく、別のカテゴリーが発生しただけです。ゆえに細菌学の限界を証明した事にはなりません。たとえば細菌兵器としての研究は旧日本陸軍でも、そして今でも世界で続けられていますから。
返信する

コメントを投稿

もっとくだまきな話」カテゴリの最新記事